石造美術紀行

石造美術の探訪記

川勝博士の学恩に感謝し合掌

2009-04-01 09:26:39 | ひとりごと

川勝博士の学恩に感謝し合掌 (ひとりごとです)

京都市上京区寺町通今出川上ル2丁目鶴山町の本満寺を訪ねました。清浄感のある落ち着いた雰囲気のお寺で、日蓮宗の本山。近衛家との縁が深く、元々は今出川新町付近にあったとされ元本満寺の地名も残っているとのことです。天文法華の乱による回禄の後復興、天文8年に現在地に移転したとも天正年間末頃の豊臣秀吉による都市整理で移転したとも言われているようです。01本堂の脇には江戸初期の石造廟屋、境内東側の墓地には、有名な戦国武将山中鹿之介幸盛の墓所や室町時代の石造宝塔群があります。03実はお寺に来た目的はこれらの石造物の見学ではなく、川勝政太郎博士の墓所へのお参りにありました。石造美術の価値を世に広めるとともに体系的な研究分野として切り拓かれた川勝博士のお墓は、こじんまりとした風雅な五輪塔でした。基礎の銘によれば生前に家のお墓としてご自身が設計・造立されたようです。さすがにそこいらでよく見かける五輪塔形の墓標とは異なり、その古雅な佇まいは平安末期から鎌倉前期頃の風を感じさせるものです。ご存命であれば100歳を超える方ですので、生前に親しく馨咳に接する機会はありませんでしたが、書物を通じて石造美術の魅力について大いに啓発を受け、その学恩に与かる端くれですので、かねてよりお参りしたいと考えていました。感謝の気持ちを込めて合掌いたしました。昭和53年没、享年74歳。瑞光院石洞日政居士。せっかくですので本満寺さんの石造美術関係にも簡単に触れておきます。本堂脇の石造廟屋は結城秀康の正室で、秀康没後烏丸光広に嫁いだ蓮乗院鶴姫の廟です。02元和7年(1621年)の没後間もなく造立されたものと考えられ、越前産の笏谷石を使った建築的な構造を見せる見事なものです。近年修復されたようで内部には宝篋印塔があるようです。基壇部にある格狭間の形状は04よく時代を表しています。高野山にある最初のご主人である結城秀康の廟もよく似た立派な笏谷石製のものです。近江清滝の徳源院の京極家墓所にも同様の石造廟屋があります。江戸時代初期に一部の大名家等にこうしたスタイルが流行したのでしょうか。また、墓地の東端に石造宝塔が並び立つ一画があります。中央にある一際造形に優れた塔は、近衛家出身の日秀上人の開山塔で、宝徳2年(1451年)の示寂年月の刻銘があり、没後間もない頃の造立と考えられるようです。花崗岩製で基礎に輪郭・格狭間を配し、塔身は首部と軸部を一石で彫成、首部と軸部の間に縁板(框座)を回らせ、軸部の四方に開いた扉型を薄肉彫りし、各扉型内の長方形にくぼめたスペースに法華三尊などの刻銘が見られます。笠裏に二重の垂木型と隅木を薄く表現し、隅降棟、二重の路盤を刻みだす本格的なもので、惜しくも相輪先端を欠いています。笠裏の垂木型が薄く軒下が割合平らで軒反の力が弱いこと、格狭間の形状に室町時代の特徴がよく表れています。この開山塔の外にもほぼ同規模のよく似た歴代の石造宝塔4基がありますが、いずれも時代相応の細部表現が見られ、やはり開山塔が最も優れた造形を示しています。鎌倉時代の石造宝塔との違いを見て取ることができます。法華経の教義に端を発する石造宝塔が、日蓮宗の開山塔として採用されている点は注意しておく必要があります。ただ、寺歴を考慮すると、これらの石造宝塔群もお寺といっしょに移転したと考えるべきなのでしょう。

ちなみに川勝博士は奈良興福寺東金堂前の石燈籠を設計されています。設計川勝政太郎と刻銘があります。注意してご覧になってみてください。菩提山正暦寺の一番大きい宝篋印塔の笠下の別石の段形部分、京田辺市普賢寺の観音寺の層塔や伏見稲荷の石燈籠の復元も博士の設計によるものです。写真上右:七難八苦を与えたまえと月に祈ったかの尼子十勇士、鹿之介さんのお墓がこれです、ハイ。

なお、この写真に限らず、当ブログに掲載の全ての写真は、クリックしていただくと少し大きく表示されますのでご参考までに…。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメントを頂戴し有難うございます。 (猪野六郎)
2009-04-08 22:24:31
コメントを頂戴し有難うございます。
stj-tomo様の「石造文化財in九州」
詳しい内容を精力的にUPしていただいており、たいへん興味深く拝見しております。
「新しい時代の心を持って造る」という進取の精神はいかにも川勝先生らしいように思います。
もっとも小生が勝手に思い描く川勝先生像なのかもしれませんが・・・。
知人によれば、最近、石造物を見直す動きが少しづつ(一部には急速に)出てきているとのことです。
しかし、どうもそうした中で川勝先生が正しく評価されていないような気がしてなりません。
理論や研究過程の総体はあまり評価されず、末節の粗を見つけて全てを否定するような言い方や「美術」系は取るに足らないといった扱いを受けているようで、これはいかがなものかと思います。
著作にしっかり目を通せば、研究内容の根幹部分はほとんど今も通用すること、むしろ今日までの大きい流れを形づくっている。そして「美術」といっても美的価値だけを物差しとして優品ばかりを相手にしているということが誤解であって、史料としての価値をしっかり踏まえ考古学をはじめ歴史学や民俗学などの手法を駆使して等閑視されてきた石造物に光を当てようとされていたことが理解できると思います。もちろん先生とて神ならぬ身ですので、今日的には疑問に思われるところもありますが、時代を考えればその先進性が理解できるはずです。むしろ川勝先生没後今日までの成果の蓄積を踏まえてなおこの程度かと当時と比較し今日の研究レベルの相対的な遅れが気になるほどです。
とにかく川勝先生はもっともっと正当に評価されて然るべき偉人と信じて疑いません。
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本満寺のこと、懐かしく拝見しました。亡くなられ... (stj-tomo)
2009-04-07 14:11:50
本満寺のこと、懐かしく拝見しました。亡くなられて数ヵ月後のお参りでした。生前に話されていた五輪塔をその時初めて拝みました。新しい石塔は、過去のものを写すのではなく、新しい時代の心を持って造る、ということだったと思います。
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