神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

乗客のアイドル、ひたちなか海浜鉄道の駅ネコ「おさむ」

2018年06月21日 | 日記

 

ひたちなか海浜鉄道(茨城県ひたちなか市)の駅ネコ「おさむ」は、乗客らの“アイドル”だ。

平成21年7月に那珂湊駅付近で保護され、それ以降、同駅に住むようになった。年齢は推定16歳。

ホームそばで日向ぼっこをしていたおさむは、ブラシを手にした駅員に呼ばれて、まっしぐら。

ブラシで毛並みを整えてもらい、満足そうにしていた。

「おさむ」について語る ひたちなか海浜鉄道社長の吉田千秋さんの横でおさむは、水飲みに夢中だった。

 

 

乗客のアイドル、ひたちなか海浜鉄道の駅ネコ「おさむ」

 

MMM×USEN企画-僕は駅猫おさむ~おさむの毎日~【ひたちなか海浜鉄道湊線那珂湊駅 駅猫おさむソング】

 

 

 

 


三位一体・・・聖書の教えではありません。

2018年06月21日 | 日記

 

 私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目覚めよ」誌・「ものみの塔」誌
より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。







【三位一体】

定義: キリスト教世界の諸宗教組織の中心的な教義。アタナシウス信経によれば,
神聖な三者(父,子,聖霊)が存在し,各々は永遠で,全能であり,
いずれも他より偉大でもなければ,小さいわけでもなく,各々が神であり,
しかも一緒になってひとりの神として存在していると言われています。
この教義に関する他の説明では,これら三“者”は異なった別個の存在ではなく,
神の本質が内在する三つの様式であることが強調されています。
ですから,イエス・キリストは神である,あるいはイエスと聖霊は神であるという
信条を強調する三位一体論者もいます。
聖書の教えではありません。

 


三位一体の教理にはどんな起源がありますか

新ブリタニカ百科事典はこう述べています。
「三位一体という言葉も,このような組織立てられた教理も新約聖書の中には出ておらず,
またイエスやその追随者たちも旧約聖書の中の,
『イスラエルよ聞け。我々の神,主は唯一の主である』という
シェマー(英文,Shema)に異議を唱えようとはしなかった
(申命 6:4)……この教理は数世紀にわたり,幾多の論争を経て徐々に発展した。
……4世紀の終わりまでに……三位一体の教理は実質的にその形を整え,
以来その形を保持してきた」
(1976年版),小項目事典,第10巻,126ページ。

 


新カトリック百科事典はこう述べています。
「『三つの位格における唯一の神』という定式は4世紀の終わり以前にはしっかり定着してはおらず,
確かにクリスチャンの生活や信仰告白には十分取り入れられていなかった。
しかし,三位一体の教義という名称で最初に呼ばれてしかるべきなのは,まさしくこの定式である。
使徒後教父の間には,こうした思考法もしくは観点にわずかでも近づくような事柄とされるものは一つもない」
(1967年版),第14巻,299ページ。

 


アメリカーナ百科事典にはこう記されています。
「キリスト教はユダヤ教から派生しており,ユダヤ教は[神は唯一の実在者であることを信ずる]厳密な意味での一神論であった。
エルサレムからニケアまでの道はおよそまっすぐな道ではなかった。
4世紀の三位一体論は神の性質に関する初期キリスト教の教えを正確に反映したものではなかった。
それどころか,その教えから逸脱したものであった」
(1956年版),第27巻,294ページ左欄。

 


新世界事典によれば,「古代の諸民族の時代にまでさかのぼる古い三位一体説の単なる改作にすぎないプラトンの三位一体論は,
合理主義の哲学に基づく属性の三位一体論であったらしく,
キリスト教会が教える三つの基質もしくは神聖な位格はこれから生まれたものである。
……このギリシャの哲学者[西暦前4世紀のプラトン]の聖三位一体の概念は……古代のあらゆる異教の宗教のうちに見いだすことができる」
(パリ,1865‐1870年),M・ラカトレ編,第2巻,1467ページ,フランス語。

 


イエズス会のジョン・L・マッケンジーは自分が編さんした「聖書辞典」の中でこう述べています。
「本質の一体性のうちに位格を有する三位一体は,ギリシャの哲学用語である『位格』および『本質』という語を用いて定義されている。
実際,これらの語は聖書には出ていない。
三位一体に関する種々の定義は多年にわたる論争の結果として生まれたもので,一部の神学者はその論争において,
これらの語や,『本質』や『実体』その他の語を誤って神に適用したのである」
(ニューヨーク,1965年),899ページ。