私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目覚めよ」誌・「ものみの塔」誌より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。
『あなたの手の届くところにある富Ⅱ』
もう一つ,あなたの手に入る,あなたの手の届く範囲内にある別の形の富があります。
それは立派な業,つまり愛他的な行ないをするという富です。
物に富んでいる人々は,テモテ第一 6章18節で,「善を行ない,りっぱな業に富み,惜しみなく施し,すすんで分け合い」なさいと命ぜられています。
イエス・キリストも,山上の垂訓の中で,天に宝を積むことを勧め,また人が他の人々に善を行なうとき
に天の父がその人に報いてくださるということを語って,同様の考えを示されました。
「しかしあなたは,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。
あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう」。
(マタイ 6:3,4)
「むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず,盗人が押し入って盗むこともありません」。
(マタイ 6:20)
そういう親切なあわれみ深い行ないによってその人は満足と他の人々の感謝の言葉とに富みます。
一例をあげてみましょう。
あるクリスチャンの婦人は週に40時間きちんと仕事をしていますが,それでも時間を見つけて,
年配の人々や必要としている人々のために役立つ色々な物を縫ってあげます。
しかしそれでも満足せず,聖書全巻をカセット・テープに録音し,それをある年配の目の見えないクリスチャンの友達に貸しています。
その人はまた,神の王国の良いたよりを家から家へ宣べ伝え,関心を持つ人と聖書研究を行なっています。
彼女はこれらの事柄をすることに,心の安らぎと満足と幸せを見いだしているでしょうか。それは言うまでもありません。
またこの婦人は,彼女からそれらの事をしてもらう人々の述べる感謝の言葉にも富んでいます。
また,かなりの額のお金を思いがけなく手に入れた年配の夫妻がいました。
そのお金は夫妻を金持ちにするほどのものではありませんでしたが,でも二人は自分たちが富める者のように感じられる方法でその一部を用いました。
それはどんな方法だったでしょうか。
この思いがけない祝福を,ある貧しい,そして受けるに値する人たちと惜しみなく分け合ったのです。
これをある程度まですることができたということ自体が,彼らを富んだ気持ちにさせました。
それにもちろん二人は立派な業に富んでいましたから,天に宝を積むことにも富んでいました。
このことはすべて,創造者(神)がわたしたちをつくられたつくり方と関係があります。
創造者はわたしたちに知恵,公正,力,愛という,ご自分が持つ四つの属性を与えてくださいました。
また良心も与えてくださいました。
その良心はわたしたちが悪いことをしないように警告し,またもし罪を犯せば有罪を宣告する働きをしますが,
そればかりでなくわたしたちが愛他的で,寛大で,あわれみ深く,愛のこもった事柄を行なうなら,
わたしたちに幸福感を味わわせることもします。
このことは神の子イエス・キリストが述べられた
「受けるよりは与えるほうが幸福である」という原則と一致します。
(使徒 20:35)
またそれより1,000年ほど前にソロモン王が述べたこととも調和します。
「物惜しみをしない者は富み,人を潤す者は自分も潤される」。
(箴言11:25)
使徒パウロも,「惜しみなくまく者は豊かに刈り取る」と書いて同様の考えを示しました。
(コリント第二 9:6)
彼はおもにあるいは必ずしも,物を与える者は同様の物を刈り取るという意味で言ったのではありません。
むしろ使徒は,貧しい人に惜しみなく与える人は霊的な富,すなわち神の恵みや幸福や満足を刈り取る,という意味で言ったのです。
そのような富は,確かにあなたの手の届くところにあります。