◆読売新聞12月2日付の朝刊「対社会面」に「山本五十六 覚悟の書簡」という記事が掲載されている。大東亜戦争に反対していながら、連合艦隊司令長官として作戦原案を作成させられ、真珠湾攻撃を指揮したれる悲劇の軍人であった。攻撃当日にしたためた遺書に準ずる内容の「述志」や、海軍大臣に提出した「作戦原案」の控え山本元帥の親友だった元海軍中将・堀悌吉の孫の自宅(東京都世田谷区)で見つかったと大分県教育委員会が発表したのだという。山本五十六元帥研究者の一人として、いつの日か是非とも本物を一見してみたい。
◆「軍人勅諭」を改めて読み返してみると、山本五十六元帥は、軍人の鑑である。「アメリカに騙された」とか、「国際資本の手先にされていた」とかなどの「トンデモ説」が数々あるけれど、いまは、そんなことは、どうでもよい。大日本帝国には、田中義一首相、東條英機首相をはじめ、「軍人勅諭」に違反し「政治に深く関与」し、「政治を壟断」した似非軍人がいかに多かったことか。
「軍人勅諭」に曰く「兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ」と訓示されているにも関わらず、勅命を無視し、違反して横暴を極め、国民を塗炭の苦しみに陥れた。これをこれらの国賊が日本を破滅させたことを歴史の事実として決して忘れてはならない。
◆自衛官は、いまはまだ正式な「軍人」ではない。しかし、遠からずして、少なくとも「自衛軍」に改編されるはずである。そのとき、日本政府は、まず「教育勅語」と並ぶ名文である「軍人勅諭」に匹敵するか、これを上回る訓示を作成できるであろうか。甚だ覚束ない。それにもまして、新たに軍人となるいまの自衛官が、訓示を墨守できるであろうか。田母神俊雄前航空幕僚長のような「跳ね上がり」が世情を惑わすようでは、これもまた、疑わしい。この意味で、「軍人勅諭」の名調子を改めて味わっておくのも無駄ではない。
◆軍人勅諭 明治15年陸軍省 達乙第2号 (1月4日)
本日別紙之通 勅諭有之候条右写相添此旨相達候事(東京鎮台士官学校戸山学校教導団ヘハ「勅諭本書ハ追テ可相渡候事」ノ但書ヲ加フ参謀本部監軍本部近衛局ヘ通牒尤近衛局ヘハ但書ノ趣意ヲ加フ)
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡(しばしば)なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おんおきて)にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆唐国風(からくにぶり)に傚(なら)はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人(さきもり)なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回(ひきかえ)すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻(もと)り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(まつりごと)衰へ剩(あまつさえ)外国の事とも起りて其侮(あなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟(しんきん)を悩し給ひしこそ忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ然るに朕幼(いとけな)くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績(いさを)なり。歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威(みいず)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉(ほまれ)を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ひとちこころ)になりて力を国家の保護(ほうご)に尽さは我国の蒼生は永く太平の福(さいはひ)を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭(をしえさと)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
1.軍人は忠節を尽すを本分とすへし
凡(おおよそ)生を我国に稟(う)くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況(ま)して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ
1.軍人は礼儀を正しくすへし
凡(おおよそ)軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承(うけたまわは)ること実は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧(くわかい)を失ひたらむには啻(ただ)に軍隊の蠧(と)毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし
1.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし
夫(それ)武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を弁へ能く坦力を練り思慮を殫(つく)して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接(はじは)るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(さいろう)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
1.軍人は信義を重んすへし
凡(おおよそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言(こと)を践行(ふみおこな)ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし朧気なる事を仮初(かりそめ)に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(きはま)りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺せること其例尠からぬものを深く警(いまし)めてやはあるへき
1.軍人は質素を旨とすへし
凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり節操も武勇も其甲斐なく世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩(さき)に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(ことさら)に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(をしう)を等(なおざり)にな思ひそ
右の5ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此5ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又5ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此5ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや
明治15年1月4日
御名
板垣英憲マスコミ事務所

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◆「軍人勅諭」を改めて読み返してみると、山本五十六元帥は、軍人の鑑である。「アメリカに騙された」とか、「国際資本の手先にされていた」とかなどの「トンデモ説」が数々あるけれど、いまは、そんなことは、どうでもよい。大日本帝国には、田中義一首相、東條英機首相をはじめ、「軍人勅諭」に違反し「政治に深く関与」し、「政治を壟断」した似非軍人がいかに多かったことか。
「軍人勅諭」に曰く「兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ」と訓示されているにも関わらず、勅命を無視し、違反して横暴を極め、国民を塗炭の苦しみに陥れた。これをこれらの国賊が日本を破滅させたことを歴史の事実として決して忘れてはならない。
◆自衛官は、いまはまだ正式な「軍人」ではない。しかし、遠からずして、少なくとも「自衛軍」に改編されるはずである。そのとき、日本政府は、まず「教育勅語」と並ぶ名文である「軍人勅諭」に匹敵するか、これを上回る訓示を作成できるであろうか。甚だ覚束ない。それにもまして、新たに軍人となるいまの自衛官が、訓示を墨守できるであろうか。田母神俊雄前航空幕僚長のような「跳ね上がり」が世情を惑わすようでは、これもまた、疑わしい。この意味で、「軍人勅諭」の名調子を改めて味わっておくのも無駄ではない。
◆軍人勅諭 明治15年陸軍省 達乙第2号 (1月4日)
本日別紙之通 勅諭有之候条右写相添此旨相達候事(東京鎮台士官学校戸山学校教導団ヘハ「勅諭本書ハ追テ可相渡候事」ノ但書ヲ加フ参謀本部監軍本部近衛局ヘ通牒尤近衛局ヘハ但書ノ趣意ヲ加フ)
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡(しばしば)なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おんおきて)にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆唐国風(からくにぶり)に傚(なら)はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人(さきもり)なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回(ひきかえ)すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻(もと)り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(まつりごと)衰へ剩(あまつさえ)外国の事とも起りて其侮(あなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟(しんきん)を悩し給ひしこそ忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ然るに朕幼(いとけな)くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績(いさを)なり。歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威(みいず)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉(ほまれ)を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ひとちこころ)になりて力を国家の保護(ほうご)に尽さは我国の蒼生は永く太平の福(さいはひ)を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭(をしえさと)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
1.軍人は忠節を尽すを本分とすへし
凡(おおよそ)生を我国に稟(う)くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況(ま)して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ
1.軍人は礼儀を正しくすへし
凡(おおよそ)軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承(うけたまわは)ること実は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧(くわかい)を失ひたらむには啻(ただ)に軍隊の蠧(と)毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし
1.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし
夫(それ)武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を弁へ能く坦力を練り思慮を殫(つく)して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接(はじは)るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(さいろう)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
1.軍人は信義を重んすへし
凡(おおよそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言(こと)を践行(ふみおこな)ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし朧気なる事を仮初(かりそめ)に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(きはま)りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺せること其例尠からぬものを深く警(いまし)めてやはあるへき
1.軍人は質素を旨とすへし
凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり節操も武勇も其甲斐なく世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩(さき)に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(ことさら)に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(をしう)を等(なおざり)にな思ひそ
右の5ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此5ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又5ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此5ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや
明治15年1月4日
御名
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