奈良県葛城市忍海(おしみ)は、葛城山の麓に位置し明日香村から車で約30分位の所にあります。都が藤原京(694~710年)にあったころ、葛上郡と葛下郡にはさまれて忍海郡が設置されていたようです。「忍海」の名が使用されたのは、鉄生産技術を持って朝鮮から渡来した人たちの集団である忍海氏の本拠地であったことによるものと推測されます。忍海氏のオシヌミが何を意味するのか明らかではありませんが、海に関係していたものと思われます。
今回は、「忍海」を歴史散策しましたので紹介したいと思います。
〇「角刺(つのさし)神社」は、「古事記」に北花内に御陵のある「飯豊天皇」(女帝)が葛城の忍海の高木の「角刺宮」で即位したと記されています。近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分の所にあります。祭神は、「飯豊青命(いいとよのあおのみこと)」です。彼女は、葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされています。忍海の「角刺神社」の辺りは、「日本書紀」顕宗即位前記で「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されていますが、今はその面影はありません。「角刺神社」境内の東側には、小さな「鏡池」があります。「飯豊青皇女」が「忍海角刺宮」で政務を取っていた時、毎朝この池で顔を洗って、池に自分の姿を映していたという故事から、この池は「鏡池」と呼ばれています。とても静かな、小さな神社でした。
〇「飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのうはにくちのおかのみささぎ)」は、「飯豊天皇」の陵です。清寧天皇崩御の後、弘計王(顕宗)と億計王(仁賢)とが皇位を譲り合って空位となっ たため、一時女王として葛城の忍海「角刺宮」で 政治を行ったと伝えられています。御陵は 、6世紀前半の築造といわれています。 御陵は全長90mの前方後円墳で、後円部径50m、前方部幅70mの規模をもち、幅10~15mの周濠をめぐらしています。 周濠内から 円筒・形象埴輪、有孔木製品が出土しています。「記紀」では、天皇として認められていないようですが、明治時代から昭和20年までは「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていたようです。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称しているようです。はたして、日本最初の女帝がここに眠っているのでしょうか?
〇「笛吹神社」は、当地を拠点とした笛吹連によって作られた神社とみられています。祭神の天香山命は、笛吹連の祖神です。正式には「葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ)」といいます。旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社です。音楽の神様(天香具山彦尊)としても知られ、正月には フルートや尺八など奉納演奏が行われます。周りは県天然記念物に指定されている イチイガシが群生しています。本殿の背後には、奈良県指定史跡の「笛吹神社古墳」があり、笛吹連の祖・櫂子の父である建多析命の墓であると伝えられています。 残念ながら、遠くからしか見ることが出来ませんでした。また拝殿下の境内には、日露戦争の記念のロシア製「加農攻守城砲」が置かれています。とても静かな、落ち着いた雰囲気のある神社でした。
〇「脇田神社」は、祭神は菅原道真・天児屋根命・天照皇大神・市杵島姫命です。忍海連の氏寺とみられています。境内前に「天満宮」の社号標が立ち、地元では「脇田天満宮」と呼れているようです。この神社の鳥居の傍に、径2メートル程もある大きい礎石が1個置かれています。「地光寺」(飛鳥時代末頃)の東塔の心礎といわれています。 西塔の心礎もあったそうですが現在は不明です。道路沿いにある小さな神社ですが、凄く立派な礎石をみて大変驚きました。1300年前、一体どの様な塔が立っていたのでしょうか?
前から行きたかった「忍海」の歴史散策、とても興味深く歩くことが出来ました!