奈良県橿原市川西町にある、「新沢千塚古墳群」は総数約600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)です。
今回は、約600基からなる不思議な群集墳「新沢千塚古墳群」を紹介したいと思います。
古墳群は、橿原市南側で高市郡高取町との境界となっている貝吹山(かいぶきやま)から四方に派生する尾根のうち、北西方向に伸びる低い丘陵上に立地しています。
「新沢千塚」に古墳が造られ始めたのは4世紀の終わり頃で、6世紀の終わり頃まで古墳が造られました。そのうち最も多く古墳が造られた時期は、5世紀後半から6世紀前半にかけての100年間です。
1960年代、新沢千塚一帯の丘陵地に開墾計画がもちあがったことをきっかけとして、古墳群全体の約2割にあたる約130基の古墳の発掘調査が行われました。この調査によって多くの成果がありました。遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた副葬品が出土した「126号墓」の調査はその代表的なものです。被葬者は周囲に歩揺を巡らした金製方形板(縦84mm、横83mmの冠飾り)が付いた冠を頭にかぶっていたようです。同じ形をした冠飾りが、中国遼寧省の房身2号墓という古墳からも出土しています。さらに被葬者は髪に金製の螺旋状垂飾りを垂らし、耳に垂飾り付きの耳飾りを付け、腕には金・銀の腕輪、指には金・銀の指輪をはめ、腰のベルトには金銅製帯金具(バックル)をしていたようです。また、上半身は多数の円形歩揺と紺色のガラス玉を縫いつけた衣で覆っていたと思われます。発掘時には、頭部のすぐ横に紺色のガラス皿の上に透明のガラス碗を載せて添えられていたようです。ガラス碗は底から胴にかけてカットの円文が施してありました。皿は表面全体に絵つけされた痕跡が見られます。製作地は不明ですが,その図柄からササン朝ペルシャとする説もあるようです。美しい瑠璃色のガラス皿など、ペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた「126号墳の副葬品」は、国の重要文化財にも指定されています。
調査の成果をうけて、「新沢千塚古墳群」は1976年(昭和51)に国の史跡に指定されました。現在は保存整備が行なわれ、古墳群の中を散策することができるようになっています。
ここの出土品は、すぐ横の『歴史に憩う橿原市博物館』に展示されています。見応えがあり、ぜひ合わせて見てほしいスポットです。
ところで「新沢千塚古墳群」と被葬者集団の関係は、考古学の専門家の間でも一致を見ていないようです。古代の高市郡に居住していた渡来系の大氏族・東漢(やまとのあや)氏に関係した奥津城。、軍事氏族、大伴氏を中心に形成された大同族集団の有力構成員の共同墓地。大伴氏に加えて蘇我氏も含め、朝鮮経営に参画した有力氏族の共同の奥津城ではないかとする説等。
「新沢千塚古墳群」は、まさに「死者の丘」と呼ぶような場所です。古代、この地は一族の者が眠る静かな場所だったのかもしれませんね。
また近くには、「鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)」や「益田池の堤」を見ることができます。
「鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)」は、第28代天皇で、継体(けいたい)天皇の第二皇子である「宣化天皇」の御陵と言われています。墳丘長138mの前方後円墳です。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っています。これまでに外堤の護岸工事にともなう調査などで円筒埴輪や須恵器が出土しています。それらの遺物から6世紀前半に築造されたと考えられます。
「益田池の堤」は、平安時代に造られた灌漑用の池の堤跡です。現在、益田池児童公園で「益田池の堤」跡を見ることができます。この堤は、高取川を堰き止めて大貯水池を作るために平安時代初期に築かれたもので、北は鳥屋橋北側、南は鳥坂神社までの長さがあったといわれています。今は埋められていますが、現在残っているのは長さ約55m・高さ8mの部分の堤跡です。造られた当時は、これが約200mも続いていたそうです。工事の際には、弘法大師空海が碑文を書いて協力したという遺物です。
飛鳥とは趣きの違う場所でしたが、とても興味深く歴史散策をすることができました!
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