奈良県高取町佐田の「佐田タカヤマ遺跡」で、7世紀後半の「のろし台」跡が見つかりました。(2021年1月)
外敵から、当時の都である飛鳥を守る「のろし台」と考えられています。
飛鳥が大好きな「両槻(ふたつき)会」さん主催の、「烽(とぶひ)のネットワークを考える」というテーマで、2回にわたって飛鳥周辺地域の「のろし台」跡と考えられている所を歩く企画がありました。とても興味があり、参加してきました。(2021年10月・12月)
2回に分けて、紹介したいと思います。
(行程)
近鉄飛鳥駅ーマルコ山古墳ー束明神古墳ー佐田タカヤマ遺跡ー出口山古墳ー森カシタニ遺跡ー紀路検出地点ー松山遺跡ー市尾墓山古墳ー市尾宮塚古墳ー市尾瓦窯跡ー巨勢寺跡ー近鉄吉野口駅
「日本書紀」には、唐と新羅の連合軍に大敗した白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)の後、外敵侵入に備えて九州から飛鳥の都に危急を知らせる「烽(とぶひ)」(のろし)が制度化されたとあり、国防整備の一環として築かれたとみられます。
当時、都のあった飛鳥を守るため、現在の奈良県と大阪府の境にあたる生駒山地の一角に高安城を築くなど、近畿一円に防衛網が張り巡らされました。ところがこのほど、それに連なるのろし跡らしい遺構が、奈良県高取町の「佐田タカヤマ遺跡」で確認されたのです。
7世紀後半、古代日本は未曽有の事態に見舞われました。朝鮮半島・白村江(はくそんこう)での大敗北です。
中央政権は、北部九州から瀬戸内、近畿にかけて長大な防衛線を突貫工事で築きました。戦闘拠点の古代山城とともに各地に設置されたのが、情報伝達の要となる「のろし台」です。
飛鳥周辺の「烽(とぶひ)」の跡として、「佐田タカヤマ遺跡」と「森カシタニ遺跡」に行きました。
〇「佐田タカヤマ遺跡」は、奈良県高取町佐田タカヤマにあり、マルコ山古墳の南西約350mにある標高152,5mに位置する小高い丘陵にあります。黒く煤けていた大型土坑や大型建物跡等が見つかっています。築造時期としては、7世紀後半頃と考えられているようです。現在は、鉄塔が立っています。
〇「森カシタニ遺跡」は、奈良県高取町大字森小字カシ谷にあり、近鉄飛鳥駅から南西約1,5㎞の丘陵上にあり「紀路」を見下ろす位置にあります。飛鳥時代の「烽」遺構等が見つかっています。全体の大きさは、「佐田タカヤマ遺跡」よりもかなり大きかったようです。現在は、何もない丘陵です。残念ながら、2ヶ所とも案内してもらわないとわかりません。
今回とても興味をそそられたのは、古代の「のろし台」跡もですが、もう一つありました。
〇「続日本紀」に、765年10月15日に「称徳天皇」が紀伊に行幸する際に通ったのが「紀路」とされています。「紀路」とは、大和と紀伊を結ぶ古代の幹線道路です。 その際、行幸の行列が「まゆみの陵」(草壁の皇子の墓と思われる「束明神古墳」)を通過する際、「称徳天皇」が付き従っている官人たちに詔を下し、騎馬の者はすべて下馬させ儀仗兵には旗幟を巻かせ威儀を正させてた」とあります。
「称徳天皇」は、「紀路」から祖先の「草壁の皇子」が葬られている「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したことになります。奈良県高取町佐田にある「束明神古墳(つかみょうじんこふん)」は、7世紀末に築かれた八角形墳で終末期古墳 です。被葬者は、天武天皇と持統天皇の子である「草壁の皇子」ではないかと言われています。「称徳天皇」にとっては、曾祖父にあたる人です。
以前から「日本書紀」を読んでいると、どこでその事が行われたのか気になっていました。
「両槻会」さんの事前の調査で、「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したと思われる場所を、2か所探して頂きました。
実際現地に行ってみると、「まゆみの陵」(束明神古墳)は、①の地点からは約1㎞・②の地点からは約550mの所にあります。現在は、①・②場所からは、木々や家等があり「まゆみの陵」(束明神古墳)は、残念ながら見えませんでしたが、ここから遥拝したのではないかと思われるような場所でした。当時は、遮る物もなく八角形墳が見えたかもしれませんね・・・
真実はわかりませんが、古代史の謎のひとつが解けたような思いでした。「両槻会」のスタッフの皆さん、事前調査ありがとうございました‼
今回も、参加してとても良かったです!
〇「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したと思われる場所(その1)
〇「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したと思われる場所(その2)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます