札幌礼拝堂月報 KaIros 第23号(6月27日発行)掲載の
重富克彦牧師による祈りのエッセイ
「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。」詩篇23:1
「ぴんぴんころり」という言葉をときどき耳にする。その願望は今に始まったことで
はない。昔の善男善女は、高齢になってくるとポックリ地蔵を信心した。自分で身
の回りのことが出来なくなったり、寝たきりになったりして、家族や他人に迷惑をか
けてまで長生きしたくないというのは、いつの時代も、元気で生きている人たちの
正直な気持ちかもしれない。
「ぴんぴんころり」という言葉は、長野県諏訪中央病院の鎌田實医師が、地域医
療に取り組む中で、提唱しているキャッチフレーズらしい。長野県と言えば美味しい
野沢菜。この地の人々は、おかずとしてはもちろん、お茶漬けにもばりばり野沢菜
を食べるという。そのために、高血圧の人が多く、それを危惧した鎌田医師は、食
生活の改善を中心に予防医療に取り組み、かなりの成績を上げて有名になった。
その彼が提唱しているのが「ぴんぴんころり」である。
文字通りの「ぴんぴんころり」は、比較的若いうちに突然死をとげることだろう。
若くしてあっけなく死んでしまった人を何人も知っている。けれどそれは鎌田氏の
目指すものではないだろう。
彼は本気で、みんなが100歳までも元気に生きて、ある日ころりと死ぬことを目指
しているのだろうか。私の母はもうすぐ104歳。ぴんぴんとはいかないが、それなり
に達者で、それなりに枯れている。いつスーット逝ってもおかしくないし、そうなるだ
ろうと思う。これが「ぴんぴんころり」の理想なのだろうか。たしかにそれはそれです
ばらしい。
でも、だれもがそんなに長生きして幸せかというとそれは別だ。私の場合、本音
を言えばもう少し早く天国に行きたいし、先に逝った妻と再会したい。向こうでは妻
と言うわけにはいかないが、愛は消滅していないはず。
「おひとりさまの老後」を書いた上野千鶴子氏は、「ぴんぴんころり」に対して、こ
れは一種のファシズム思想ではないかと言う。たしかにこの思想が、国民的目標
となって、そうでない者を脱落者のように見なすなら、その瞬間からそれはファシズ
ムとなる。むろんそれが鎌田医師の本意であるはずもないが、健康な人が、病弱
な人を蔑視する雰囲気を醸成することは警戒しなければならない。介護を受けてい
る人たちからすれば「役に立たずは死ね」と暗に言われている気分になるかもしれ
ない。
最近アンチ・エイジングという言葉も耳にする。健康食品や化粧品の宣伝文句に
も使われている。しかし、エイジング、つまり年相応に年をとっていくのは自然の成
り行きだ。いくらアンチと言っても、自然な流れには歯が立たない。むしろ、自然の
流れを受け入れてゆくこそ大切ではないか。
「ぴんぴんころり」と似ていて内容的にはかなり違うと思われるのが帯津良一医
師の「達者でぽっくり」である。彼は「達者で」という言葉の中に、たとえば病気であ
っても、きちんと希望を持って生きている人を含めている。 たとえこの世での命に
希望をつぐことができなくても、死後の命に希望をつないで、病気を引き受け、高貴
な魂をもって生きている末期癌の患者なども、この「達者で」の中に含めているので
ある。これはたしかに「ぴんぴん」よりも深い。
日本語には「養生」というすばらしい言葉がある。これは「ぴんぴんころり」でも「
アンチエイジング」でもなく、年相応に「達者に」生きるよう、生を養うことを意味する
言葉だ。その時々の情況に応じて、出来るだけ高い質の生を目指していると言っ
ても良い。
生を養うことの中には、魂を養うことがなければならない。体を養いつつ魂を、魂
を養いつつ体を養う。それが「養生」である。
「養生」の原点は「生かされている命」という認識である。使徒パウロは、人間の
肉体を「神の神殿」とまで言っている。ここに神が住まわれ、永遠の命が宿る。朽ち
る命の中に、朽ちない命が宿る。朽ちる命は仮の宿で、時至ればそれを脱ぎ捨て
る。その時まで、体を養い、命を養い、魂を養う。それが「養生」なのだと、わたしは
理解している。
「ぴんぴんころり」の願望を否定する必要はない。それは結局出来るだけ元気で
いたいという願望であり、その努力なのだ。アンチエイジングという思想は否定し
たい。むしろそれぞれのエイジを充足し、元気に生きたい。
「養生」は出来るだけ病気をしないように、食養生をし、からだに配慮した生活を
するが、病気になったら、またそれにふさわしい体と魂のあり方があることを知って
いる。「養生」は出来るだけ病気をしないように、食養生をし、からだに配慮した生
活をするが、病気になったら、またそれにふさわしい体と魂のあり方があることを
知っている。「養生」とは結局、復活の日、永遠の命に入る日を迎えるために、一
日一日を丁寧に、十分に生きようとすることなのだ。