札幌教会月報 Kairos 第25号 重富克彦牧師によるエッセイより転載
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 詩編23編1
愛する者の死は、残された者にもある種の死を体験させる。キューボラー・ロス
博士が提示する「否認・・取引・・抑鬱・・悲嘆・・受容」の心理プロセスは、残された
者が通るプロセスでもある。まさか妻が(否認)・・何とかして(取引)・・やはりだめ
なんだ(抑鬱)・・ひたすら悲しい(悲嘆)・・精一杯心を込めて送って上げよう(受
容)。わたしもまたそういう心の変遷をたどった。
残された者は、このそれぞれの心理状態を、行きつ戻りつ体験する。ある人は現
実を受け入れられない状態が何年も続く。ある人は長い間抑圧状態にとどまり続
ける。ある人は悲嘆にくれ、涙が涸れるまで泣く。
泣きすぎて涙が涸れるというのは、かならずしも嘘ではないように思う。わたしも
ずいぶん泣いた。度々涙が溢れ出たのは車の運転中だった。妻の死期が近くなっ
てからは、車に乗ると、まるで習慣のように涙があふれ出て止まらなかった。車と
いう密閉された空間がそうさせたのだろう。前が見えなくなって、路肩に停車し、涙
を乾かしたことも度々あった。
あのとき以来、涙するようなことがあっただろうか。涙が涸れてしまったような気
がする。妻の死ほどの心的な体験は、そうあるものではないので、感受性もにぶく
なったかもれない。
愛する者の死は、自分の中心にたしかな場所を占めていた、かけがえのない領
域の喪失でもある。その喪失感は深い。人は、自分を抜け殻のように感じる。この
喪失感は、最初、生傷の痛みにも似ているが、次第に心深くに沈澱してゆく。だ
が、喪失感から抜け出すには何年もかかる。いや、完全に抜け出すことは出来な
いのではないかと思う。だが、残された者は、生きなければならず、そこに身を沈
めるわけにはいかない。
このように、愛する者の死が、ある意味で自分の死でもある反面、決して自分の
死ではない。代ってはやれない。いかに看病し、いかに最後の日々を共に過ごして
も、死ぬのは愛する者であり自分ではない。自分は傍観者でもある。愛する者が
次第に弱り、病院食も殆ど喉を通らなくなっても、自分は3度の食事を食べる。死に
向かう者の傍らで、自分は生きようとする。その落差があまりにも大きく、ふと自分
の愛すら疑わしくなる。
一般に、愛する者に先立たれた時、悔いを持たない者が、どれほどいるだろう
か。彼女の、あるいは彼の死に、負い目を感じない者がどれほどいるだろうか。
負い目にはいろいろある。臨終の時に傍にいてやることが出来なかったことをいつ
までも後ろめたく感じている人もいる。愛する者が幼い子供の場合、親の感情は
複雑だろう。事故死であれば尚更である。自分の近くにいたのに、幼い子が事故
にあって死ぬようなこともある。親はどんなに自分を責めることだろうか。
私の場合は、最期を看取ってやることは出来た。そこに負い目はない。けれど、
彼女を早死にさせたのは自分のせいではないかという罪責感はぬぐいきれない。
それは喪失感と対を成して、心に深く沈澱する。愛する者を失った悲しみの中には
罪責感も含まれるのである。
むろん赦しを信じている。仮に自分のせいで、見えないところで無理を重ねて、早
死にするようなことになっていたとしても、すでに彼女の心は、キリストの心と一つ
になっているから、全てを赦してくれていると信じている。だから、沈澱したものを
心の底に持ちつつも、それを包んでくれる愛の中で平安に過ごさせてもらっている
のも確かだ。
心から悲しみを知る人には、人の思いを超えたところから、不思議な慰めが与え
られる。それはすべてを赦し、すべてを包む大きな慰めである。「悲しむ人は幸い
だ」と言われる主の言葉は本当のことである。
愛する者の死を通して人は何を学び、確信するだろうか。愛する者が死んだと
き、人が必ず持つ思いがある。「こんなにも愛は確かに存在したのだから、それが
死によって消えてなくなるはずがない」という思いである。それは確信でもある。
愛が深いほど、その確信も強い。愛の永遠性。愛する者を失った人が、悲しみの
中で知るのはそのことである。ヨハネの手紙で「愛する者は神を知る」と言われて
いるのは、愛の永遠性を感受する時、同時に、神を感受するからである。愛の永
遠性は、この世での愛を失うことによってこそ確かなものになる。人は、その愛を通
して神を見る。そして希望を持つ。その希望が、愛する者の死を受容させてくれる
のだ。