無線脳の視点

無線関係のモノ・ヒトに毒された日常を地味に書いてみる。

昭和の時代のローカルラジオ・テレビの記憶

2016年08月15日 | 無線系全般
娯楽の少ない昭和の時代、私はラジオを良く聴いていた。(と言いつつ、今も聴いてるけど)
当時は、いわゆるBCLが一世を風靡した時代が終焉した頃だったかもしれない。

その頃は、たいそうなアンテナを展開せずとも手軽に聴取・視聴できる地元の放送局の自主製作番組のテレビもよく見ていた。
具体的に言えば、TBC東北放送のラジオ番組「ラジオはAM跳んでけ電波」であったり、仙台放送のテレビ番組「サタデーマガジンα(あるふぁ)」などという、ローカル番組だ。(何を隠そう宮城県民だし)

今や、インターネットをはじめとする複合的な情報源が存在する中、当時は、マスコミが時代を先取りした上で、コミュニティとかトレンド、などというものを形成していた・・・と私は勝手に思っている。そして、その中にはラジオやテレビを中心とした聴取者・視聴者コミュニティというものが存在し、番組パーソナリティのファンクラブが発足したり、番組の質や視聴率向上に利する相互交流、会員同士の繋がりを是とした組織の形成が、番組制作側のバックアップにより行われた時代であった。
しかし、当時は今のようなネットやメール、SNSなどという手段は当然ながら無く、さらには携帯電話はおろか、FAXも一般に普及していない頃でもあったため、そのやりとりは、郵便と書面、手紙が主体で行われていた。番組へのお便り・リクエストなどはハガキによる投稿が中心であり、電話でのリクエスト、いわゆる「電リク」という手法も用いられていた。(電リク受付嬢のバイト募集、などという広告もあったのだから、時代だなぁ)


このファイルは、1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)まで仙台放送で放送された土曜昼の情報バラエティ番組「サタデーマガジンα」(さたでーまがじんあるふぁ)」(通称・サタマガ)の番組友の会「座敷ブタ友の会」の会員規約である。
(コレがあるってことは、私は会員だったのだ)


番組内容の向上と視聴率アップを念頭とした会員相互のふれあいを深める目的で、仙台放送の制作部がバックアップで会員組織が形成され、ファンクラブ会員(座敷ブタ友の会・会員)が番組のスタジオ見学を優先観覧できたり、さらには、番組スポンサーからの粗品をもらって帰ることが出来るという、今となってはのんびりとした良き時代のだったのだ。

ちなみに、ウィキペディア情報だけでなく、ネット検索で引っかかる「サタデーマガジンα」のネタには「座敷ブタ友の会」などというファンクラブがあったとされる情報の掲載は無く、仙台放送の中でもこのファンクラブの存在を知るものは、当時現役の局スタッフ、今現在の局スタッフの世代を考えると、皆無に等しいと思われる。(放送局自体も移転したため、この手の資料も保存されてはいないだろう)


また、TBC東北放送の「ラジオはAM翔んでけ電波」は、1983年~1987年の9月までの4年半にわたり放送され、リスナーの間では、通称「ラジ電」と呼ばれていた。
この番組にも番組ファンクラブというより、パーソナリティファンクラブが存在し、何を隠そうこの私も、局アナである石川太郎氏のファンクラブの「Taro's」の会員であった。
ヘビーリスナーとのやりとりで、特定のラジオネームで頻繁に番組に登場していた人が、実は学生時代の同じ学校で別な科の先輩だった、という驚きの遭遇も私は経験している。
平成の今、いつだったか(2014年ぐらい)、屋外のイベント(於・勾当台公園)で石川太郎氏と直接お会いしたとき、「私、ラジ電のTaro'sの会員でした!」と話をしたら、石川太郎氏は大層喜んでくれたことを私は記憶している。

以上のような、そもそもチラシの裏に書くような「昔ネタ」がどなたかの興味本位のネット検索に引っかかり、その時代の記憶の穴埋めに役立てられることを密かに期待している(笑)。
そして、平成の今の時代に、30年も前のラテ的な昔話が出来るかもしれない地元民がどっかにいてほしい・・・と願うばかりだ。
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