4月に受講したWOTEメディシナル・アロマセラピー レベル1の講座。
先日、課題のレポートを提出しました。無事に出し終えたと…ホッとする気持ちがあります。

今回、エッセンスを通して、自分と向き合う時間を多く持てたと思います。
色々なメッセージもいただきました。
その中でも、私は自分を大切にしてこなかった…ということに気がつかされました。
誰に対しても何に対しても、なかなか嫌だと言えず、自分では人の役にたっていると無理やり言い聞かせていたけれど、不平不満でパンパンだった私。
実はとっても嫌だったのに、その時NOと言えずに相手の言いなりになっていた私。
ずっと長い間、我慢していたり無理をしていた私。
あぁ、私はこんなことが嫌だったんだな…。あんなことが、実は負担になっていたんだな…。
最近でこそ…具体的に言うと今年に入ってからは…自分の声を聴いて、今までだったら言うのに勇気がいったかもしれないことについても、相手に伝えることがずい分出来るようになってきましたが。
エッセンスが言いました。「それはすなわち、自分を大切にして来なかったことになります。人との間に波風を立てないよう、また人から嫌われたくないから、という理由でNOを言わなかったことは一見すると自分を守っているように見えるけど、それは違います。結果的に自分で自分を傷つけていることになっていた。この痛みに鈍感になっていたのです」。
また、何でも自分でやらなきゃ駄目だ。誰かに助けてほしいと言えずにずっと来てしまったことについても「自分ひとりでは難しいと思えることでも、誰かと協力したり、他の誰かの知恵や経験を生かすことによって、物事が動いて進みやすくなることもあります。誰かに何かを頼むときに悪いと思ったり、必要以上に罪悪感を持たないことです。」とも言われました。

そして、私に足りないもの…「感謝」をも、エッセンスが促してくれたのだと思いました。
以前の記事にも書いたのですが、消化、感謝、と一連の流れの最後が「許し」というメッセージでした。
許し、許し、許し…頭の中でこの2文字がぐるぐる。
許すって誰を? ○○を? 自分を?
表面上だけではなく、根本に近い部分から変化を促されていると漠然とだけど感じました。生きていれば、また色々なことが人生には起こってくる。未消化にしない術をエッセンスが教えてくれている。
でも、「許し」って言われても私にはわからないという歯がゆい日が何日も続きました。
謎々を言われたようで、答えを探してウロウロ。
そして、フッと来たのが「ありのままを受け入れる」という言葉。事実をありのまま受け入れて、とらわれない。言葉を変えれば、自分を「解放」してあげることなのかなと思いました。
でも、何だかスッキリしない。頭であれこれ考えて答えが出るものではないと思いました。これから生きていくための「ヒント」として「許し」というキーワードをいただいたんだ。私の今後の課題とも言えるのかな?と思いました。「消化」するためには、「感謝」と「許し」が必要なのだとエッセンスに教えていただいたと理解しました。
そして、それらを文章にまとめてとレポート作成に取りかかったのですが、ここで思わぬことが起こりました。
私が一番焦点をあてて消化したいと思っていた出来事…当初は、他人事のように浮かびあがって綺麗に流されて消化されたと思っていました。ところが、文章を書き始めたら止まらないのです。
自分にとって、思い出すのも嫌だと思っていたことを、時系列に添って克明に文字で再現するかの如く書いている私がいる。結局、この部分はページ数オーバーの為に、大幅に削除することになったのですが、10年近く経って、ここまで細かくその時の体験を思い出して、尚且つ文字という形で表したことは、なかったと思います。
そして、あっ…と思ったのです。
これは、私にとってのゲロだと(汚い表現ですが)。消化不良で気持ち悪くて、ずっとムカムカしていたもの(出来事)をゲロとして吐き出したんだ。嫌だ嫌だと、閉じ込めていたものを、思い切って出したんだとわかりました。エッセンスは、私が吐き出しやすいようにサポートをしてくれていた。
そして今回、思い出す作業…書くという行為…は、自分と向き合う為に必要なものだったんだ。克明に文字で起こして再現しながら、もう一度起こったことを自分で感じていました。感じきった後に、吐き出して見るとスッキリしている自分がいる。
そこで、初めて思えました。
「もう、いい」と。
「過ぎたことだ」と。
これは、見て見ぬふりをすることでもなく、また投げやりな「どうでもいい」とも違って、「もう、過ぎたこと」という気持ちが、ちゃんと自分の中にある状態でした。「認めた」とも言えるかもしれません。そして「嫌な体験」という気持ちからも完全とは言えないまでも解き放たれたようにも感じました。
「私」を嫌な思い出で縛っていたのは、他ならぬ「私自身」だったんだ。
自分が選択したことに違いはないが、だからと言ってそれを選んだ自分を責めても仕方がない。
そして、相手を責めても、恨んでも、仕方がない。
やっと、自分自身の手で…この出来事に対して「済」というハンコを押せたような気持ちでした。
これこそがまさしく「消化された」状態になったのではないかと思いました。
…バジル・スィート、助けてくれて本当にありがとう。
先日、課題のレポートを提出しました。無事に出し終えたと…ホッとする気持ちがあります。

今回、エッセンスを通して、自分と向き合う時間を多く持てたと思います。
色々なメッセージもいただきました。
その中でも、私は自分を大切にしてこなかった…ということに気がつかされました。
誰に対しても何に対しても、なかなか嫌だと言えず、自分では人の役にたっていると無理やり言い聞かせていたけれど、不平不満でパンパンだった私。
実はとっても嫌だったのに、その時NOと言えずに相手の言いなりになっていた私。
ずっと長い間、我慢していたり無理をしていた私。
あぁ、私はこんなことが嫌だったんだな…。あんなことが、実は負担になっていたんだな…。
最近でこそ…具体的に言うと今年に入ってからは…自分の声を聴いて、今までだったら言うのに勇気がいったかもしれないことについても、相手に伝えることがずい分出来るようになってきましたが。
エッセンスが言いました。「それはすなわち、自分を大切にして来なかったことになります。人との間に波風を立てないよう、また人から嫌われたくないから、という理由でNOを言わなかったことは一見すると自分を守っているように見えるけど、それは違います。結果的に自分で自分を傷つけていることになっていた。この痛みに鈍感になっていたのです」。
また、何でも自分でやらなきゃ駄目だ。誰かに助けてほしいと言えずにずっと来てしまったことについても「自分ひとりでは難しいと思えることでも、誰かと協力したり、他の誰かの知恵や経験を生かすことによって、物事が動いて進みやすくなることもあります。誰かに何かを頼むときに悪いと思ったり、必要以上に罪悪感を持たないことです。」とも言われました。

そして、私に足りないもの…「感謝」をも、エッセンスが促してくれたのだと思いました。
以前の記事にも書いたのですが、消化、感謝、と一連の流れの最後が「許し」というメッセージでした。
許し、許し、許し…頭の中でこの2文字がぐるぐる。
許すって誰を? ○○を? 自分を?
表面上だけではなく、根本に近い部分から変化を促されていると漠然とだけど感じました。生きていれば、また色々なことが人生には起こってくる。未消化にしない術をエッセンスが教えてくれている。
でも、「許し」って言われても私にはわからないという歯がゆい日が何日も続きました。
謎々を言われたようで、答えを探してウロウロ。
そして、フッと来たのが「ありのままを受け入れる」という言葉。事実をありのまま受け入れて、とらわれない。言葉を変えれば、自分を「解放」してあげることなのかなと思いました。
でも、何だかスッキリしない。頭であれこれ考えて答えが出るものではないと思いました。これから生きていくための「ヒント」として「許し」というキーワードをいただいたんだ。私の今後の課題とも言えるのかな?と思いました。「消化」するためには、「感謝」と「許し」が必要なのだとエッセンスに教えていただいたと理解しました。
そして、それらを文章にまとめてとレポート作成に取りかかったのですが、ここで思わぬことが起こりました。
私が一番焦点をあてて消化したいと思っていた出来事…当初は、他人事のように浮かびあがって綺麗に流されて消化されたと思っていました。ところが、文章を書き始めたら止まらないのです。
自分にとって、思い出すのも嫌だと思っていたことを、時系列に添って克明に文字で再現するかの如く書いている私がいる。結局、この部分はページ数オーバーの為に、大幅に削除することになったのですが、10年近く経って、ここまで細かくその時の体験を思い出して、尚且つ文字という形で表したことは、なかったと思います。
そして、あっ…と思ったのです。
これは、私にとってのゲロだと(汚い表現ですが)。消化不良で気持ち悪くて、ずっとムカムカしていたもの(出来事)をゲロとして吐き出したんだ。嫌だ嫌だと、閉じ込めていたものを、思い切って出したんだとわかりました。エッセンスは、私が吐き出しやすいようにサポートをしてくれていた。
そして今回、思い出す作業…書くという行為…は、自分と向き合う為に必要なものだったんだ。克明に文字で起こして再現しながら、もう一度起こったことを自分で感じていました。感じきった後に、吐き出して見るとスッキリしている自分がいる。
そこで、初めて思えました。
「もう、いい」と。
「過ぎたことだ」と。
これは、見て見ぬふりをすることでもなく、また投げやりな「どうでもいい」とも違って、「もう、過ぎたこと」という気持ちが、ちゃんと自分の中にある状態でした。「認めた」とも言えるかもしれません。そして「嫌な体験」という気持ちからも完全とは言えないまでも解き放たれたようにも感じました。
「私」を嫌な思い出で縛っていたのは、他ならぬ「私自身」だったんだ。
自分が選択したことに違いはないが、だからと言ってそれを選んだ自分を責めても仕方がない。
そして、相手を責めても、恨んでも、仕方がない。
やっと、自分自身の手で…この出来事に対して「済」というハンコを押せたような気持ちでした。
これこそがまさしく「消化された」状態になったのではないかと思いました。
…バジル・スィート、助けてくれて本当にありがとう。
