Facebookをしていると、時折「〇年前 この日の思い出を見る」と
以前に投稿した記事が出てくる。
これが、1年前もあれば、2年前、3年前と色々。
しかも、毎日出てくるわけじゃないので、
何が基準になっているかもわからないけど。
今日は、午前9時からオンラインセッションだった。
2時間近くのセッションを終えてから、Facebookを見たら…いきなり出てきた。
目を通したら、まさにセッションで話したこととかぶる内容でちょっとびっくり。
以下になる。
(2021年10月22日の記事)
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★本番が始まる★
ここ数か月、「死」について考える機会が何度か訪れている。
また色々なことが「他人事」から「自分事」へと変化している。
夫の死別体験直後であれば無理だと思えた話でも、
今であれば耳を傾けることが出来るし、
だからこそ、様々な機会が訪れているのかなと感じている。
「死」を忌み嫌うのではなく。
誰もがむかえる最期に意識をむけることは、
同時に今の「生」についても、向き合うこと。
といっても。
しかめっ面になって難しく考えたり捉えたりはしていない。
むしろ、逆。
目覚めの過程を経て、喜怒哀楽以外の「至福」を識った。
自分は本当は何もので、どうしてそれが始まったのか。
いっぺん死んでみて(いくつか前の記事)仕組みが視えた。
空(くう)そのものが私達の本質で、最初からそれしかない。
無限の私が、有限が体験できるこの世界を用意した。
・・・で、どうする?
どうしたい?
「思考による良しあし」の判断に基づいたものではなく。
純粋意識の顕れである「私」を通して、
純粋動機の実現の為に、
本当にやりたいことを、
本当にやりたい人達と、
本気でやっていく。
シンプルだけど、これに尽きるのかな、と。
夫が目の前で倒れて、あっけなくこの世を去ってから。
どこかで自分だけがまだ肉体を着ていること。
その肉体を通して様々なことを享受していることに対して、
申し訳なさのようなものが、まだ微かにあった。
でも、多くの体験をしたくてここに「在る」のが私達で、
夫という存在も、夫の死も全体性の顕れのひとつ。
申し訳なさを感じていてもいいし、
感じなくなってもどっちでもいい。
どうこう出来るものではないし、しようという気持ちも消えた。
夢から覚めて正気になってからが、
本当の意味での体験が始まるのかなと思う。
本番はこれから・・・。