Facebook、2022年5月26日にあげた記事。
この頃のことは、なかなか言語化できない状態だったけど、
私が書いていたというより、書かされていたという感覚のほうが強かった。
いわゆる「覚醒体験」だとわかったのは、少しあとになってから。
そして、これはゴールではなく、あらたなスタートへの序章。
~~~~~~~~~~~~~~~
一体何が起こっているんだろうという感覚が長く続いている。
語彙力が乏しいので言葉で説明するのが難しいけど、覚書として。
わかりやすくする為に。
「体」というものを筒状の入れ物と想定した場合。
その中には、それまで築き上げた様々な「私」がぎっしり詰まっていた。
でも、入れ物の底の部分が抜け落ちてしまい、
同時に中に詰まっていた沢山の「私」も少しずつ抜け落ちていった。
すっからかんになっているのかどうかはわからないけど。
筒そのものも形をとどめることなく、いつの間にかなくなっているように感じた。
と言っても、もちろん体そのものが消えるわけではなく…。
心臓の鼓動、「収縮する動きのみ」がそこに在る。
川の流れに手を入れた時に初めて、その水の動きを感じるように。
収縮する動きが単独であるというより、体を通して大きな収縮を感じているかのよう。
ここまでは、主に体感覚。
それとは別に。
筒の中に詰まっていた「私」が抜け落ちていくにつれて、スペースが出来てきた。
このスペースが拡がるほど、
ラクだ、
自由だ、
穏やかだ、
静かだ、
と感じることが増えていく。
そして筒の存在をほとんど感じなくなった時。
思考という皮?が、ベラッと剥がれたような感覚が突然訪れた。
(筒か思考かどっちが先かはわからない)
剥がれた後に充満していたのが、からっぽ感。
自分も動いて話し、まわりも動いて話しているけど…
無音無風の中にいるような静けさにとどまっている時間がずっと続き…。
剥がれた思考の皮?は、薄くヒラヒラ漂っているような感覚。
うっすらと。
私は日々どれだけ思考の渦の中で喘ぎながら生きてきたんだろう…と。
いちいち不安になって、いちいち落ち込んでいた…あれは一体何だったんだ???
○○も、△△も。
なんなら自分のことも。
もうどうでもよくなった。
言葉にすると、すごく投げやりな感じになるけど。
「もう本当にどうでもいい」としか言いようがなくて。
別の言い方だと。
筒の中に入っていた「私」がいなけりゃ、もうどうにもしようがない。
静かな解放感を感じつつ、特別な感動もなければ感激もない休日。
体という入れ物を通して感じる収縮の中に、
鳥のさえずりも風が運んでくれる木々のささやきも入ってくる。
とりあえず、現状の覚書。
この頃のことは、なかなか言語化できない状態だったけど、
私が書いていたというより、書かされていたという感覚のほうが強かった。
いわゆる「覚醒体験」だとわかったのは、少しあとになってから。
そして、これはゴールではなく、あらたなスタートへの序章。
~~~~~~~~~~~~~~~
一体何が起こっているんだろうという感覚が長く続いている。
語彙力が乏しいので言葉で説明するのが難しいけど、覚書として。
わかりやすくする為に。
「体」というものを筒状の入れ物と想定した場合。
その中には、それまで築き上げた様々な「私」がぎっしり詰まっていた。
でも、入れ物の底の部分が抜け落ちてしまい、
同時に中に詰まっていた沢山の「私」も少しずつ抜け落ちていった。
すっからかんになっているのかどうかはわからないけど。
筒そのものも形をとどめることなく、いつの間にかなくなっているように感じた。
と言っても、もちろん体そのものが消えるわけではなく…。
心臓の鼓動、「収縮する動きのみ」がそこに在る。
川の流れに手を入れた時に初めて、その水の動きを感じるように。
収縮する動きが単独であるというより、体を通して大きな収縮を感じているかのよう。
ここまでは、主に体感覚。
それとは別に。
筒の中に詰まっていた「私」が抜け落ちていくにつれて、スペースが出来てきた。
このスペースが拡がるほど、
ラクだ、
自由だ、
穏やかだ、
静かだ、
と感じることが増えていく。
そして筒の存在をほとんど感じなくなった時。
思考という皮?が、ベラッと剥がれたような感覚が突然訪れた。
(筒か思考かどっちが先かはわからない)
剥がれた後に充満していたのが、からっぽ感。
自分も動いて話し、まわりも動いて話しているけど…
無音無風の中にいるような静けさにとどまっている時間がずっと続き…。
剥がれた思考の皮?は、薄くヒラヒラ漂っているような感覚。
うっすらと。
私は日々どれだけ思考の渦の中で喘ぎながら生きてきたんだろう…と。
いちいち不安になって、いちいち落ち込んでいた…あれは一体何だったんだ???
○○も、△△も。
なんなら自分のことも。
もうどうでもよくなった。
言葉にすると、すごく投げやりな感じになるけど。
「もう本当にどうでもいい」としか言いようがなくて。
別の言い方だと。
筒の中に入っていた「私」がいなけりゃ、もうどうにもしようがない。
静かな解放感を感じつつ、特別な感動もなければ感激もない休日。
体という入れ物を通して感じる収縮の中に、
鳥のさえずりも風が運んでくれる木々のささやきも入ってくる。
とりあえず、現状の覚書。