地震・津波・原発事故の同時多発が僕らにもたらした衝撃。そもそも一体いま何が起こっているのか。その意味について僕らはまだ、ほとんど何一つ理解していないのだろうと思います。なぜなら、現実があまりにも言葉を上回ってしまっているから。そして、今なお現在進行形の真只中だから。しかもそのすぐそばから、次々と忘却と封印への強烈な引力が働きだすから。やがてもっと時がたてば・・・
やがてもっと時がたてば、しかし、ますます事態は複雑多岐に錯綜してゆき、同時にますます忘却の淵に封じ込められてゆくでしょう。とすれば、何一つ理解できていない今こそ、実はいちばん理解のできている時なのかもしれません。あまりにも激しく理解し、あまりにも激しく理解しえないもの、それこそが衝撃ということですから。ならば一体それは何?
本当に難しい。こんなに言葉を紡ぎ出すのが難しかったことは、これまでに一度もなかったような気さえします。
ただ、少なくとも・・・・・おそらく・・・・皆さんと話していて・・・ひとつ確かに言えそうなのは・・
終わりなき日常に終わりが来るんだということ、それもあまりにも急激に、という衝撃。
果てしなき内部に果て(外部)があるんだということ、それもあまりに圧倒的に、という衝撃。
そうやって、何ものかが、ニッポンの何かある巨大な前提が、終わったのだ、ということ。
もっと正確には、すでに終わり始めていたそれが、最後のとどめを刺されたのだということ。
いやそれどころか、もうとっくに終わっているのに、終わっていないと僕らが思い込もうとしていただけかもしれないということ。とすれば、終わったのは、われわれ自身の根拠のない信念だったということ。
どんな信念でしょう?
みんなで力を合わせて同じひとつになって、一生懸命頑張れば、誰もがみな、強くて・大きくて・確固とした・必然的な存在になることができる。その集団的同調の力で、どんな非常の事態も統御し、終わりなき日常へと永続してゆく”いま“。どんな外部の事態も統御し、果てしなき内部へと拡張してゆく”ここ”。そんな限りなく膨張した”いま・ここ”に安住する、神のごとき全知全能の「われわれ」・・・
数度の戦争も高度成長も、この信念に導かれ、この希望に満ち溢れて、敢行されました。バブルはその最後の戯画でした。でも今や、その神々たちは、実ははじめから、あまりにも弱く、あまりにも小さく、あまりにも寄る辺ない、偶然の存在でしかなかったことが露呈してしまったのでした。
いや本当は、みんな、はじめからよくよく知っていたんです。神々たちは、おのれが1本の葦にしかすぎないのだということを。戦争に負け、高度成長が止まり、バブルがはじけ、地震・津波・原発事故に翻弄されて、はじめて知ったんではなくて、はじめから知っていたからこそ、戦争に酔い、高度成長に踊り、バブルに浮かれて、それら俄造りの避難所の楽園を謳歌したのではなかったでしょうか(その証拠に、このいずれの時期も、日本の自殺率がめざましく激減する)。だから今、地震・津波・原発事故のさなか、やっぱりまた“ニッポンはひとつ”~“強い国ニッポン”~“がんばろうニッポン”~でなければならないのでしょう。でもそれはもはや、すでに終わったもので終わったものを乗り越えようとする自家撞着の空回りでしかありません。
事ここに至ってもなお、まだ僕らは終わらせたくないんです。それほど巨大な前提です。
あるいは、終わらせながらも終わらせきれないんです。事実は認めても肯定はできないんです。
だから自分はたしかに卑小でも、せめて為政者は強大であってほしいと、統一地方選でも“強いリーダーシップ”が大人気です。これも自家撞着のしからしめる1つの妥協策。
同じ理由で国政では、菅首相の人気は最低です。そして政権の大連立構想。いったん少し遠のきましたが、それは民主党はもう虫の息、と自民党が判断しているからにすぎないでしょう。本番は民主党政権が潰れて以降ですね。
「計画停電」の少なくなった3月末ごろから、終わりなき日常を終わらせまいとする強靭な意志、果てしなき内部を果てさせまいとする強靭な意志が、ジリジリと回帰しています(それにあわせて、一時は鳴りをひそめかかった花粉症が、この頃から再び勢いを盛り返し始めました)。でもそれは、実は、まさしく終わったということを深く思い知ってしまったからこそ、生じていることではないでしょうか。もう3・11後の僕らは、あの栄光に満ちた楽園を望んでも、望めば望むほど内側で引き裂かれ、自らおのれの傷口を広げるばかりとなるでしょう。
いま日本じゅうが、「復興」が合言葉です。「復興」めざして“がんばろうニッポン”です。それはいいとして、ではそのめざすべき「復興」とはどんな状態になることなのでしょう。どうなることを望んでいるのでしょう。それは「復旧」でしょうか、「再生」でしょうか。終わったものをまた反復しようということでしょうか。終わったところから新たに出直そうということでしょうか。どちらにせよ、みんな共通理解があって言ってるのでしょうか。
それに、“ニッポンはひとつ”って、その”ニッポン”の範囲はどこまでなのでしょうか。
たとえば、被災地で共に奮闘している「アジア人」は入るのでしょうか。
多くの「日本人」が戻ってくるのを待ち望む、「帰国」してしまった「外国人」は入るのでしょうか。
震災や放射能を恐れて、海外に逃れた「日本人」は入るのでしょうか。
子どもを関西に疎開させた「日本人」は入るのでしょうか。
東京都心でネオン夜通しギラギラの風俗店やパチンコ店は入るのでしょうか。
原発に反対する「日本人」は入るのでしょうか。
そして、原発に賛成する「日本人」は入るのでしょうか。
「自粛」するのが「日本人」の証しでしょうか。「自粛の自粛」(民主党の声明)が「日本人」の証しでしょうか。はたまた、「自粛の自粛の自粛」が「日本人」の証しでしょうか。いやいや、「自粛の自粛の自粛の自粛の~~~」・・・つまり、みんなで一緒にやれば中身はどうでもいい、というのが「日本人」でしょうか!?
・・・こんな不謹慎な文章を書いてる僕も仲間に入れてもらえるのでしょうか。
それより何より、じかに被災された方々と、とりあえずそうでない僕らとは、”ひとつ”と言って括ってしまっていいのでしょうか。いいとすれば、どういう意味においてでしょうか・・・
<つづく>
やがてもっと時がたてば、しかし、ますます事態は複雑多岐に錯綜してゆき、同時にますます忘却の淵に封じ込められてゆくでしょう。とすれば、何一つ理解できていない今こそ、実はいちばん理解のできている時なのかもしれません。あまりにも激しく理解し、あまりにも激しく理解しえないもの、それこそが衝撃ということですから。ならば一体それは何?
本当に難しい。こんなに言葉を紡ぎ出すのが難しかったことは、これまでに一度もなかったような気さえします。
ただ、少なくとも・・・・・おそらく・・・・皆さんと話していて・・・ひとつ確かに言えそうなのは・・
終わりなき日常に終わりが来るんだということ、それもあまりにも急激に、という衝撃。
果てしなき内部に果て(外部)があるんだということ、それもあまりに圧倒的に、という衝撃。
そうやって、何ものかが、ニッポンの何かある巨大な前提が、終わったのだ、ということ。
もっと正確には、すでに終わり始めていたそれが、最後のとどめを刺されたのだということ。
いやそれどころか、もうとっくに終わっているのに、終わっていないと僕らが思い込もうとしていただけかもしれないということ。とすれば、終わったのは、われわれ自身の根拠のない信念だったということ。
どんな信念でしょう?
みんなで力を合わせて同じひとつになって、一生懸命頑張れば、誰もがみな、強くて・大きくて・確固とした・必然的な存在になることができる。その集団的同調の力で、どんな非常の事態も統御し、終わりなき日常へと永続してゆく”いま“。どんな外部の事態も統御し、果てしなき内部へと拡張してゆく”ここ”。そんな限りなく膨張した”いま・ここ”に安住する、神のごとき全知全能の「われわれ」・・・
数度の戦争も高度成長も、この信念に導かれ、この希望に満ち溢れて、敢行されました。バブルはその最後の戯画でした。でも今や、その神々たちは、実ははじめから、あまりにも弱く、あまりにも小さく、あまりにも寄る辺ない、偶然の存在でしかなかったことが露呈してしまったのでした。
いや本当は、みんな、はじめからよくよく知っていたんです。神々たちは、おのれが1本の葦にしかすぎないのだということを。戦争に負け、高度成長が止まり、バブルがはじけ、地震・津波・原発事故に翻弄されて、はじめて知ったんではなくて、はじめから知っていたからこそ、戦争に酔い、高度成長に踊り、バブルに浮かれて、それら俄造りの避難所の楽園を謳歌したのではなかったでしょうか(その証拠に、このいずれの時期も、日本の自殺率がめざましく激減する)。だから今、地震・津波・原発事故のさなか、やっぱりまた“ニッポンはひとつ”~“強い国ニッポン”~“がんばろうニッポン”~でなければならないのでしょう。でもそれはもはや、すでに終わったもので終わったものを乗り越えようとする自家撞着の空回りでしかありません。
事ここに至ってもなお、まだ僕らは終わらせたくないんです。それほど巨大な前提です。
あるいは、終わらせながらも終わらせきれないんです。事実は認めても肯定はできないんです。
だから自分はたしかに卑小でも、せめて為政者は強大であってほしいと、統一地方選でも“強いリーダーシップ”が大人気です。これも自家撞着のしからしめる1つの妥協策。
同じ理由で国政では、菅首相の人気は最低です。そして政権の大連立構想。いったん少し遠のきましたが、それは民主党はもう虫の息、と自民党が判断しているからにすぎないでしょう。本番は民主党政権が潰れて以降ですね。
「計画停電」の少なくなった3月末ごろから、終わりなき日常を終わらせまいとする強靭な意志、果てしなき内部を果てさせまいとする強靭な意志が、ジリジリと回帰しています(それにあわせて、一時は鳴りをひそめかかった花粉症が、この頃から再び勢いを盛り返し始めました)。でもそれは、実は、まさしく終わったということを深く思い知ってしまったからこそ、生じていることではないでしょうか。もう3・11後の僕らは、あの栄光に満ちた楽園を望んでも、望めば望むほど内側で引き裂かれ、自らおのれの傷口を広げるばかりとなるでしょう。
いま日本じゅうが、「復興」が合言葉です。「復興」めざして“がんばろうニッポン”です。それはいいとして、ではそのめざすべき「復興」とはどんな状態になることなのでしょう。どうなることを望んでいるのでしょう。それは「復旧」でしょうか、「再生」でしょうか。終わったものをまた反復しようということでしょうか。終わったところから新たに出直そうということでしょうか。どちらにせよ、みんな共通理解があって言ってるのでしょうか。
それに、“ニッポンはひとつ”って、その”ニッポン”の範囲はどこまでなのでしょうか。
たとえば、被災地で共に奮闘している「アジア人」は入るのでしょうか。
多くの「日本人」が戻ってくるのを待ち望む、「帰国」してしまった「外国人」は入るのでしょうか。
震災や放射能を恐れて、海外に逃れた「日本人」は入るのでしょうか。
子どもを関西に疎開させた「日本人」は入るのでしょうか。
東京都心でネオン夜通しギラギラの風俗店やパチンコ店は入るのでしょうか。
原発に反対する「日本人」は入るのでしょうか。
そして、原発に賛成する「日本人」は入るのでしょうか。
「自粛」するのが「日本人」の証しでしょうか。「自粛の自粛」(民主党の声明)が「日本人」の証しでしょうか。はたまた、「自粛の自粛の自粛」が「日本人」の証しでしょうか。いやいや、「自粛の自粛の自粛の自粛の~~~」・・・つまり、みんなで一緒にやれば中身はどうでもいい、というのが「日本人」でしょうか!?
・・・こんな不謹慎な文章を書いてる僕も仲間に入れてもらえるのでしょうか。
それより何より、じかに被災された方々と、とりあえずそうでない僕らとは、”ひとつ”と言って括ってしまっていいのでしょうか。いいとすれば、どういう意味においてでしょうか・・・
<つづく>