たとえば私たちは、“cure”と“care”を分けて新しい地平に立った気分に浸っていますが、“care”を「癒し」、つまり「癒す」(能動態)か「癒される」(受動態)かで考えるのであれば、“cure”つまり「治す」(能動態)か「治される」(受動態)かと同じ地平を出ていません。“care”の本義はあくまで「癒える」(中動態)にあること、その点では“cure”も「治る」(中動態)の可能性をはらむ限りで同等であることを忘れてはならないでしょう。
では、果たして一体どんなとき、どのようにして私たちは「癒える」のか。あるいは「治る」のか。そこでこそまさに、必須の条件として持ち味を発揮するのが「社会的関与」ではないでしょうか。
中動態はもともと古代ギリシャにおいて、今でいう自動詞、受動態、再帰動詞を合わせたようなものとして、能動態に対立していました。そこからやがて受動態が独立し、単独で能動態に対立するようになったのでした。バンヴェニストは中動態を定義して言います:「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座(siège)となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。主語はその過程の行為者であって、同時にその中心である。主語は、主語のなかで成し遂げられる何ごとか[……]を成し遂げる。そしてその主語は、まさしく自らがその動作主(agent)である過程の内部にいる。」[『一般言語学の諸問題』みすず書房,p.169,強調ママ]
受動は、主語が過程の内部にある点で中動の1つでしたが、その主語は動作主ではなく、動作主は過程の外部にある点で、中動とはちがう意味で能動に対立するようになりました。能動と中動は、主語が過程の外部にあるか内部にあるかの対立でしたが、能動と受動は“する”か“される”かの対立となりました。中動とは、能動とも受動ともちがって、動作主である主語=主体が動詞=現象の座(siège)となるような過程です。
「治る」あるいは「癒える」において、座(siège)となる主体は何か――最も小さくとっても、関与する人々の総体=社会ではないでしょうか。それらの多彩な身体たちのいわば“3人寄れば文殊の知恵”として、「治癒」は生じるのではないでしょうか。