心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

中動態の社会的関与

2019-02-17 10:14:00 | 哲学・思想

たとえば私たちは、“cure”と“care”を分けて新しい地平に立った気分に浸っていますが、“care”を「癒し」、つまり「癒す」(能動態)か「癒される」(受動態)かで考えるのであれば、“cure”つまり「治す」(能動態)か「治される」(受動態)かと同じ地平を出ていません。“care”の本義はあくまで「癒える」(中動態)にあること、その点では“cure”も「治る」(中動態)の可能性をはらむ限りで同等であることを忘れてはならないでしょう。

では、果たして一体どんなとき、どのようにして私たちは「癒える」のか。あるいは「治る」のか。そこでこそまさに、必須の条件として持ち味を発揮するのが「社会的関与」ではないでしょうか。

中動態はもともと古代ギリシャにおいて、今でいう自動詞、受動態、再帰動詞を合わせたようなものとして、能動態に対立していました。そこからやがて受動態が独立し、単独で能動態に対立するようになったのでした。バンヴェニストは中動態を定義して言います:「能動では、動詞は主語から出発して主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座(siège)となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。主語はその過程の行為者であって、同時にその中心である。主語は、主語のなかで成し遂げられる何ごとか[……]を成し遂げる。そしてその主語は、まさしく自らがその動作主(agent)である過程の内部にいる。」[『一般言語学の諸問題』みすず書房,p.169,強調ママ]

受動は、主語が過程の内部にある点で中動の1つでしたが、その主語は動作主ではなく、動作主は過程の外部にある点で、中動とはちがう意味で能動に対立するようになりました。能動と中動は、主語が過程の外部にあるか内部にあるかの対立でしたが、能動と受動は“する”か“される”かの対立となりました。中動とは、能動とも受動ともちがって、動作主である主語=主体が動詞=現象の座(siège)となるような過程です。

「治る」あるいは「癒える」において、座(siège)となる主体は何か――最も小さくとっても、関与する人々の総体=社会ではないでしょうか。それらの多彩な身体たちのいわば“3人寄れば文殊の知恵”として、「治癒」は生じるのではないでしょうか。

 


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科学論文の9割はウソ⁉ ~科学と科学主義の別れ道~

2018-10-16 12:15:48 | 哲学・思想

10月1日夜、ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑・京大名誉教授が、記者会見で受賞の喜びを語ったなかで、

自身の研究に対する姿勢を問われた際、以下のように語りました。

 

「私自身はやはり自分に何か知りたいという好奇心があること、それからもう一つは簡単に信じないこと。よくマスコミの人は「『Nature』『Science』に出ているから」という話をされるが、「Nature」「Science」の9割は嘘で、10年経ったら残って1割だと言っているし、大体そうだと思っている。まず論文などに書いてあることを信じない。自分の目で確信できるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的な姿勢だ。自分の頭で考えて納得できるまでやるということ。」

 

科学と科学主義のちがいを鮮明に語って下さいました。私自身も、今度出す本を、同じ姿勢で書いたつもりです。

 

もっとも、この発言がマスコミ各紙等でセンセーショナルに報道されていること自体、

査読付きで発表された科学論文の主張が、あたかも絶対的真理のごとくに受け取られ、流通してきている科学主義的な風潮を

雄弁に物語っていると言わざるを得ません。

マスコミとそれを妄信する少なくない人々、そして科学を語る知識人、さらには何と科学者自身すらもが、往々にしてそんな風潮にのみこまれています。

科学主義という、科学の名を冠したほとんど宗教的な風潮です。

 

科学的真理とは、つねにある条件の下での条件つきの真理であり、

異なる条件の下での批判にたえず開かれ、批判によってより高められていく、相対的な真理であることを忘れてはなりません。

 

実はそれ以前にもすでに、

Nature誌の2013年8月1日号に,「医学生物学論文の70%以上が再現できない!」という報告がなされていました[Wademan 2013]。

NatureやScienceといった一流雑誌に限らず、査読付きで発表された多くの医学生物学論文が、

実際に、その後他の研究によって再現されていないのです。

 

 

<文 献>

Wadman, M ., 2013  NIH mulls rules for validating key results, in Nature, vol.500(7460), pp. 14-16.

 

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師とはなにか? 弟子とはなにか?

2018-02-28 09:20:55 | 哲学・思想

ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』のなかで、喝破していました。

 

弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。

まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。

いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。

いつまでも弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。

君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないよう気をつけよ。

君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信ずると。しかしツァラトゥストラそのものになんの意味があるか。

君たちはわたしの信徒だ。だがおよそ信徒というものになんの意味があるか。

君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。探し求めぬうちにわたしを見いだした。

信徒はいつもそうなのだ。だから信ずるということはつまらないことだ。

いまわたしは君たちに命令する、わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。

そして君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう。

 

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