心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

3・11以後に向けて(10-5)

2011-08-23 23:06:00 | 3・11と原発問題
こうして20世紀の、<戦争>と<成長>を希望の原動力とする大衆動員=参加体制において、<戦争>の極限形態として「原爆」が、<成長>の極限形態として「原発」が、相次いで開発されるに至ったのでした。のみならずその<戦争>と<成長>が、互いに<戦争>が<成長>であり、<成長>が<戦争>であるような間柄にあるちょうどその分に比例して、「原爆」(原子力軍事利用)と「原発」(原子力「平和」利用)も、互いに切り離すことができない入れ子の関係で現われずにはいませんでした。

とりわけ日本では、戦前の天皇制国家から戦後民主主義を一直線につなぐ大衆動員=参加体制の不思議な連続性に、唯一深い亀裂を入れた原爆投下~敗戦という不連続性を埋めなおすためにも、原子力が最先端の希望の星として要請されることになったのでないでしょうか。

そうしてみると、原子力が戦後の日本社会に占めた位置は、ほとんど戦前の天皇にも匹敵するものとすら言えるように思います。戦前はいうまでもなく天皇が<神>とされたわけですが、その天皇をも上回る<神>を広島・長崎の原爆で見せつけられるや、あわててポツダム宣言を受諾したニッポンは、戦後は天皇への崇拝をマッカーサーというその後ろ盾に乗り換え、マッカーサーのナショナリスティックな置き換えとして科学技術にシフトしてゆき、科学技術信仰の極北として原子力の神々しい未来に拝跪していった、という脈絡が辿れそうです。
実に精妙なこの思考操作を、戦後の日本人は恐らくほとんど無意識のうちに、いやむしろ思考停止のユーフォリアのうちに行なってきました(ちなみに“思考停止”はいつも、日本人の幸福観を最も端的に定義する一語といえそうです。あるいはそれを”無私”と勘違いするのも常識になっています)。でもここで注意すべきは、原爆トラウマの暗黒を原子力の光輝に反転するこの眩い思考操作が、その過程で、少なくとも2つの重大な負の遺産を、戦後日本社会の奥底に沈殿し、そして堆積させつづけてきたことです。

1つは、原爆の圧倒的な威力が、日本の敗戦の原因を物質力・技術力の差だけに帰し、天皇制国家そのものにすでに巣食っていた、精神的な頽廃の問題を隠蔽してしまったこと。本当は日本の敗戦は、物量だけでなく精神においても、圧倒的な敗北ではなかったでしょうか。敗戦で天皇制的な価値観が解体してはじめてココロの空洞が発見されたのではなく、ましてや、戦後の高度成長~バブルでモノが豊かになってはじめてココロの空洞が発見されたのでもなく、むしろすでに、アジア・太平洋戦争に至る天皇制国家の長い生長過程において、少しずつ確実に、「国民」大衆1人1人のココロの空洞は蔓延していたのであって、その全「国民」的な絶望とルサンチマンのエネルギーが沸騰したからこそ、そしてそれを大量に動員しえたからこそ、”聖戦”の遂行も可能だったのです。
そのことがしかし隠蔽され、隠蔽されることによって戦後も温存され、再び絶望とルサンチマンのエネルギーが高度経済成長の隠れた動力源にこそなりえました。でもその分、ココロの空洞もかえっていっそう深く浸潤していきました。ココロの空洞が深まるほど、経済成長の方もまた”成長のための成長”となって自己目的化し、ガン細胞のように病的な増殖を続けます。その自己目的化する経済成長を支える有力な手段として積極的に開発されたのが、まさしく原発だったわけですが、その原発の開発もそれはそれで自己目的化し、低成長期になってもペースを落とさず、いったい経済成長と原発開発とどちらが手段なのか目的なのか・・・むしろどちらも自己目的化しながら、そのことによって互いに手段となりあうかのような、奇妙な共棲関係が展開することになりました。
実はどちらも自己目的なんかではなくて、どちらも本当の目的は、虚構でもいいからココロの空洞を埋めたい、そのために何かとっても強く大きな存在でいたい、<神>のような存在にならなければいけない、ただその一点のために夢中になって疾走したのではなかったでしょうか(現代ニッポン人は、誰一人として各種「依存症」患者のことを嗤えません)。高度成長~バブル期の飽食時代にはじめて発見されたかにみえたココロの空洞は、実はすでにそのように末期的段階にまで進行し尽くした果ての空洞だったのです(そのとき、各種「依存症」が自己神格化の夢のカリカチュアのようにして、顕在化してきたのでした)。

もう1つは、原爆の圧倒的な被害が、専らアメリカの原爆を加害者とする日本の被害者性にばかり意識を向けさせ、アジア諸地域への侵略という日本の加害者性を隠蔽してしまったこと。もし原爆でなく本土決戦で惨憺たる終わり方をしていたなら、多分こうは行かず、わがニッポンは自ら仕かけた侵略とその挫折という峻厳な結果を痛切に思い知らされることになっていたでしょう。でも原爆は、それら一切を吹き飛ばし、皮肉にも“被害者”ニッポンに平和国家という出発点を与えてくれました。アジア・太平洋戦争は“太平洋戦争”へと切り縮められ、対アジア戦争の方は、“大東亜戦争”のとっくに失墜した幻想で粉飾されつづける以外、ほとんど省みられなくなります。
原爆による被害者性は、たしかに平和国家建設の理念を生み落としましたが、しかし自身の加害者性の隠蔽に裏打ちされることによって、“加害者”アメリカへの同一化でそれを乗り越えようとするいわば“平和な「一等国」幻想”と化し、加害者と同じく巨大で高度な物質力・技術力の獲得が挙国一致の国是として追求されることになります。 “さざれ石の巌となりて~”という神秘的な膨張主義が、今や科学的なお墨付きを得て、科学的な装いのもとに、堂々と膨張してくるかのようです(この歌の、“君”が誰かということ以前にすでにある危うさ。その科学的な平和利用)。あるいは、戦前(昭和初期)中流家庭を謳歌した宝塚少女歌劇団の“清く・正しく・美しく”が、 戦後中流社会の“強く・大きく・明るい”国ニッポンへと発展的に解消されます。その頂点が、平和で日常的な原爆(!)としての原発でした。
一方、隠蔽された加害者性、対外的な植民地的侵略の意思は、隠蔽されることによって方向を捻じ曲げ、今度は侵略の主対象を外国から自国の国土へ、“国破れてなおある”山河海土の自然環境へ、そして各人自身の内なる自然(カラダとココロ)へ、要するに僕ら1人1人の<存在>へと向け変えることで、経済成長という名の国内植民地侵略を貫徹するのでした。平和な原爆としての原発が、供給立地でも消費地ですらも、いたるところで日常的に各々の<存在>を侵略し、その虚妄の膨張へ向けて日々慢性的に爆破しつづけるのです。まるであのホロコーストを慢性化し、アウシュビッツを日常化するかのように(アウシュビッツ正門の“労働は人を自由にする”は、双葉町商店街の入口にある、”原子力明るい未来のエネルギー”のようなヴァリエーションを増殖します)。
しかもなお、こうした内なる加害者性、内攻する侵略性は、平和大国の繁栄と栄光の陰に隠蔽されつづけ、隠蔽されることによっていっそう深く浸潤していきます。「平和」の名のもとに、一切の暴力を否定するあまり、1人1人の<存在>、そのカラダとココロを内なる侵略から奪い返し、わがものとして獲得するもっと広い意味での暴力、いや最も根源的な暴力(にしてかつ非暴力)までもが、あわせて排除されてしまうからです(念のため補足すると、「非暴力」とはかつて向井孝氏が喝破したように、「非-暴力」というより「非暴-力」、つまり「暴に非ざる力」なのです)。バブル後になってはじめて発見されたかにみえる大量の<うつ>現象も、まちがいなくこの<存在>の根源的な力を蹂躙する、内攻する侵略性の1つの現われにほかなりません。

敗戦直後の1945年9月9日、昭和天皇は疎開先の皇太子(=現天皇)に出した手紙の中でこう書いています。「敗因について一言いはしてくれ/我が国人はあまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである/我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」と。・・・3・11直後の僕らはこれを、そのままこんなふうに言い直すことになるでしょうか。「敗因について一言いはしてくれ/我が国人はあまりに原発を信じ過ぎて 自然をあなどったことである/我が全ニッポン人は 科学に重きを起きすぎて 生命を忘れたことである」と。

<つづく>


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3・11以後に向けて(10-4)

2011-08-17 09:21:00 | 3・11と原発問題
このように20世紀のさまざまの事態は、あたかもナチス・ドイツが尖端的にかなえ始め、あるいはかなえかけて終わった夢の多くを、大戦末期~戦後に現実にかなえていったのがアメリカでありソ連であったかのように展開しました。あるいはまた、今日までアメリカやソ連が必死に追い求めてきた夢の多くは、すでにナチス・ドイツが一部はかなえ、またかなえつつあった夢であったかのように展開しました。いうなれば、ナチス・ドイツのユートピアの実現としての戦後世界。戦後世界のユートピアの原点としてのナチス・ドイツ。
いやしかし、もう少し正確に言えば、それは近代がずっと夢想してきた同じひとつの夢を、ドイツに代表される「ファシズム」、アメリカに代表される「国家資本主義」、ソ連に代表される「共産主義」のいずれもが、同時に、それぞれの仕方で実現しようと鎬を削りあい、そのうちたまたま最もゆとり(ヒマ)と資金(カネ)と人的資源(ヒト)に劣ったドイツ「ファシズム」が、まさにそれゆえに最も尖端的な形でその夢を表現し、またそれゆえに1つの体制としては最も短命のうちに散ったということ、そしてそのあとアメリカ型「国家資本主義」とソ連型「共産主義」が、豊富なゆとり(ヒマ)と資金(カネ)と人的資源(ヒト)にあかせて、ドイツ「ファシズム」の遺産の光と影をも内部に埋め込み、日常化し慢性化しながら、より大規模に、より轟然と現実化していったということではないでしょうか。
それにしても、近代がずっと夢想してきた同じひとつの夢? そう、ほかでもない。近代において<神>を殺した人間たちが、今度はおのれ自身が<神>になろうとし、なろうとしてもなりきれず、なりきれぬままに呻吟し、呻吟しつつ死んでも手放そうとしなかった~~そしてついには、(自)死という形で実現しようとさえした~~永遠の夢、この近代に宿痾のごとくに付きまとう無窮の夢が、20世紀の前半、1930年代前後以降のこの頃に、「ファシズム」、「国家資本主義」、「共産主義」の3つの体制において、<戦争>(いっさいの他者を征服する全能)と<成長>(いっさいの自然を征服する全能)への挙国的な総動員=総参加という形で、ついにかなえうるのではないかと幻視する可能性が現実に熟するに至ったということではないでしょうか。すなわち、<戦争>と<成長>に、上から権威的に<動員>され下から自発的に<参加>する「国民」の資格において、1人1人の大衆がついに<神>になれるのではないかと(そしてその生贄としての安楽死~ホロコーストとその日常化!)。そうした、20世紀の3大体制の追い求めた夢は、何よりそれを支えた大衆たちのあくなき夢でもありました。

ここに「ファシズム」、「国家資本主義」(「ニューディール」~「福祉国家」)、そして「共産主義」という一見互いに背反し、現にしばしば烈しく対立もしてきた20世紀を彩る3大体制が、同時に深く通底しあい依存しあう奇妙な共犯関係にあり、いずれも「総力戦体制」「総動員体制」といわれる(山之内靖ほか『総力戦と現代化』など)大衆動員=参加体制の3類型として存在していたことが浮かび上がってきます。20世紀は(少なくとも1980年代までは)、こうした大衆動員=参加体制の時代、あるいは<広義の全体主義>体制の時代だったと言っていいでしょう。「ファシズム」は自らすすんで<民族>共同体の「全体主義」(Gleichschaultung!)を標榜しましたが、「共産主義」はプロレタリア<階級>の”独裁”をもってむしろ敵からすすんでそう呼ばれ、「国家資本主義」は自ら<個人>主義という反対物を通してそれを実現するという形で、それぞれがそれぞれの「全体主義」、「総力戦体制」・「総動員体制」、大衆動員=参加体制を開花させたのです。
日本の場合も、第1次大戦後からアジア・太平洋戦争の戦時体制をへて、戦後の高度成長に至る半世紀余の時期に、敗戦~民主化という鋭い不連続面にもかかわらず、不思議な連続性を保持しているのは、まさにそこに「総力戦体制」「総動員体制」の論理が貫通していたからではないでしょうか。「満州国」でやろうしてやれなかったことを、戦後の日本国内でやったのが高度経済成長ではなかったかという吉田司(『王道楽土の戦争』)の鋭い洞察に、僕はほぼ全面的に賛成です。ただし、戦後の「国内満州国」は、もはや”五族協和”のユートピア(イデオロギー)すらをも放擲し、かわりに堂々と”単一民族起源説”をもってした相違は見落とせないように思います。戦時下よりいっそう「全体主義」的かもしれない、戦後民主主義のこの”王道楽土”。

要するに、「ファシズム」、「ニューディール」から「福祉国家」、「共産主義」、そして「近代日本システム」のいっさいの根底を貫通する、<戦争>(対他者的な全能)と<成長>(対自然的な全能)という20世紀の2大ユートピア。あるいは<戦争>という名の(経済的・政治的・心理的な)<成長>。<成長>という名の(経済的・政治的・心理的な)<戦争>。
この結果、20世紀は人類史上最も多くの殺人を行なった世紀となり、その最大の大量殺人犯はマフィアでもテロリストでも通り魔殺人者でもなく、実に「国家」なのでした。ある研究によると、1987年までのこの世紀に、国家は2億321万人の人々を殺し、しかもその多くは、驚くべきことに、自国市民1億3475万人と、外国人6840万人の倍近くにも達しています(Rummel,R.J., Death by Government, p.15)。自らが神になるという近代の夢をかなえるために、20世紀の大衆動員=参加体制は、国家という「人類史上最強の大量虐殺者を創造した」(ダグラス・ラミス『憲法と戦争』p.177)のであり、その最大の被害者は何と、神となって守られるべき当の自国民なのでした。
20世紀に各地各国で驀進した経済成長もまた、外部の自然を破壊したのはもちろんですが、でもそれ以上に、僕ら1人1人の内なる自然を破壊する過程だったといえるかもしれません。

そしてその<戦争>=<成長>の、大衆動員=参加体制を特徴づける格好の合言葉こそ、戦時日本でいえば“一億一心””一億火の玉だ””撃ちてし止まむ”だったのであり、あるいは”日本人なら贅沢は出来ない筈だ””バスに乗り遅れるな”等々だったのであり、これぞまさしく現代語に翻訳すれば、”ニッポンは1つ””ニッポンは強い国””がんばろうニッポン”ではないのでしょうか。後に詳しく見るように、高度成長の終焉した1980年代以降、日本をはじめ先進諸国では、大衆動員=参加体制はすでに効力を失いつつあります。にもかかわらず、21世紀の僕らニッポンは、未曾有の大震災を経た今もなお、20世紀のこの遺物への郷愁を捨てられずにいるようです。<災害ファシズム>の傾向が容易に頭をもたげるのも無理もありません。依然として僕らは、<戦争>=<成長>的なイメージが感じられると、たちまち”希望”に踊り、<戦争>=<成長>的なイメージの欠落が感じられると、みるみる”絶望”に沈む習性が染みついていないでしょうか(ショウワを蔑む若い世代たちですらも、この点では依然として限りなくショウワ的ではないでしょうか)。
その証拠に、僕自身のかつての研究によってみても、世界に冠たる自殺大国ニッポンは、遅くとも第1次大戦期以降、<戦争>と<成長>以外の時期にはいつでもほぼ恒常的に自殺率が高く、ただひとつ<戦争>と<成長>によってしか自殺者を減らせない隘路を突破できずにきました。この研究の発表の初出は1997年でしたが、いわゆる”98年ショック”以降の13年連続自殺者3万人超の今日の事態は、この特徴をますます雄弁に物語っています。そのせいか、この間、自殺対策の国民的な運動を巻き起こすという<自殺そのものに対する戦争>(War on Suicide!)、つまり外国(<戦争>)でも自然環境(<成長>)でもなく(自)死そのものを敵とする新たな種類の<戦争>が試みられ、法的にも正式に宣戦布告され(2006年「自殺対策基本法」~2007年「自殺総合対策大綱」)、今まさにその成果が問われている真最中というわけです。

<つづく>


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3・11以後に向けて(10-3)

2011-08-17 09:19:00 | 3・11と原発問題
そこで次に原子力ですが、ラジオやテレビに続いて原子力においても、少なくとも第2次大戦初期までは、世界の原子力開発を一歩リードしていたのはナチス政権下のドイツだった、という事実は意外に知られていません。
世界で最初にウランの核分裂を発見したのは、1938年12月22日、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンです。翌年春までには、早くもドイツ科学者と軍部が原子力の爆弾その他の応用研究のプロジェクトを開始しており(「ウラン・クラブ」)、連鎖反応の理論を世界で最初に発表したのも(1940年2月 フリッツ・ハウターマン)、初歩的な連鎖反応炉を世界で最初に建設したのも(1940年12月 ベルリン・ダーレムのカイザー・ウィルヘルム協会の敷地内 そしてシュヴァルツヴァルトのハイガーロッホの教会の地下)、ナチス・ドイツのもとにおいてでした。イタリア・ファシズムを逃れてアメリカに亡命したエンリコ・フェルミが、1942年12月2日にシカゴ大学で世界最初の原子炉を完成し、連鎖反応実験に成功する2年前のことです。
このため、ドイツが原爆製造に失敗したことが、むしろ今なお第2次大戦の大きな謎の1つとなっているほどです。もし当時のナチス・ドイツに、時間(ヒマ)と予算(カネ)と人的資源(ヒト)が潤沢にあったならば、本当に原爆開発に成功していたかもしれません。しかし、折しもフェルミが連鎖反応実験に成功して、原爆製造の確実な足がかりをつかんだちょ、ど42年末ごろ、先を焦るヒトラーは、これらの膨大な資源を要する原子力プロジェクトよりも、「V2ロケット」開発のプロジェクトに資源を集中するよう政策変更を決定、以後ドイツは原爆開発競争から失速していったのでした。
これに対しアメリカでは、同年6月から、ナチスの原爆開発水準を一刻も早く追い抜き、その危険に先回りして対抗できる原爆製造計画に猛然と取り組みだしていました。中心となったのは、レオ・シラード、アインシュタインらナチス・ドイツから亡命してきたユダヤ人科学者、そしてオッペンハイマーのような在米亡命2世のユダヤ人科学者らで、これがあの「マンハッタン計画」にほかなりません。フェルミの先の実験もこの一環だったのですが、参加人員15万人(最先端の科学者だけで2千人)、経費20億ドルもの莫大なエネルギーを投入して、ナチス・ドイツには達成できなかった原爆製造とその投下を、アメリカはついに達成してしまうのでした。あたかもそれは、ゆとり(ヒマ)に満ち、資金(カネ)にあふれ、有能な人材(ヒト)のひしめくドイツ第三帝国がもしありえたとしたら、どんな姿をあらわすことになっていたかの幻像を示して余りある壮挙であったともいえましょう。

広島原爆投下のその日の夜、抑留先のイギリスで仲間たちと一緒にニュースを聞いたオットー・ハーンは、ひどく動転します。もともと核分裂を発見したとき、その恐るべき可能性に気づいて真剣に自殺を考えたほどでしたから、この可能性が現実のものとなった今、ヒロシマ数十万の死の責任は自分にあると言い募り、大量のアルコールの助けを借りてようやく落ち着きを取り戻す状態でした(バーンスタイン「ドイツ人科学者と原爆」『みすず』1992年12月号、p.29)。そして皮肉にもその3ヵ月後、ハーンは原爆の起点となったこの発見により、ノーベル物理学賞の授与が伝えられます。
もしこの未曾有の大量殺戮兵器が、ドイツ第三帝国のもとで完成し使用されていたなら、果たしてハーンの発見に授賞はあったのかどうか。しかしアメリカが原爆投下に成功したことによって、一挙にそれは人類の進歩への功績としてカウントされることになったのでした。

さてここで重要なのは、ラジオ放送やテレビ放送と同じく、原子力においてもまた、ナチス・ドイツが最も早くないし最も強烈に発芽させ始めていたプロジェクトを、みごとに開花させ結実させ現実化したのはアメリカ(そしてソ連)だったということです。同様の現象は実は他にもたくさんあります。またここで少し脇道にそれるようですが、以下にその大ざっぱな目録をちょっと紹介しておきましょう。それでもかなりの分量になっていますので、あまり興味のない人、すでによく知っている人は読み飛ばして、次回の(11-4)まで進んで下さって結構です。

ただ一言弁解させていただくと、あえて饒舌の愚を犯してここにそれを掲げるのは、このことが近代の夢の極致の1つである原発のことを考える上でも大切だからですが、同時にそこに今日の僕らの幸福(と不幸の表裏一体)の構造の原型が喜劇的・悲劇的なまでによく示されているからです。
ナチズムといえば、凶悪な独裁者ヒトラーとユダヤ人虐殺! というわけで、その蛮行と残虐性にばかり焦点が集まりがちです。でもナチズムが、実はどんなに近代の夢の尖端的な集大成であり、また戦後の豊かで民主的な世界の夢の隠れた出発点であったかということ、そしてそれほどに切実に魅惑的な夢や幸福であったからこそ、その追求と引換えに、その追求そのものの裏面として、まさしくあの蛮行と残虐性も生じてきたのだということに注意が向けられることは、いまだ決して多くないようです。しかしその作業なしに、ナチズムを21世紀の僕らは本当に乗り越えることができるのでしょうか。
実際、ナチが圧倒的な大衆的支持のもとに政権を掌握してから少なくとも最初の数年間は、以後にみるような恐怖政治はさほど特徴的ではなかったことが、今日ではよく知られています。それほどナチは、夢と希望を広く大衆一般に与える政治運動として登場したのです。そしてその後に、そのほとんど必然的な帰結として、あの恐怖政治が育まれていったのです。
そのことを知っておくことは、そのまま今日の僕らの文明の構造を知ることにほかなりません。

・まずは、原子力から比重を移して開発されたあの元祖ミサイル「V2ロケット」。こちらはナチスによって第2次大戦中に実戦に用いられ、ロンドンを中心に計3000発が発射されて、計1万人近くの死傷者を出す実績を残しています。それが戦後は、原爆と同じく技術者ともども米ソに継承(連行)され、人工衛星に進化して宇宙開発の口火を切るとともに、それと表裏一体、というかより直接の目的として、大陸間弾道弾ミサイルへと進化し、冷戦の軍事体制を高度化しました。だからこそ、1957年にソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」の打上げに成功した時は、宇宙のロマンに陶酔してばかりいる場合ではなく、米国民に水爆実験成功に勝るとも劣らぬ大きな脅威を与えたのです。
現代人の夢の水先人ともいうべきNASAもアポロ計画もスペースシャトルも、その落し子にほかなりません。「スプートニク」打上げのすぐ翌年に設立されたNASA(航空宇宙局)のマーシャル宇宙飛行センター長には、ナチス・ドイツで「V2ロケット」を開発した中心人物ヴェルナー・フォン・ブラウンが抜擢されています。あるいは、いざ核戦争になっても耐えられるような通信システムの構築ARPANET(1969年)も、この流れから出てきた落し子で、これがやがてインターネットの原型となります(だから今回の震災でも、ケータイに比べてネットはよくつながりましたねえ)。

・その前にコンピュータ自体が、これまたナチス・ドイツ下において最初に形をなしたものでした。1938年、機械式計算機を自宅で自費作成しはじめたコンラート・ツーゼは、1941年、世界初の完全動作するプログラム制御式コンピュータ「Z3」を完成(チューリング完全であったことも1998年に証明されました)、1944年にはさらに汎用性を高めて「Z4」に発展するのですが、その可能性をナチス政権は充分に見抜いて活用することができぬまま、やがて「マンハッタン計画」の中から、核兵器の弾道計算用にチューリング~フォン・ノイマンの路線で開発されたENIAC(ヒロシマには間に合わず、後に水爆の設計に活用)~EDSACに抜き去られてゆきます。
もっとも、ENIACの登場したのとちょうど同じ1946年、ツーゼから特許使用の許可を得たIBMは、やがて1960年代の第3世代コンピュータの開発競争に勝利すると、世界最大のコンピュータ企業へと一気に登りつめることになります。もともとIBMは、大戦中、アメリカ陸海空軍に各種の兵器弾薬類を製造販売するだけでなく、その一方でナチス政権にも深く取り入るという、一種の”死の商人”的な動きをして暗躍していた企業です。ドイツには通称”デホマク”と呼ばれる子会社を擁し、国勢調査局との契約により、ドイツとその占領地域で、コンピュータの原型というべきパンチカードとその読み取り選別機を大量生産し(ドイツ国内だけでパンチカード15億枚、選別機2千台)、莫大な利益を上げていたのです。そのパンチカードと読み取り選別機はナチの強制収容所にももちろん配備され、ユダヤ人の選別にも存分に威力を発揮しました。

・そのほかジェット戦闘機(メッサーシュミット)、ヘリコプター、飛行船(ツェッペリン号!)とアルミ合金(ジュラルミン)の合成技術、公衆テレビ電話、磁気録音技術(テープレコーダー)、今も”夢の鉄道”として実用寸前の電磁鉄道(リニアモーターカー)などの軍事・民事両用の科学技術開発もナチス・ドイツではじめて着手されたものです。

・そして高速道路(「アウトバーン」)。イタリア・ファシスト政権の事業にヒントを得て、ナチス政権獲得直後の1933年秋から大々的に進められ、敗戦までの12年間に全長4000kmを建設、世界恐慌下の失業者700万人をわずか数年でほとんどゼロにしたこの画期的プロジェクトは、全国道路の大型規格化としての高速道路網の先がけとなると同時に、短期間に大量の雇用を創出する効果的な失業対策・公共事業の先がけとして、いわば「ニューディール」のナチス・ドイツ版、いやむしろ「ニューディール」そのものの先駆ですらあったといえましょう。
その「アウトバーン」の記念碑には、3人の筋骨隆々たる大男が巨大な石を持ち上げる図があります。そしてあのアウシュビッツの正門の“労働は人を自由にする”(Arbeit macht frei)という碑文にやがて極致をみるように、近代最大の神話たる「労働」の美化・神格化は、(ソ連共産主義のスタハノフ運動とともに)ナチス・ドイツにおいて最高頂に達しました。労働者は”労働の兵士”として神聖化され、ブルジョアや資本家も労働者でなければなりませんでした。労働者も経営者も職場では「経営共同体」を形成し、全体としては「民族共同体」の一員としてどんな階級の差をもこえて平等とされました(逆にいえば他の民族、とくにユダヤ人金融資本家は人間以下の“ブタ野郎”とされました)。

・それは「労働」の神聖、「労働者」大衆の生活と生命を守り、その福祉を増進する、ナチス・ドイツの「先進的な」労働政策を生みました。労働者・低所得者への大減税と大企業への大増税、所得税の扶養控除制度や源泉徴収制度、財形貯蓄制度などの所得制度。そして、世界に先がけた8時間労働制の法制化、通勤時間30分以内への制限、時差出勤、有給でのレク時間の保障、長期休暇などの労働条件改善。アスベスト対策などの労働者の安全衛生対策。一定規模以上の会社での「社員食堂」や「社宅」の義務づけ等の福利厚生制度の充実……etc.etc.
そのかわり、過去数十年間に積みあげられてきた労働組合は解体され、ナチス党に服属する「労働戦線」に再編されました。神聖な「労働(者)」は<階級>でなく<民族>の共同体にこそ帰属されるべきだからです。こうして労働者たちは、自らを組織する権利、団体交渉権、職業選択の自由や移動の自由の権利などをすっかり剥奪されたのですが、ナチスの施策によって失業が大幅に払拭され、皆が等しく再び職にありつけ、しかも民族共同体の一員として承認され尊重される栄誉は、それを補って余りある利得と感じさせたのでした。
この「労働戦線」のもとに設立された半官半民団体「歓喜力行団」(Kraft durch Freude:略称「KdF」~直訳すると「歓びを通じての力」)は、ナチス下で最大の団体となり、巨額の補助金のもとに大々的に敢行した労働者の余暇生活向上運動は、ナチス・ドイツの「先進的な」労働政策の自慢の売り物として最も喧伝されました。「余暇局」による国内すべての劇場の労働者への開放、労働現場近くでの図書館の設置、成人教育講座、「スポーツ局」によるスポーツやハイキングの奨励、フォークダンスのグループ、そして最大の目玉商品だった「旅行・観光局」による大衆観光旅行の奨励(とくに北欧や地中海への格安海外パック旅行)、観光地の休暇ハウスなどが次々に「歓喜をもって」華やかに実行されました。超安価な大衆的国民車「フォルクスワーゲン」も、実は「歓喜力行団」が1937年に製造したものでした(だからはじめは”KdF車”と呼ばれた)。
「歓喜力行団」のこれらの成果はどれも、ラジオ放送がそうであったように、労働者の生活条件の向上、そしてブルジョアとの格差縮小感をもたらすめざましく「革新的な」社会的役割を果たしつつ、同時にそれらの活動そのものをとおして集団的一体感と生活リズムの規律化を植えつけ、私的生活の隅々にまでわたる全体主義的管理(全生活の「労働」化!)を完遂する役割をも果たしました。
つまるところ、以上のナチス・ドイツの「先進的な」労働政策の数々は、いずれも、実際には労働者大衆を(神聖な)「労働」へと駆り立て(余暇も神聖な「労働」たらしめ)、総動員し支配し管理するための巧妙な手段であったといえるでしょう。
しかしさらに忘れてならないことに、まさにこれらの「先進的な」労働政策と引換えに、労働できない障害者・病人、労働なしに金を儲けているとされたユダヤ人は、「価値のない生命」として排除され抹殺されました。その際、従来の「不具者」という呼称が「身体障害者」に改められており、これもナチス・ドイツ下の医師たちがはじめて行なったことです(プロクター『健康帝国ナチス』p.59)。そういう「革新的な」改革と引換えに、排除・抹殺は確実に進められていきました。

・ナチス・ドイツでは女性もまた、男性労働者と同格に神聖でありえました。ただし「自然の定める」領域(家庭)で、「自然の定める」任務(母親)を遂行する限りにおいてのことですが。そのとき女は、”出産の兵士””家庭の兵士””母親という戦士“として、民族共同体に等しく貢献する「神聖」で「純粋」な存在とされました。その限りで、出産や家事も一人前の「労働」として神聖化されました。このため、結婚資金貸付制度(1000マルクの無利子貸与)、児童手当(子ども1人生まれるごとに250マルクの返済免除=ナチの家族計画どおりに4人の子どもを作れば、結婚資金貸与はすっかり帳消しになる!)、母子援護事業(貧困母子世帯への生活必需品の供与)、母子援護センターの設立と各種相談事業、農村の農繁期の託児所設置、出産した母親のための特別保養制度(ただし反ナチスの家庭や精神障害者のいる家庭は除外)など、現代日本の少子化対策など足元にも及ばぬ「先進的な」母性保護・出産奨励政策が手厚く実施されました。また同様の観点から「未婚の母」や「私生児」も、(血統がよく遺伝的欠陥がないかぎり)ナチス党の母子援助事業部から差別なく丁重に扱われることになっていました。「母の日」というものを神聖な祝祭日にまで高めたのも、ナチス・ドイツ(と大日本帝国)でした。
しかしこの究極の性別役割分業による戦士共同体も、他の先進諸国一般と同じく、やがて戦争の進行とともに変容を余儀なくされ、女性“兵士”たちが「自然の定める」ところでないはずの男性の職場に進出することになりますが、これも民族共同体への真の「対等な」貢献ということで曖昧に正当化されます。しかも女性の産む機能は依然として重視されたわけですから、これはこれで女性の労働安全対策を前進させる結果ともなりました。戦後の先駆けとなった戦時の女性の社会進出は、女性の解放だったのでしょうか。それとも、あくまで国家へのより深い統合と引換えになされた、女性のさらなる支配の深化だったのでしょうか。
そしてさらに、ここでも忘れてならないことには、まさにこれらの「先進的な」母性保護政策と引換えに、出産できない女性、そしてとりわけ同性愛者が、障害者・病人等に加えて、「価値のない生命」として排除され抹殺されたのでした。

・また、これらの「労働」(出産や家事も含む)の神聖化と義務化は、さらに同じようにして<健康>の神聖化と義務化をもたらし(健康という「労働」!)、障害者・病人・同性愛者等の排除と裏腹に結びつきながら、医療化、ヘルシズム、エコロジスムを先端的に進行させ、今日にまで直接つながる確かな基礎を築きあげました。すなわち、ガン撲滅運動とその早期発見運動・国民「啓発」(これもナチスの好んだ言葉)運動(戦後のアメリカ風にいうなら、“ガンとの戦争”(War on Cancer)!)、集団検診と医師による「健康指導」、禁酒運動、嫌煙とタバコ撲滅運動(肺ガンとタバコの因果関係の発見はナチス医学に発しています)、X線・放射線による遺伝障害への警戒(ひょっとしてこれが、ナチス・ドイツに原爆開発の歩みを鈍らせた!?)、麻薬撲滅運動とその反対に「労働」能率向上のための薬品・サプリメントの開発、合成着色料の禁止、自然保護とワンダーフォーゲル運動、有機農業・自然農法の奨励……etc.etc.( cf.プロクター『健康帝国ナチス』)。
つまるところ病気の排除、死の排除、あるいは病的な文明の排除。<健康>の神聖化と義務化の意味するところは、当然そこへ行き着くのでしょう。その結果、これらの「先進的な」医療化・ヘルシズム・エコロジスムと引換えに、障害者・病人・同性愛者等が「病的な生命」「価値のない生命」として排除され抹殺されました。

・そして「労働」の神聖化、「家庭」の神聖化、「健康」の神聖化の高度化とともに、その反対物たる障害者・病人・同性愛者等の排除・抹殺は極限に達し、断種法から「安楽死」政策(「T4作戦」)にまで至ることになります。断種法に関しては、これは実はアメリカの方が明らかに先駆者で、早くも1923年までに主に精神病患者を対象に全米32州で法制化しており、ここではナチスがそれを引き継ぐ形になっていますが、「安楽死」政策の方はナチス・ドイツのもとで「T4作戦」として明確に国家プロジェクトとして組織的に推進されました。とりわけヒトラーがポーランド侵攻で対外戦争に踏みきって以降は、断種法だけでは間に合わなくなって、大量「安楽死」計画としての「ガス室送り」が断行され、「回復不可能な患者に特別な慈悲で死を与える」対象となったのは、終戦までにその子どもたちも含めて27万人に達したといわれています。その中には精神病患者(同性愛者を含む)、身体障害者、知的障害者、視覚障害者、聴覚障害者、結核患者、福祉施設入所者、老人ホーム入居者、労働不能者、爆撃で精神に異状をきたした一般市民、重症の傷病兵、病弱な避難民たちが含まれていました。
しかもこのナチス・ドイツによる「安楽死」政策は、告発者たちの期待に反して、そしてむしろ今日の安楽死論者たちによく似て、当人の<自己決定>を何よりの大前提としていたことも忘れてはなりません。障害や病やさまざまの不遇を負ったおのれを抹殺したいという自己決定こそがまず、障害や病や不遇を理由とした殺害を正当化します。「生きるに価しない生命だったんだ」と。そしてまた、自己決定を最も尊重するからこそ、その自己決定が不可能な障害者・病者らは“人間以下”ということになり、「特別な慈悲で死を与える」ことも正当化されることになります。
こうしてまず障害者の大量「安楽死」計画として出発したものが、やがて同じく「価値のない生命」とされていたユダヤ人にもそっくりそのまま拡張されて、700万人のユダヤ人虐殺に帰結するのです(その証拠に初期のガス室は精神病院内の一室でした)。そのために当てられた「最終解決」(Endlosung)の語は、今日多くの人々が訳も知らず好んでしばしば使っているとおりです。
たとえば原発は、戦後エネルギー政策の「最終解決」とされてこなかったでしょうか。一方それを支える最底辺には、慢性的に被曝せねば仕事にならない原発労働者に、「価値のない生命」と烙印を押された者たちが、人知れず次々と送り込まれていないでしょうか。第三帝国の国民たちの夢や幸福の神格化と表裏一体に断行されたあのホロコーストの慢性化、アウシュビッツの日常化としてこそ、僕らのこの“終わりなき(?)日常”はあるということをそれは突きつけてはいないでしょうか。ことは原発労働者だけではありません。平凡な日常を送る一般庶民だって、医療技術も格段に高度化した現在、出生前診断等によってずっとソフトにクリーンにインスタントに、ナチズムの美学と同じ目的をとげることができます。

<つづく>


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3・11以後に向けて(10-2)

2011-08-16 17:07:00 | 3・11と原発問題
まずテレビは、その前にラジオが確立した「国民」としての公共性を、さらに高度化し最終的に完成するメディアでした。対外的には、ラジオがその前に示した外交的武器としての可能性を、さらに高度化し最終的に完成するメディアでした。

そもそもラジオ放送そのものは、1920年代にアメリカで、無数のアマチュア無線ラジオのブームをへて開始されたものですが、こうしてそれまでの双方向的なアマチュア無線ラジオから一方向的なマス・メディアとしての放送ラジオが成立すると、ナチス・ドイツはラジオのもつ「国民」形成のメディアとしての政治的可能性を見逃さず、他のどの国よりもラジオのその特性を前面に押し出し、最大限に膨張させ、最大限に利用したのでした。現にラジオ放送はナチの台頭と切っても切り離せません。
ラジオを一般大衆に最も大がかりに普及させたのはナチス・ドイツであり、1933年8月には「国民受信機301」という超安価なラジオを開発し、また受信料を無料化して、誰もがラジオを入手できるようにしました。ラジオがブルジョアと労働者、男性と女性、大人と若者といったさまざまの既成の境界を融解し、1つの国民に統合する圧倒的な力能をもつことを見抜いていたからです。「1つの民族! 1つの国家! 1つの放送!」というナチ放送のスローガンによく示されるように、あるいはファシズムを一語で特徴づける「強制的同一化」と訳されるGleichschaultungが、ラジオの「周波数を合わせる(同調する)」にあたるgleichschaltenの名詞形であるように(佐藤卓巳『現代メディア史』p.163)、ラジオはどの集団に属する大衆もこぞって<動員>し、その差を解消して一元化し、「国民」へと統合する強力な政治宣伝の手段として期待されたのです。逆にいえば、大衆はラジオを通して、私的空間にいながらにして、どんな属性の者も等しく<参加>し、一個の政治的な主体となって「国民」へと生成するまさに民主主義的な過程そのものの手段として、それを迎え入れたのです。集権的な<動員>と民主的な<参加>を溶融させるラジオの魔力。
ナチス・ドイツは同時に、このラジオの特性を、他民族支配への政治宣伝にも転用しようとします。1933年4月より、国境周辺地域のドイツ系住民を対象に短波や中波のラジオ放送「世界放送」を行ない、これが現実政治においてもザール地方回復、オーストリア併合、ズデーテン割譲等の外交的勝利をもたらす成果をあげました。反ナチス側は当然、これに対抗する「自由ヨーロッパ・ラジオ」等のラジオ放送を立ち上げ、電波戦がくり広げられることになります。

ラジオが確立したこの「国民」としての公共性を、最終的に完成したのがテレビでしたが、テレビもまた、一般向け定時放送を世界に先がけて開始したのは、1935年3月、ナチス・ドイツであり(週3晩、90分番組)、翌年のベルリン・オリンピックの中継放送では一躍注目を浴びることになります。イギリスのBBC放送開始の1年前、アメリカのNBCの定期実験放送開始の4年前のことでした。しかしまだ画質も悪く、ラジオのように受像機の普及にまで至るのも難しく、市内の各所に「テレビホール」を設営して主に娯楽番組を見せるにとどまり、終戦までの間にラジオのように政治宣伝の直接の手段として駆使するには至りませんでした。ただし「最良のプロパガンダは間接的に機能する」と考える宣伝相ゲッベルスの基本スタンスからすれば、それもあながち唾棄すべきものではなかったはずです。
とはいえ、ナチス・ドイツが充分に展開できなかった内外の統合手段としてのテレビを、戦後世界でリードし、グローバルなヘゲモニーを確立していくのはアメリカです。国内の統合だけでなく、とりわけ「共産主義」との「心理戦」の武器として、環太平洋の同盟諸国を中心に普及が進められました。アメリカにとって、テレビは、ラジオが第2次大戦下においてナチス・ドイツの戦争宣伝と対抗するためのプロパガンダ手段であったのと同様に、戦後、版図を拡大した共産主義の脅威に対抗するための新たなプロパガンダ手段として位置づけられるものだったのです。

アメリカはまず、大戦中の1942年、自由主義陣営の大義と立場を宣伝するための海外向けラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」を創設し、主にヨーロッパでナチス・ドイツに対抗する「心理戦」の武器としました(「自由ヨーロッパ・ラジオ」)。戦後は、今度は共産主義との「心理戦」の必要からそれを継続します。やがてソ連による電波妨害等で”電波の冷戦”に突入すると(1947年に創設されたCIAの初期の仕事は、ソヴィエト周辺地域にこの電波がきちんと届いているかの調査でした)、アメリカはずっと妨害の難しいテレビ放送の開発に力を注ぎ、これを用いて共産主義に対する防壁とする「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想が、1950年、上院議員カール・ムントにより打ち出されます。その敷設地域として、とくに共産圏の外縁で脅威に曝されているとされた日本・トルコ・インドネシア・フィリピン等が想定され、日本なら全土に設置しても予算的には爆撃機B36たった2機分で済むという、非常に安上がりな防共策としても推奨されました。
ムントは上院で高らかに宣言しています:「この視覚爆弾は、原子爆弾の破壊的効果にならぶほどの大きな影響力で、建設的な福利への連鎖反応を引き起こすことができると予言いたします」と(佐藤卓巳『現代メディア史』p.199 )。

このテレビ放送網(“冷戦のテレビネットワーク”)構想に日本側から呼応したのが、前々回見たテレビブーム~原子力ブームの仕掛人、読売新聞の柴田秀利であり正力松太郎でありました。そうしてここから「日本テレビ」が、アメリカの対日「心理戦」の切札となるメディアとして開設されることになります。この開設には、アメリカ側からも、CIA・国防総省・「心理戦局」等が大いに手を貸しています。正力は「ポダム」、柴田は「ポハルト」、日本テレビは「ポハイク」という、CIAでの暗号名もありました。日本テレビが放送免許を取得したのは、NHKより3ヵ月半早い1952年7月31日。本放送開始はNHKより約半年遅い53年8月28日。だがすでに51年8月6日には、このテレビ事業への尽力の功が認められて、正力は目論見どおり、悲願の公職追放解除を手にしています。正力は個人的な野心でアメリカを利用したわけですが、アメリカは世界戦略のために正力にずっと大きな利用価値をおいていたでしょう。正力側の思惑をかなえる形でアメリカ側の思惑も着実にかなえられてゆくこの奇妙な同床異夢のなかで、日本テレビは対日「心理戦」のホープとして、地歩を固めてゆくのです。
放映された番組からみると、前々回ふれた野球やプロレス、ゴルフのスポーツ中継で大衆のナショナリスティックな復讐心を満たす一方、『パパは何でも知っている』等のホームドラマ、『ディズニーランド』等のアニメ映画などアメリカ製娯楽番組で、登場人物のアメリカ人への感情移入やアメリカ式ライフスタイルへの憧憬を喚起し、庶民の親米感情を高めるのに大いに貢献することにもなりました。お茶の間は今や、愛国心と親米感情とをともに醸成する格好の「心理戦」のフロントとなったわけです。

そして一見意外なことに、こうしたテレビの布置は、技術的にも人脈的にも、そのまま原子力「平和利用」へとつながっていくものでした。このつながりを辿ってみると、もともとあの「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想をカール・ムントとともに進めていた弁護士のH・ホールシューセン、電波技師の最高権威でユニテル社長のW・ホールステッド、ユニテル副社長のW・ダ(ス)チンスキーの3人が、日本テレビの開設にも深く関わり、この3人との出会いが柴田に後の広大なアメリカン・コネクションへの足がかりを与え、数年後の原子力外交・原子力ブーム演出に大いに力を発揮することになるのです(『巨怪伝』p.442)。やがて正力の発案として伝説化する”街頭テレビ”にしても、元はといえば、鬼才ホールステッドがムントの構想の下ですでに提唱していたものでした(もっともこれも、すでにナチス・ドイツが戦前に行なっていた「テレビホール」の焼直しにもみえますが)。
さて、この3人のうちホールシューセンは、自身も原子力平和利用に関心をもっていただけでなく、アメリカ原子力委員長のL・ストローズと知り合いで、このストローズは早く1949年から上院原子力合同委員会で原子力平和利用を促進する政策を提起し、アイゼンハワー大統領の"Atoms for Peace"演説(後述します)の雛型を4年前のこの時点から読み上げていた人物です(有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.33,37)。のみならずストローズは、その演説のなされた1953年に、アイゼンハワーに広島への(!)原発建設案を提案したこともあります。当時アメリカの政権内では、この案はしばしば提案されていたようですが、アイゼンハワーはアメリカの罪悪感ばかりを示すことになるとの理由で、この案を却下します(朝日新聞2011年8月6日付)。それでも55年1月27日には下院に、民主党のイエーツにより、「平和目的のための」原子力発電所を広島に建設する法案が提出されるほどでしたが、ここでも背後に、ジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長のジョン・ホプキンスの姿が垣間見えるのが目を引きます(中国新聞1955年1月29日)。
またホールステッドは、自身も当時アメリカの電波技師の最高権威であっただけでなく、軍事企業・原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の副社長ヴァーノン・ウェルシュと大学時代からの親友で、ウェルシュはホールステッドをとおして柴田に紹介され、原子炉売込みの顧客として正力に接近を図るのです(同pp.34,49,55)。柴田はウェルシュから、「テレビのエレクトロニクス技術をマスターした暁には、原子力技術の6~70%をマスターしたこととなり、原子力の平和利用に入る十分な素地が出来上がる」との説明を受けて、「身震いせんばかりの喜びを覚えた」ことを書き記しています(『戦後マスコミ回遊記』p.260)。
また、1954年5月に正力~柴田の招きで来日し、日本中を原子力ブームの渦に巻き込んだアメリカ「原子力平和利用使節団」が実現できたのも、柴田の要請に対しホールステッドを介してウェルシュの尽力があったからでした。その団長を務めたジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長のジョン・ホプキンスが、ゴルフ世界選手権大会「カナダ・カップ」の創始者でもあり、またウォルト・ディズニーに海軍ととともにプロパガンダ映画『わが友原子力』を製作させたスポンサーでもあったことは、前々回に見たとおりです。

<つづく>



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3・11以後に向けて(10-1)

2011-08-10 12:22:00 | 3・11と原発問題
とすると戦後日本の原子力ブーム、あるいはその先駆であるテレビ・ブームとは何だったのか、なぜあれほど大きな力をもったのかを問うことは、そのまま戦後世界の光と影、そこでのアメリカの位置を問い返すことになってくるでしょう。

テレビも原子力「平和利用」も、単に情報メディアやエネルギー供給手段であるにとどまらず、何よりもアメリカの世界戦略・対ソ戦略上の最も強力な軍事的・外交的武器であり、またそうであったからこそ、日本でもこれほど目覚ましく発展してくることができたことを知らなければなりません。
アメリカは第2次大戦に勝利し、原爆投下で全世界を威圧する地位を獲得したとはいえ、戦前まではソ連領内にとどまっていた共産圏が、この戦争でかえって東欧へ、朝鮮半島へ、さらには中国へと拡大したことに(ほとんど敗北に匹敵せんばかりの)大きな危機感を抱き、その封じ込めに戦後の一切の政治的・外交的・軍事的な関心を集中せずにはいられませんでした。そのために、狭義の政治・外交・軍事の手段だけにとどまらず、国防総省・(1947年創設の)CIA・(大統領直属機関として設立された)「心理戦局」などを駆使して、「心理戦」(Psychological Strategy)を展開していくのです(なお、「心理戦」のため軍事・政治・経済にまたがる総合的戦略を立案または調整する大統領直属の機関だった「心理戦局」は、やがて1953年9月に、アイゼンハワー大統領の下で廃止され、CIAに統合集中されて、以後CIAが今日知られるように肥大化することになります)。
この戦略のもとで、まずテレビが、共産圏の周辺国に反共イデオロギーを浸透させる「心理戦」の格好のメディアとして動員され、次いで原子力が、「平和利用」の形をとることで、軍事的にも心理的にも、反共自由主義陣営のブロック化の紐帯として動員されることになったのです。

なかんずく日本は、ソ連・北朝鮮に対峙する最前線の反共の砦として、地政学的にも枢要な位置を占める地域の1つでした。占領後もいかに実質的な植民地支配を継続するか、アメリカにとって、対日「心理戦」は喫緊の課題となります。日本の共産化を防ぎ、共産主義の防波堤とするため、アメリカの政治的意図は、日本に天皇制を護持させること、「本土」は経済成長によって貧困から離陸させ、同時に“アジアの工場”として復活させること、一方「沖縄」は軍事基地化して米軍の駐留を確保すること、しかしやがては日本全体に憲法を改定し、(核武装を除く)再軍備をさせ、いざとなれば共産圏諸国と直接戦う役目を日本に負わせられるようにすることでした。わがニッポンのナショナリストたちが、日本国家の真の独立の要件として主張してやまない、天皇制も経済成長も改憲も再軍備も、いずれも実は、アメリカの支配のために予め日本にあてがわれた、植民地主義的な制度以上のものではなかったのです。それらを確立すればするほど、ますます日本はアメリカの属国となっていく仕組みになっています。

とすればなおさら、そのことにニッポン人たちが宥和的な態度をとりつづけ、親米反共的なメンタリティを維持してくれることが必要です。そこで、とくにサンフランシスコ講和条約以降、つまり占領が終結して日本が独立して以降、アメリカは「心理戦」を盛んに行なっていきます。1953年1月30日には「対日心理戦計画」(PSB D-27)を策定、その趣旨は、「日本の知識階級に影響を与え、迅速なる再軍備に好意的な人々を支援し、日本とその他の極東の自由主義諸国との相互理解を促進する心理戦――を速やかに実施することによって中立主義者、共産主義者、反アメリカ感情と戦う」と外交文書には解説されているそうです(有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.63-4)。
すなわちアメリカは、占領終結後も米軍の駐留をつづけて、まず日本を<軍事的再占領>の体制下におくと、その正当化も狙いつつ、テレビをはじめメディアの支配によって<心理的再占領>の体制を打ち立て、さらにその「心理戦」の一環として原子力の「平和利用」を進め、あわせて保守合同による安定的な親米政権の樹立によって<政治的再占領>の体制も確立し、その政権への国民の支持を確保するのにも「心理戦」を存分に用いるという(有馬哲夫『日本テレビとCIA』、pp.273,300)、「心理戦」を中軸にすえた<軍事的再占領><心理的再占領><政治的再占領>の複合的な間接的占領体制=植民地支配体制を構築するのでした。

ところで「心理戦」となれば、本家本元の心理学はどうだったのでしょう。ちょうど講和条約前後の1951年には、ミネソタ大学のウィリアムソンを委員長とする(第2次)アメリカ教育使節団が来日し、その勧告により、アメリカの民主主義を代表するものとして(専らロジャーズ派の)「カウンセリング」が紹介され、大学等に広く導入されます。カウンセリングの専門家の来日はさらに50年代半ばにかけて相次ぎ、ロジャーズも来日、1950年代の日本は「第1次の心理学ブーム」(藤永保『「こころの時代」の不安』、p.7)に沸きかえるのでした。ちょうどテレビ・ブーム、原子力ブームの昂揚と時期を同じくするものです。ちなみにこの頃、50年代後半~60年代初めの少なくとも5年間、研究者としても最も全盛期にあったロジャーズは、CIAとの決して浅からぬ結びつきのあったことが明らかになっています(Demanchick,S.P.&Kirschebaum, H., Carl Rogers and the CIA, in Journal of Humanistic Psychology,48-1,2008)。それでなくとも、そもそも戦後日本における原子力の展開過程と(臨床)心理学の展開過程の間には、興味深い並行関係があるといえるかもしれません。それが見えにくいとすれば、見えにくくする<心理学ムラ>のごときものができているのかもしれません。

戦後日本におけるテレビと原子力は、まさにこうした底深い文脈においてこそ捉えていく必要があるでしょう(同様にして日本の心理学の歴史も、こうした底深い文脈において捉えかえされる必要があるでしょう)。


<つづく>



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