ヒトはアリストテレスの「社会的動物」の定義ではないですが、社会をなして生きるところが他の動物たちと決定的に異なるとよく言われます。しかし、動物がヒトのそれに近い意味での「社会」をなして生きることが顕著な特徴になったのは、まちがいなく哺乳類からのことですし、もっと広くとるなら、「社会」はもっと「原始的」な生物たちから連綿と受け継がれてきた伝統というべきものです。
実際のところ、むしろヒトは、群体的な無脊椎動物(colonial invertebrate)や社会的昆虫(アリ、シロアリ、ミツバチ、カリバチ、ススメバチ)、哺乳類ではハダカデバネズミと並んで、進化生物学者たちが「超社会的」な種と呼ぶものに属す動物とみることができます。いいかえれば、生物の進化において、膜翅類(アリ、ミツバチ、カリバチ、ススメバチ)、シロアリ、ハダカデバネズミ、ヒトの少なくとも4回にわたって、「超社会性」(ultrasociality)が独立に進化してきたということもできます[Haigt 2006=2011,p.74]。
とはいえヒト以外の「超社会性」は、明白な遺伝的基礎が存在し、遺伝子の近縁性を前提とする血縁淘汰にもとづく血縁性利他主義による超社会性=「真社会性」(eusociality)です。たとえば社会的昆虫では、「半数性単為生殖」と呼ばれる生殖パターンにより、メンバー間の遺伝的な近縁性が非常に大きく、その巣やコロニーは、すべての個体の遺伝子の共有率が非常に高い、いわば1つの大きな血縁家族となっており[Ibid., p.75]、それ自体がほとんど1つの大きな個体(有機体)、「超個体」をなすのです。個々のメンバーは、この大きな身体の1つの細胞です(有機体内の幹細胞と同様に、個々のアリはコロニーが必要とする特定の機能を遂行するために、さまざまな身体形態をとることができます)。これは、遺伝的な近縁性の共有に基づく限りでの超社会性と言えましょう。
しかしその遺伝子の共有率は、家系が分岐するごとに急速に低下してしまうため(きょうだいで1/2、甥や姪で1/4、いとこで1/8、またいとこどうしで1/32)、血縁性利他主義による「超社会性」は、数十匹からせいぜい百匹レベルの集団をしか維持することができません;数千もの群れになると近縁な個体が存在する確率はきわめて低くなりますから、残りは進化論的にはむしろ競争相手にしかすぎません[Ibid.,p.75]。このようなヒト以外の「超社会的」な種の、遺伝的な近縁性の共有に基づく超社会性=「真社会性」(eusociality)に対して、ヒトが示す「超社会性」(ultrasociality)ないし「『超』向社会性」[長谷川 2016,p.109]は、遺伝的に無関係な個体どうしの間で、「互恵性=返報性」(reciprocity)」によって、大規模な協力が生じる状態、互恵的利他主義による超社会性なのです。
しかし、互恵的利他主義が成立するためには、お返しをせずにタダ乗りするフリーライダーが必ず出てくるので、それを排除する仕組みを必要とし、そのためには集団内での正確な個体識別や、過去のやり取りについての正確な記憶などの高度な認知能力が不可欠になってくるでしょう[長谷川 2016,p.109]。それゆえ厳密な意味での互恵的利他主義は、ヒト以外の動物で存在が証明された例はないとされています(他の動物の相互扶助は、互恵的利他主義のような高次の能力なしに行なわれているのです)[同]。それはちょうど、情動伝染や感情移入などの「情動的共感」がさまざまな動物で観察されるのに対して、「認知的共感」は人にのみ固有のものとされるのとパラレルです[同,p.111]。
動物においても「多くの種が返報性で応じ」、ヒトではさらに、ヒトだけがさらにゴシップという返報性をもつとはいえ[Ibid.,p.85]、ロバート・チャルディーニによれば、ヒトにも「返報性の自動的な反射」があり、それは動物行動学的な反射と非常によく似たものだといいます[Cialdini 2001]。曰く、「返報性は根深い本能であり、社会生活の基本通貨と言えるだろう。」「返報性は、関係性における万能薬だ。」――好意には好意を、侮辱には侮辱を、目には目を(アイ・コンタクト)!、歯には歯を・・・というように、私たちはたえずお返しをする。。。感謝も復讐も、どちらも返報性です。そして「感謝と復讐は、人類を超社会性へと導いた大きな一歩である。そしてそれらが、1枚のコインの表裏であると認識することが重要だ。どちらか一方だけが進化することは困難だっただろう。」その原動力は、自動的かつ無意識的な模倣(同期的な活動)への性向にあるというのです。
とすると、ヒトの集団主義は生物学的な宿命でしょうか? たしかに「真社会性」では、巣やコロニーのすべてのメンバーは実際に運命共同体となっているので、「群淘汰(集団淘汰)」(group selection)の論理が貫徹しますが、ヒトの「超社会性」においては、集団の利益に対する自己犠牲はフリーライダーによって凌駕され、利己主義者のほうが次世代でより多くの子孫を残し、「個人淘汰」の貫徹の下に「群淘汰(集団淘汰)」は成立しないことが、1960年代にコンピュータ・モデルによって証明されました。
ただしこれは、D・S・ウィルソンが指摘したように、「文化」を持たない生物に適合するシミュレーションにすぎないかもしれず、文化とりわけ宗教が、遺伝子にかわって、「群淘汰(集団淘汰)」の力として働くのではないかと考えることもできます;しかも文化は、子孫を持つというゆっくりとしたプロセスで広がるのでなく、新しい行動や技術や信念を採用すると、いつでも急速に拡大するのです。こうして文化や宗教によって増強された「群淘汰(集団淘汰)」は、集団内の調和や協力を促進するかたわら、個人間の争いを集団間の争いのレベルに押し上げ、外集団のメンバーや内集団の背教者・裏切り者に対して、他の生物たちにはありえないような残虐行為を断行するのです。
ウィリアム・マクニールは、そうした文化的な「群淘汰(集団淘汰)]のために、人類の歴史において、ダンスや宗教的な儀式や軍隊訓練における同期的な動作が果たしてきた役割を明らかにしました[McNeill 1995;Ibid., pp.340-1]。「文化」の生物学的な意味、ヒトの動物性の文化的な意味が、いま改めて、強く問い直されてきていると言えるでしょう。
<参照>
・Cialdini、R., 2001 Influence: Science and practice. 4th ed. Boston: Allyn & Bacon.
・Haigt, J., 2006 The Happiness Hypothesis: Finding Modern Truth in Ancient Wisdom. =藤澤隆史・藤澤玲子訳、2011『しあわせ仮説――古代の知恵と現代科学の知恵』新曜社。
・長谷川眞理子、2016 「進化心理学から見たヒトの社会性」『認知神経科学』第18巻3-4号、
pp.108-14。
・McNeill, W. H., 1995 Keeping together in time : Dance and Drill in human history. Cambridge, M.A. : Harvard U.P.