2時間ほど時間があったので、地図を開けてみたら、平田篤胤の墓が地図の片隅に記せられていました。
秋田の江戸時代の文化人と言えば安藤昌益ですが、平田篤胤もとは意外でした。
両極端の思想家を生んだと言うのは、非常に面白いですね。
秋田藩主の佐竹氏は、もともと関東の常陸で,長く続いた名家だったようです。
関が原の戦いでの振る舞いから、徳川時代に入って秋田に国替えされました。
石高はかなり減少し,家臣をリストラして秋田の地に入ったとのことです。
秋田の地を収めるのもけっこう苦労したようですね。
明治維新をめぐる戦いは、関が原のリベンジのようなものだと考えています。
徳川の敵に回り、やっとの思いで生き残り、徳川の横暴に耐えていた諸藩が、この時とばかりに結集しています。
それを考えれば、佐竹氏の同盟離脱は非難すべきことではないかもしれません。
さて、平田篤胤ですが、秋田藩士の家に生まれ、江戸で活躍しました。
他藩の藩士の養子などになりましたが、徳川により江戸追放、出生した秋田藩預かりとなって一生を終えました。
戻ってからも比較的自由に、藩士を教えていたため、その教授を受けた者たちが同盟離脱を勧めたという説もあります。
平田篤胤の墓は、地図によれば秋田大学の裏手にあります。
住宅の合間の路地を上がっていくのですが、路の入り口がわかりませんでした。
路に入るとすぐに不自然に大きな鳥居があります。
確認すると数年前に立てられたものでした。
墓は小高い丘の上にありました。
ひらけた敷地の中に、周囲を囲まれた墓石がぽつんとあるだけで、拍子抜けしました。
周囲には太い古木がきられた後があり、木がうっそうとしていた時とは雰囲気が変わってしまったのでしょう。
秋田の江戸時代の文化人と言えば安藤昌益ですが、平田篤胤もとは意外でした。
両極端の思想家を生んだと言うのは、非常に面白いですね。
秋田藩主の佐竹氏は、もともと関東の常陸で,長く続いた名家だったようです。
関が原の戦いでの振る舞いから、徳川時代に入って秋田に国替えされました。
石高はかなり減少し,家臣をリストラして秋田の地に入ったとのことです。
秋田の地を収めるのもけっこう苦労したようですね。
明治維新をめぐる戦いは、関が原のリベンジのようなものだと考えています。
徳川の敵に回り、やっとの思いで生き残り、徳川の横暴に耐えていた諸藩が、この時とばかりに結集しています。
それを考えれば、佐竹氏の同盟離脱は非難すべきことではないかもしれません。
さて、平田篤胤ですが、秋田藩士の家に生まれ、江戸で活躍しました。
他藩の藩士の養子などになりましたが、徳川により江戸追放、出生した秋田藩預かりとなって一生を終えました。
戻ってからも比較的自由に、藩士を教えていたため、その教授を受けた者たちが同盟離脱を勧めたという説もあります。
平田篤胤の墓は、地図によれば秋田大学の裏手にあります。
住宅の合間の路地を上がっていくのですが、路の入り口がわかりませんでした。
路に入るとすぐに不自然に大きな鳥居があります。
確認すると数年前に立てられたものでした。
墓は小高い丘の上にありました。
ひらけた敷地の中に、周囲を囲まれた墓石がぽつんとあるだけで、拍子抜けしました。
周囲には太い古木がきられた後があり、木がうっそうとしていた時とは雰囲気が変わってしまったのでしょう。