世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

論語

2015-12-30 03:38:23 | 冬の日差し・夏の月

子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(子路)

先生はおっしゃった。立派な人は人との和を崩さないが、自分の意見はしっかりと持っている。勉強のできていない人は、すぐ人の意見に同じるが、内心は決して人と和しているわけではない。

   *

今日はかのじょの論語エッセイの真似をしてみましょう。わたしたちはよく、「わたしたちは同じて和せずではない」、ということを言いますが、それはどういう意味だと思いますか。

なぜ、同じて和せずではなく、和して同ぜずなのか。和とは何なのか。それは簡単に言うと、神の愛の中にみなで調和しているということです。自分を信じ、神を信じて、己の信じることをまっすぐにやっていると、不思議と、全体的に、和がなってそれぞれの力を越えた大きな愛の動きが現れてくるのです。

ソルとエルナトでは、意見は真っ向から対立しますが、ふたりは意見をぶつけあって喧嘩をしたりはしません。むしろお互いがお互いの存在を必要にしている。ソルが自分の信じることをみなのために正しくやることができるのは、エルナトがいるからなのです。

わたしたちは、神の愛を学び、その愛に添って自分を行動するとき、全く意見の違うものがいても、絶妙にバランスが取れて、全体ですばらしい仕事になっているということを、よく経験します。

でも、表面上は意見を同じにしても、心の底で相手を馬鹿にしていれば、何をなすこともできません。それは愛ではないからです。やることなすことに乱れが生じ、意見のぶつかり合いの中で何が正しいのかさえ分からず、争ってばかりいる。今の民主主義社会の一面を見るようですね。

愛を信じ、他人の意見に流されず、自分を裏切らずに自分の愛を表現するということをやっていけば、人類もまた、自分の行動が自然に愛に導かれて、それが大きな流れとなりみなの幸せにつながっていくという経験を持つはずです。自分の行動そのものが、神の愛のひとつの表現になるからです。

和して同ぜずとは、そういう意味なのです。




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