チハルだより

絵本・童話作家 北川チハル WEBSITE

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『魔女にハートをねらわれた!』

2006-10-01 | アンソロジー


絵は矢野ユキエさん。
北川チハルの「ラッキー☆クローバー」収録。
岡信子/木暮正夫・編、岩崎書店発行の初恋アンソロジーです。

「ラッキー☆クローバー」の舞台は昔わたしが「ふしぎなクローバー畑」と名づけていた近所の遊び場がモデル。おうちでお仕事だいすきのわたしが、はじめてコーヒースタンドへ行って書いたおはなし。


魔女にハートをねらわれた!

岩崎書店

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『死の国へ走るワゴン』

2006-10-01 | アンソロジー


絵は山本孝さん。
北川チハルの「墓場にひびく子もり歌」収録。
木暮正夫/国松俊英・編、岩崎書店発行の怪談アンソロジーです。

「墓場にひびく子もり歌」は、ママと赤ちゃん、ふたりの愛のかなしいおはなし。


死の国へ走るワゴン

岩崎書店

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『スクールバスにさまよう霊』

2006-10-01 | アンソロジー


絵は山本孝さん。
北川チハルの表題作収録。
木暮正夫/国松俊英・編、岩崎書店発行の怪談アンソロジーです。

「スクールバスにさまよう霊」は、どこにも居場所がないって思っていた男の子が体験するおはなし。


スクールバスにさまよう霊―平成うわさの怪談〈11〉

岩崎書店

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『怪奇スープをめしあがれ』

2006-10-01 | アンソロジー


表紙絵は、原ゆたかさん。
挿絵は山本孝さん。
北川チハルの表題作収録。
木暮正夫/国松俊英・編、岩崎書店発行の怪談アンソロジーです。

「怪奇スープをめしあがれ」は、ときを超えた悲しい想いが小学校の料理クラブを恐怖につつむおはなし。デビュー後、はじめて依頼をうけた短編。でも実は、怪談を書いてみたのは本作がはじめてで…以来、つぎからつぎへやってくるようになった怪談依頼!「こわい話は自分もこわくなっちゃうからいや~」って、断れなくなりました、笑。


怪奇スープをめしあがれ―平成うわさの怪談〈7〉

岩崎書店

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『まほうのケーキをつくりましょ』

2006-10-01 | 絵本

 

ひとくち たべれば たちまち げんき!

たんじょうびに そらとぶ ほうきを もらって、

うれしい ポポちゃん。

でも、もりの どうぶつたちに、そっぽを むかれ、めそめそ。

おとうさんと おかあさんは、

まほうのケーキを つくってくれると いったけど……?

 

まほうのケーキをつくりましょ

岩崎書店

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『きらちゃんひらひら』

2006-10-01 | 童話

 

学校にも おかあさんがいるなんて すてき!

しょうがっこうへ にゅうがくすることになった きらちゃん。

そこで、「がっこうの おかあさん」と であったよ。

がっこうの おとうさんや、おじいちゃんも いるのかな?

さあ いこう。がっこう たんけん!

 

きらちゃんひらひら

小峰書店

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『パーティーがはじまるよ』

2006-10-01 | 絵本

 

まほうで へんしん!

 ポポは 魔法つかいの 女の子。

ぽっかりぬまの パーティーへ いきたいけれど

どうやって おしゃれをしたらいいのか わからない。

そこで どうぶつたちの おしゃべりに 耳をすませ

魔法の じゅもんを となえたよ。

ルルリ ルルリ ラプンの プン!

さて どんな パーティーが はじまるのかな?

 

パーティーがはじまるよ

岩崎書店

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『空のくにのおまじない』

2006-10-01 | 童話

 

空のくにって ほんとに あるの?

ある日、なきむしの あすかは、

おしゃべりな ユウくんに

ちょっと かわった

<空のくにの しょうたいじょう>を もらいました。 

 

空のくにのおまじない

文研出版

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『そらいろマフラー』

2006-10-01 | 童話

 

ま・た・あ・し・た

ノンちゃんは ひとりで おふろに はいれない。

ことばも はなせず、

ことりみたいに チイチイ こえを あげるだけ。

でも、おねえちゃんの ナナには、

ノンちゃんの きもちが よく わかる。

 

そらいろマフラー

岩崎書店

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『チコのまあにいちゃん』

2006-10-01 | 童話

 

おにいちゃんは、チコが まもったるねん!

チコの おにいちゃんは、せが ちっちゃい。

じも ぐねぐねみみずの こうしんや。

でも チコは、おにいちゃんが だいすきやねん。

いじめっこが いたら、まもったるで。

 

チコのまあにいちゃん

岩崎書店

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魔法の条件

2006-10-01 | エッセイ


 子どもって、魔法つかいみたいだなぁ、と思うことがあるのです。たとえば、それは、こんなこと。
 パン生地みたいに柔らかい、ちっちゃな指で、上着のボタンをつかむ幼い子。
 ボタンは、めざすボタンホールにふれるけど、いつのまにやら、あともどり。
 あんまり引っぱるものだから、いびつなトンネル口となりはてたボタンホールは待ちぼうけ。手を貸そうにも、ひとりで成しとげたい幼子(おさなご)は、泣いたり、かんしゃくを起こしたり……。
 ところが、どうして。まわりの大人が肩をすくめ、見守ることしかできぬなか、ある日とつぜん、幼子が、不思議な力を得たかのように、ボタンはトンネルをすりぬける。成就のよろこびに満ち満ちた、小さなすがたを、魔法つかいと見まがう瞬間です。
 ほんのささいなことであれ、きのうまで叶わぬことが今日叶う。そんな幼子のひとこまが、わたしはとても愛おしく、手がける絵本の仕事にも、投影されていくようです。
 シリーズ絵本のポポちゃんも、まさに幼い魔法つかい。わずかに使える魔法にしても、泣けばたちまちとけちゃうていたらく。
 それでも君は、りっぱな魔法つかいのはしくれよ、なぁんてペンをとるうちに、ふと気づいたことがありました。
 魔法において肝心なのは、その方法ではなく、条件なんじゃあないかしら?
 呪文を唱えりゃ即叶う、そんなたやすいものでなく、「こうしたい、ああなりたい」と、いちずに望む意思がなによりで、その意思をつらぬくことができるのは、まわりの愛情あればこそ。
 ポポの場合、まがりなりにも、その力を発揮できるのは、魔法の道具(杖やほうき)にこめられた、両親の大きな愛が支えになっているからと、感じられてなりません。
 できぬ子が、それでもボタンにしがみつき、結果、かけちがいの服を着るはめになったとしても、それをともに見届ける誰かがそばにいることが、いまだ叶わぬステップへ、はずみをつけていくのでしょう。
 いちずな意思と周囲の愛。これこそ魔法のような瞬間が、生まれる条件なのかもしれません。
 先月、神戸の園で、ポポちゃん絵本の新作『まほうのケーキをつくりましょ』(岩崎書店発行)を読みました。手製の杖をふりながら、「ルルリルルリラプンのプン!」と、園児らと呪文を唱え、いっしょにあそんだ楽しい時間。
 まばゆい笑顔のかれらもまた、作者に勇気をあたえてくれる、偉大な魔法つかいなのでした。

■京都新聞 2006年8月8日火曜日 丹波ワイド版 口丹随想掲載



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テツガク先生

2006-10-01 | エッセイ


「肉屋の看板の絵の豚は、なぜ笑っているのか?」
 高校へ入学した春、担任の先生が、自己紹介されたときのお言葉です。哲学の先生でした。
 テツガク先生は、生徒の名前を覚える気がないらしい――しばらくすると、そんな噂がたちました。
 どうやら事実のようでした。
 名簿順の面談で、ひとり前の加藤さんが欠席した日、制服に〈北川〉と名札をつけた私にむかい、「加藤さん、加藤さん」と微笑む姿は、ふしぎに感動的でした。 とうとう私は最後まで、「加藤さん」になりすましてしまったほどでした。
 おそらく先生は、生徒の名を覚えるよりも、看板の豚くんへの探求に熱心だっただけなのでしょう。周囲の噂や、人目なんて気にとめず、ひたすらに我が道を行く先生は、後光がさして見えました。
 いっぽう私は、人目が気になる年頃でした。学校から、「読書ノート」というものが、新入生に配られました。読んだ本の所感をまとめ、担任に提出するためのものでした。
 ある日、テツガク先生が、私のノートを見つめ、おっしゃいました。
「キミ、もっと年齢相応の本を選んではどうだろう?」
 私は、恥ずかしさにうつむきました。
 世界に名だたる文豪の著作を読みふける級友たちの中にいて、〈高校生へのオススメ文学〉なるものをひろげてはいたものの、実際、私のノートには、大好きな絵本や童話のことが、びっしりつらねてあったのです。なんて幼稚な生徒と思われたことでしょう……。
 当時、私の心には、「童話作家になりたいな」という夢が、すでにもぞもぞとありました。でも、どうすれば叶うのか、全くわかりませんでした。ただ気まぐれに、好きなものを読んだり書いたり。やっぱり幼稚だなァと、自覚は充分あったのでした。
 笑われたってしかたない――私はついに顔をあげ、テツガク先生に、たよりない夢を伝えました。
「絵本や童話、児童文学の勉強をしていきたいと思っています」と。
「ならば、どんどん読むといい」
 先生は、あっさりとうなずいて、エンデやトールキンの名を挙げながら、私向きの本をいくつか紹介してくださいました。
 生徒の名前は、ひとつひとつ覚えてなくても、ひとりひとりの心には、真摯に向きあうことを忘れない、テツガク先生なのでした。
 あれから何年もたちました。
 先生、その後、豚くんへの探求は、いかがでしょうか?
 私はあのころと、たいして変わらぬ心のままに、夢の行く手を追っています。

■京都新聞 2006年3月24日金曜日 丹波ワイド版 口丹随想掲載



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ゆるやかな時間

2006-10-01 | エッセイ


 こどものころ、家の書棚にあったのは、母が時折ひろげる「家庭の医学」と父の仕事に関する専門書ばかりでした。
 わたしは読みたい本を求め、学校の図書室に足しげく通うこととなりました。
 小学五年生のある日のこと。担任の先生が、ずっしりとした重みのある本を手渡してくださいました。灰谷健次郎さんの『太陽の子』。鮮烈でした。この本で、はじめて〈戦争〉を見たように思いました。
 テレビっ子世代であるわたしが、しばしばかじりついた画面のなかに、戦争を伝える報道はありました。けれど目前の惨状は、その後、せかせかと切り替わるコマーシャルや、ゆかいな別番組の登場で、現実みを帯びることなく混乱のうちに消えました。
 戦争の恐ろしさや愚かさを真に伝えてくれたのは本でした。不思議です。前掲の本は、戦場を直接描いているのではありません。けれど、ブラウン管から押し寄せる、まさしく起こったはずの戦闘シーンよりもまざまざと、その実体を心に焼きつけていったのは、なぜなのでしょう。
 かえりみて、思うのです。
 活字をたどり、物語にひたり、登場人物たちの痛みや祈りを分かちあう、そういった、ゆるやかな時間のなかで、フィクションを超える真実を心に深く受けとめた、ということではないのかな、と。
 ものごとを理解するのに大切なこと――現実をただ眺めるだけでなく、心のまなこでとっくり見つめることを、あのとき教わったような気がします。
 暮らしが高速化していくなかで、本を読むゆるやかな時間は貴重です。急ぎ足では見落としがちな、ささいで、そして、かけがえのない風景を心のまなこにのびのびと映しだしてくれるから。
 その心地よさを知ってから、わたしはテレビからしだいに遠ざかっていきました。一方的なスピードで、見せられたり聞かされたりすることに、心がすりへるような寂しさを覚えるようになったのです。
 本はまことに寛容です。
 読み手の好みや気分にあわせ、リズムやテンポをまかせてくれます。言葉の意味に迷ったり、趣旨がのみこめなくて立ちどまってしまうとき、あともどりや繰りかえしを心ゆくまで許してくれます。ページを伏せても、つづきを流さず、いついつまでも静かに待ってくれるのです。なんてすてきな友でしょう。
 じっくりと世界を見つめるように本を読む、このゆるやかで幸福なひとときが、わたしはとても大好きです。

■京都新聞 2005年11月29日火曜日 丹波ワイド版 口丹随想掲載



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こどもの居場所

2006-10-01 | エッセイ


 長女が小学校に入学して、まもないある日のことでした。すでに童話を書く仕事をしていた私に、「ここを舞台に書いてみたら」という小牧和彦校長先生のお言葉。亀岡の山に抱かれて佇む小さな東別院小学校は、「山のした小学校」として、この夏発売された私の最新刊『きらちゃん ひらひら』(小峰書店)にお目見えすることとなりました。
 といってもフィクションです。入学への期待に胸をふくらませ、未知の世界に飛びこんでいく純真無垢なきらちゃんと、きらちゃんのはずむ体、ゆれる心をまるごと迎える先生たちとの出会いに満ちた物語。それは、私の思い出の中から生まれました。
 出身の愛知県の小学校に入学した当初、席につくのがもどかしく、気ままにうろつく幼い私を、学校中の先生が、両手を広げて受けとめてくださいました。あのときの私には、「学校ってどんなところ?」という好奇心、そして、「本当にここにいてもいいのかな?」と居場所を求める不安な気持ちが、ないまぜになっていたように思います。
 私にとって小学校は、得体の知れない巨大な社会の入り口でした。そこには、規律という名の風がびゅうと吹き、驚くばかりの知識の花が、咲きみだれていたのです。
 風に打たれ、花にみとれて飛び歩く傍若無人な迷い子を抱きあげてくれた腕の中。そこが、私の心の居場所でした。誰かに決められた席でなく、自分自身が納得しながら見つけた拠り所。幸福な体験は、のちのち、自分の居場所を何度も見失ってしまうたび、くずれ落ちていきそうな心の支えとなりました。
 こどもにとって、家庭に居場所があることは幸せです。けれども、社会にだって居場所がなければ、なかなか巣立つ勇気をふるえるものではありません。
 さまざまな事情から、こども同士で遊ぶ時間や、存分に摩擦をおこす空間が減少しているご時世です。だからこそ思うのです。こどもたちと社会をつなぐ場所として、小学校が、さらに魅力あふれる入り口であればいいのにな、と。
 巨大な社会の入り口で、居場所を見つけた日々があったから、いまの私がここにいる――とすれば、『きらちゃん ひらひら』は、童話を書いている私の原動力の物語。
 こどもたちのみずみずしい魂が安堵して、羽ばたく勇気を得られるような出会いの恵みを祈りつつ、私はこの物語を書きました。
 これから入学する子に、いま通う子に、きらちゃんの元気な声が届くならばうれしいな。
「さあ行くよ。心の居場所をさがしにね!」

■京都新聞 2005年8月16日火曜日 丹波ワイド版 口丹随想掲載 



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絵本体験

2006-10-01 | エッセイ
 

 新年度が始まって、早ひと月がたちました。なにかと心浮き立つ出会いの春、できれば真の自分に上乗せして、周りからよく見られたらいいのにな……と、つい背伸びをしてしまうことって、ありませんか?
 この春発売された私の新刊『パーティーがはじまるよ』の主人公ポポがそうでした。ポポは魔法使いの女の子。森でパーティーが始まると知り、魔法でおしゃれに挑戦するのですが大失敗。ね? こんな経験、きっと誰にでもあるでしょう。おしゃれでなくても、自分をよく見せようと頑張った結果が裏目に出てしまうようなこと。でも、落ちこむことはありません。人間万事塞翁が馬、未来は素敵に予測不可能です。ポポが行ったのだって、実は、おしゃれなんて必要なしの「どろんこパーティー」でしたから。(これから絵本を手にする子たちには、どうぞ内緒に!)
 ポポは重いマントやブーツや帽子を脱ぎ捨て、どろんこ沼に飛びこみます。見栄や束縛を払いのけ、混沌とした明日にだって、ありのままの姿で飛びこんで行けばいいじゃない、そんな作者の想いが、ラストで体現されたのでした。
 けれども、私は子どもたちに、作者の秘めたる想いなどそっちのけで、ページをめくってほしいと思います。ただ絵本の世界に夢中になって、「おもしろかった!」と遊んでもらうことこそ本望です。
 幼年時代の心地よい絵本体験は、豊かな心の栄養となって沈殿し、時を重ねるごとに、ゆっくりと結晶していくことでしょう。やがて大人になり、思い出の本と向き合う時、新たな発見を見出すことがありますが、それは自分の内なる結晶が、多面的な見方を可能にしたからかもしれません。
 良質な子どもの本というのは、一生涯にわたり新鮮な出会いの喜びを与え続けてくれるもの。私が心から作りたいと願うのは、そのような本なのです。
 この絵本は、幼い子らが存分に楽しめるようにと、オペレッタ(歌劇)のリズムを意識し、ファンタジックでシンプルなストーリーに仕立てました。読み語りをしてくださる大人の方にも楽しんでいただけましたら幸いです。
 おしまいに少し気になっていることを。子どもの遊びから、どろんこが疎遠になりつつあるようです。理由の多くは「汚れるから」、「汚すと叱られてしまうから」。
 泥には土と水のぬくもりがあります。大地の恵みを肌に伝え、自然への情緒を育むどろんこ遊び。お日様のもとで興じる子らの笑顔は、さながら太陽のよう。小さな地上の太陽が、いつまでも、未来を明るく照らしますように。

■京都新聞 2005年5月10日火曜日 丹波ワイド版 口丹随想掲載



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