原稿を書くことが仕事なのに、原稿用紙が苦手です。あのマス目がいけません。
「あなたはね、いまからね、ここにきっちり文字を書くのですよ。ええ、ええ、マス目から決してはみ出さず、行儀よく」などというような、無言の圧力をどうにも感じてしまいます。
ノートの罫線も同様です。
自由な気持ちをのびのび表現するのには、整然と引かれた線は、無粋で、おじゃまで、おせっかい。だからいつも、無地のメモやチラシの裏に、縦横かまわず、書き散らしていくのです。
そういうわけで、いざパソコンで、原稿の打ち込み作業を始めても、どの文が、どの文につながっているのやら、まるでパズルを解いているかのよう。メモを読み取ろうとするだけで、頭はオーバーヒートへ一直線。結局は、メモに背を向けて、お昼寝か、コーヒータイムか、よそ事をはじめるか…あるいは気のむくままに、キーボードをぽつぽつたたき、あらたな原稿を仕上げていくかのいずれかです。
こうしてせっかく書いたメモたちは、多くがお蔵入りとなる運命。めったに読み返すこともありません。書きとめたアイデアも、どんどん忘れていくけれど、なんの問題もありません。忘れてしまうようなアイデアは、はなから、たいしたものではないのでしょう。
長いものを書く才能も、持ちあわせてないようです。四百字の原稿用紙に換算すれば、私がふだん書くものは、せいぜいが二十枚。短編が好きなのです。
完成までの時間はまちまちで、十枚が半日で仕上がることもあれば、五枚に数年かけることも。
新刊『はなちゃんのはなまるばたけ』(岩崎書店/西村敏雄・絵)は、十八枚の初稿を仕上げるまでに、構想から二年半、出版までに三年半かかりました。はじめて小学校で字を習う「はなちゃん」が、なかなかうまくはいかなくて、「オヤオヤ、マーマー、アラアララ!」な一日を送るおはなしです。
うまくいかないことなんて、そうそう珍しくはないけれど、決められた枠の中で、努力してもきっちりできない自分に気づくとき、人間は、おとなでも子どもでも、「枠」の無言の圧力を感ぜずにはいられない…そんなものではないのでしょうか。
けれど、子どもは素晴らしき才能の持ち主です。どんな状況にあろうとも、なにかしら、面白いことを見つけては、屈託のない心でもって、世界を明るく照らしてくれるから。
この偉大なる、愛すべき子どもたちへ敬意をこめて、これからも、ささやかなおはなしを贈りつづけていきたいと思う年頭です。
■京都新聞 2009年1月27日 丹波版 口丹随想