私は窓が好きなのです。
震災で、住むべき家を失って、亀岡の古家へ移ることになった時、見知らぬ土地へ不安が募っていきました。それを拭ってくれたのは、当分入れる家具もない、二階のからっぽの部屋の窓。腰高のよくある横引き窓でした。
近づくと、眼下に植木屋さんの緑の庭、ほどよく離れた所には、段々と連なる家々が見えました。
けれど部屋の真ん中で、仰向けに寝転ぶと、その窓は、「空しか見えない窓」になったのです。ささやかな秘密を見つけたようなときめきが、体に満ちていきました。この窓のある家ならば、きっと暮らしてゆけるだろう、と感じるものさえあったのです。
思えば、「窓好き」は、昔からのことでした。お転婆でありながら、よく熱を出す子どもであった私は、たびたび布団の中で、すごすはめになりました。そんなとき、窓をぼんやり眺めては、耳をすましていたのです。
表通りの人の声。戸袋に巣材を運ぶ小鳥の羽音。雲の流れ。風の道。うつろう日の光の色あいや、夕空に踊る蝙蝠の影…。それらはすべて、幼心を優しくくすぐるようでした。
窓は、私にとって、外と内の空間を隔てるものではなくて、繋ぐもの。そして、大きな世界の営みを小さな部屋に映し届けてくれる、明るい瞳なのでした。
大人になり、曇った窓に指で落書きする子を眺めることも、好きになっていきました。その子が、声にはならない、言葉にできない想いの淵を窓に伝えているようで、なんとも愛おしいのです。
そして、その子が私の視線に振り向いて、はにかむ姿も好きなのです。やがて、その子が去った後、窓に残る落書きの、静かな声に耳をすますのも、いいものです。
窓に落書きなどしたら、跡がついて掃除がとっても大変よ、と、昔、母に叱られました。今、母となり、私もたびたび、同じことを言いたい気持ちにかられます。
けれど、やはり、窓に伸ばす子の指を止めることができません。それどころか、さあさあどうぞというように、毎朝、家中のカーテンをすっかり開けてまわるのが、癖になっていきました。そう、ドレープばかりか、レースまでも、きっちりと。
外と内の空間を繋げてくれるだけでなく、景観を楽しませてくれるだけでもなく、幼子の遊び心にひそむ想いも、黙って受けとめてくれる窓…そんな窓をとうとう本に登場させることができました。
『まどのおてがみ』(文研出版)。風邪をひき、外へ遊びに行けない子が主人公。揺らぐ少女の心を、画家のおおしま りえさんが、色鉛筆で見事に描いてくださった絵本です。
■京都新聞 2009年5月12日 丹波版 口丹随想