本著者の作品を読むのは初めて。新聞広告でこのタイトルを見て惹かれた。
豊臣秀吉を暗殺しようとする事件が起こる。サブタイトルで秀吉と本因坊を敢えて対比しているということは、本因坊が秀吉暗殺に何等かの関与をするという暗示? 本因坊がどう関わるのか? タイトルが注意を引く。ストレートに興味を抱いた。
私にはもう一つ惹きつける要因があった。京都の東山仁王門の交差点から仁王門通を西に入ると、南側に寂光寺がある。
その門前に「碁道名人 第一世本因坊算砂旧跡」の石標が建っている。
碁は不案内なのだが、この石標が縁で以前にこの寺を訪れ、もう一つのブログに記事を載せたことがある。
本因坊は初代算砂が住んでいた建物の名称であることをこの探訪の時に知った。元々は京都御所の西側(室町出水)にあった寺が、秀吉による京都大改造計画の一環で、寺町通二条に移転させられた。この移転の時に、寺内に本因坊という坊舎が建てられた。
寂光寺は顕本法華宗の寺で、開山日淵上人の法弟にあたる日海と称する僧が、そこに住んでいた。日海は碁に秀でていて、織田信長から「名人」と称されていた。日海は後に本因坊算砂と号する。
辞書に「本因坊」が載っていて「碁の優勝者に与えられる称号の一つ」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されている。
本因坊という人物画がサブ・タイトルに登場することで興味が増幅された次第。
時代歴史小説には様々なタイプがあると思う。本作の構想と構成を私はけっこうユニークなものと思う。天正10年(1582)本能寺の変から秀吉の死までの時期に焦点をあてていく。本書の主人公は本因坊、つまり碁の名人・日海である。信長、秀吉、家康等々は日海と碁を打つ相手として登場して来る。ここでは、碁は手段でしかない。
歴史的事実は、残された証拠・史資料・記録が現存するものであり、点的もしくは部分線的情報にしか過ぎない。事実の間隙を作家が想像力と創作力でどのようにつないでいくかという面白さが時代歴史小説の醍醐味である。そのつなぎかた、フィクションの織り込み方に様々なバリエーションが生まれる。ごく穏当なフィクションの織り込みから、かなり思い切ったフィクションの織り込みまで。本作はどちらかと言えば後者に属する。
本作の全体構成をまずご紹介する。
「序」は、本因坊算砂が、山崎の天王山の麓に所在する妙喜庵の茶室・待庵に、慶長19年(1614)年文月、徳川家康に招かれる場面から始まる。待庵で、家康は、服部半蔵が関ヶ原の戦いののちに、ある咎人(トガニン)の発した言だと報告したことを、算砂に投げかける。「『太閤殺しは本因坊に聞け』と咎人は発し、舌を噛みきったそうじゃ」。家康は算砂にこの意味を問う。
算砂は、32年前、天正10年(1582)水無月に遡り、己の半生を回想し始める。回想は、秀吉の死が明らかにされ、朝鮮半島から憔悴した兵たちが舞い戻ってきた年までの期間に及ぶ。
エピローグに相当する部分が、この期間からさらに16年後、慶長19年神無月の場面になる。それが現在時点。
待庵で、算砂がこの回想(このストーリー本文)を家康に語ったか、語らずに済ませられたかは、読者の判断に任されている。場面描写から推察すると、語らざるを得なかったのでは・・・・という気がするけれど。
このストーリーのおもしろさは、碁を打つ場面で、対局者の語りが歴史的事実の大きな流れを日海と読者に伝える形で進展する構想にある。日海自身の行動描写以外は、碁の対局相手が、碁を打ちながら、己の胸の内を問わず語りに語り、己の思念を吐露するスタイルになっている。対局相手がいわば時代の流れのスポークスマンで、日海は聞き役に徹している。その過程で日海は時代状況の変化、人間関係の変転等を熟知する。読者も同じ。
そこに、大胆なフィクションがいくつか織り込まれて行き、全体が方向付けられる。その最初が回想の冒頭にまず出てくる。本能寺の変が発生する前日、日海は本能寺において信長の相手をして碁を打っていた。本能寺の変が勃発すると、信長は日海を同行させ、本能寺から秘密の抜け穴を経由して、密かに安土まで戻る。この経緯描写がストーリーの始まり。勿論、日海はこの事実を一切誰にも語らない。
日海の心情を著者は記す。「信長公に抱いた恋情は一時であっても、畏敬が薄れることは片時もない。日海にとって、織田信長は永遠に侵すべからざるものでありつづけている」(p20)と。
このストーリーが語る時期において、多くの場合、日海はいわば黒子的役割である。時代状況を語り、分析し、意見を述べるのは誰か。日海と対局する相手なのだ。
それは誰か。相国寺の傍に「啓迪院(ケイテキイン)」という医学舎を創設した高名な薬師(医師)の曲直瀬道三。彼は正親町天皇の脈診もする薬師。もう一人は、秀吉の側近で、京都所司代の前田玄以。日海は著名な大名たちにも招かれ、碁を打ち、語る機会もある。
信長に「名人」と称された日海は、信長なき後、秀吉が勢力を伸ばすに伴い、「囲碁坊主」として、秀吉の御伽衆の一人に組み込まれていく。
御伽衆を統べる立場の薬師・施薬院全宗は、要所要所で日海の前に現れる。それが日海を心理的にも危地に立たせる役回りになっていくところが興味深い。
一方で、日海はそれぞれの領域で著名な人々と交わる機会が増える。それが時代の潮流を知り、考える機会、己の身の振り方をも考慮する機会になっていく。たとえば、吉田神社を統べる吉田兼和、当代一の連歌師・里村紹巴、千利休との交流などである。
勿論、日海の行動そのものの中で、当時の社会状況での関わりが描き込まれていく。京都にある切支丹の南蛮寺の神父との関わり、大坂の下層民の頭・石川五右エ門たちとの出会い、服部半蔵との出会いなどが、当時の社会状況理解を広げて行くきっかけになり、おもしろい。
日海は、碁の対局という場を介して、時代状況の精選された要約情報に触れられる環境に居る。その中で、たとえトップシークレット情報を知っても、日海は口のかたさで己の立ち位置を見極めつつ生き抜いていく。一方、口の硬さが日海をさらに窮地に追い込んでも行くことにもなる。そこが興味深い循環である。
その最終ステージが、太閤暗殺というシナリオ!! 日海はある役割を担わされる危地に陥る。このフィクションの織り込み方が実におもしろい。日海、どうする??
最後に、本作で印象に残る文章をいくつかご紹介しておきたい。
*世の秩序を保つのに、茶の湯はまことに便利な道具だ。それゆえ、利休には有力な武将何人ぶんほどもの価値があり、秀吉にもそのことがよくわかっている。ただ、道具はあくまでも道具でしかない。権威付けしようとすれば、無理が生じてくる。 p130
*合戦とは所詮、人と人との殺しあいなのだ。どのような大義名分もまやかしにすぎぬ。 p165
*人は誰しも闇を抱えておる。闇をみつめてその正体を知り、仕舞いには闇ごと飲み干す。それが茶やと申す者もおる。
人を大勢殺めた武将たちにとって、茶の湯は追善にほかならず、散っていった者たちを供養し、生死の区切りをつけたいがために茶を所望すると、利休は静かに語ったのだ。
p192
*露地の地は心であると、吉田兼和に教わったことがあった。煩悩を抱えた者は心のありようを晒したまま露地を進み、蹲踞の冷水とともに煩悩を洗い清め、茶室の躙り口へ向かう。背を屈めて潜ったそのさきにあるのは彼我の境目、夢とうつつのあわいなのだという。 p196
ご一読ありがとうございます。
補遺
本因坊算砂 :ウィキペディア
日淵 :「コトバンク」
曲直瀬道三 :ウィキペディア
前田玄以 :ウィキペディア
吉田兼見 :ウィキペディア
施薬院全宗 :ウィキペディア
露地(茶庭)とは :「庭園ガイド」
探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺
⇒ もう一つの拙ブログ「遊心六中記」に載せたブログ記事(2021年11月)
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豊臣秀吉を暗殺しようとする事件が起こる。サブタイトルで秀吉と本因坊を敢えて対比しているということは、本因坊が秀吉暗殺に何等かの関与をするという暗示? 本因坊がどう関わるのか? タイトルが注意を引く。ストレートに興味を抱いた。
私にはもう一つ惹きつける要因があった。京都の東山仁王門の交差点から仁王門通を西に入ると、南側に寂光寺がある。
その門前に「碁道名人 第一世本因坊算砂旧跡」の石標が建っている。
碁は不案内なのだが、この石標が縁で以前にこの寺を訪れ、もう一つのブログに記事を載せたことがある。
本因坊は初代算砂が住んでいた建物の名称であることをこの探訪の時に知った。元々は京都御所の西側(室町出水)にあった寺が、秀吉による京都大改造計画の一環で、寺町通二条に移転させられた。この移転の時に、寺内に本因坊という坊舎が建てられた。
寂光寺は顕本法華宗の寺で、開山日淵上人の法弟にあたる日海と称する僧が、そこに住んでいた。日海は碁に秀でていて、織田信長から「名人」と称されていた。日海は後に本因坊算砂と号する。
辞書に「本因坊」が載っていて「碁の優勝者に与えられる称号の一つ」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されている。
本因坊という人物画がサブ・タイトルに登場することで興味が増幅された次第。
時代歴史小説には様々なタイプがあると思う。本作の構想と構成を私はけっこうユニークなものと思う。天正10年(1582)本能寺の変から秀吉の死までの時期に焦点をあてていく。本書の主人公は本因坊、つまり碁の名人・日海である。信長、秀吉、家康等々は日海と碁を打つ相手として登場して来る。ここでは、碁は手段でしかない。
歴史的事実は、残された証拠・史資料・記録が現存するものであり、点的もしくは部分線的情報にしか過ぎない。事実の間隙を作家が想像力と創作力でどのようにつないでいくかという面白さが時代歴史小説の醍醐味である。そのつなぎかた、フィクションの織り込み方に様々なバリエーションが生まれる。ごく穏当なフィクションの織り込みから、かなり思い切ったフィクションの織り込みまで。本作はどちらかと言えば後者に属する。
本作の全体構成をまずご紹介する。
「序」は、本因坊算砂が、山崎の天王山の麓に所在する妙喜庵の茶室・待庵に、慶長19年(1614)年文月、徳川家康に招かれる場面から始まる。待庵で、家康は、服部半蔵が関ヶ原の戦いののちに、ある咎人(トガニン)の発した言だと報告したことを、算砂に投げかける。「『太閤殺しは本因坊に聞け』と咎人は発し、舌を噛みきったそうじゃ」。家康は算砂にこの意味を問う。
算砂は、32年前、天正10年(1582)水無月に遡り、己の半生を回想し始める。回想は、秀吉の死が明らかにされ、朝鮮半島から憔悴した兵たちが舞い戻ってきた年までの期間に及ぶ。
エピローグに相当する部分が、この期間からさらに16年後、慶長19年神無月の場面になる。それが現在時点。
待庵で、算砂がこの回想(このストーリー本文)を家康に語ったか、語らずに済ませられたかは、読者の判断に任されている。場面描写から推察すると、語らざるを得なかったのでは・・・・という気がするけれど。
このストーリーのおもしろさは、碁を打つ場面で、対局者の語りが歴史的事実の大きな流れを日海と読者に伝える形で進展する構想にある。日海自身の行動描写以外は、碁の対局相手が、碁を打ちながら、己の胸の内を問わず語りに語り、己の思念を吐露するスタイルになっている。対局相手がいわば時代の流れのスポークスマンで、日海は聞き役に徹している。その過程で日海は時代状況の変化、人間関係の変転等を熟知する。読者も同じ。
そこに、大胆なフィクションがいくつか織り込まれて行き、全体が方向付けられる。その最初が回想の冒頭にまず出てくる。本能寺の変が発生する前日、日海は本能寺において信長の相手をして碁を打っていた。本能寺の変が勃発すると、信長は日海を同行させ、本能寺から秘密の抜け穴を経由して、密かに安土まで戻る。この経緯描写がストーリーの始まり。勿論、日海はこの事実を一切誰にも語らない。
日海の心情を著者は記す。「信長公に抱いた恋情は一時であっても、畏敬が薄れることは片時もない。日海にとって、織田信長は永遠に侵すべからざるものでありつづけている」(p20)と。
このストーリーが語る時期において、多くの場合、日海はいわば黒子的役割である。時代状況を語り、分析し、意見を述べるのは誰か。日海と対局する相手なのだ。
それは誰か。相国寺の傍に「啓迪院(ケイテキイン)」という医学舎を創設した高名な薬師(医師)の曲直瀬道三。彼は正親町天皇の脈診もする薬師。もう一人は、秀吉の側近で、京都所司代の前田玄以。日海は著名な大名たちにも招かれ、碁を打ち、語る機会もある。
信長に「名人」と称された日海は、信長なき後、秀吉が勢力を伸ばすに伴い、「囲碁坊主」として、秀吉の御伽衆の一人に組み込まれていく。
御伽衆を統べる立場の薬師・施薬院全宗は、要所要所で日海の前に現れる。それが日海を心理的にも危地に立たせる役回りになっていくところが興味深い。
一方で、日海はそれぞれの領域で著名な人々と交わる機会が増える。それが時代の潮流を知り、考える機会、己の身の振り方をも考慮する機会になっていく。たとえば、吉田神社を統べる吉田兼和、当代一の連歌師・里村紹巴、千利休との交流などである。
勿論、日海の行動そのものの中で、当時の社会状況での関わりが描き込まれていく。京都にある切支丹の南蛮寺の神父との関わり、大坂の下層民の頭・石川五右エ門たちとの出会い、服部半蔵との出会いなどが、当時の社会状況理解を広げて行くきっかけになり、おもしろい。
日海は、碁の対局という場を介して、時代状況の精選された要約情報に触れられる環境に居る。その中で、たとえトップシークレット情報を知っても、日海は口のかたさで己の立ち位置を見極めつつ生き抜いていく。一方、口の硬さが日海をさらに窮地に追い込んでも行くことにもなる。そこが興味深い循環である。
その最終ステージが、太閤暗殺というシナリオ!! 日海はある役割を担わされる危地に陥る。このフィクションの織り込み方が実におもしろい。日海、どうする??
最後に、本作で印象に残る文章をいくつかご紹介しておきたい。
*世の秩序を保つのに、茶の湯はまことに便利な道具だ。それゆえ、利休には有力な武将何人ぶんほどもの価値があり、秀吉にもそのことがよくわかっている。ただ、道具はあくまでも道具でしかない。権威付けしようとすれば、無理が生じてくる。 p130
*合戦とは所詮、人と人との殺しあいなのだ。どのような大義名分もまやかしにすぎぬ。 p165
*人は誰しも闇を抱えておる。闇をみつめてその正体を知り、仕舞いには闇ごと飲み干す。それが茶やと申す者もおる。
人を大勢殺めた武将たちにとって、茶の湯は追善にほかならず、散っていった者たちを供養し、生死の区切りをつけたいがために茶を所望すると、利休は静かに語ったのだ。
p192
*露地の地は心であると、吉田兼和に教わったことがあった。煩悩を抱えた者は心のありようを晒したまま露地を進み、蹲踞の冷水とともに煩悩を洗い清め、茶室の躙り口へ向かう。背を屈めて潜ったそのさきにあるのは彼我の境目、夢とうつつのあわいなのだという。 p196
ご一読ありがとうございます。
補遺
本因坊算砂 :ウィキペディア
日淵 :「コトバンク」
曲直瀬道三 :ウィキペディア
前田玄以 :ウィキペディア
吉田兼見 :ウィキペディア
施薬院全宗 :ウィキペディア
露地(茶庭)とは :「庭園ガイド」
探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺
⇒ もう一つの拙ブログ「遊心六中記」に載せたブログ記事(2021年11月)
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