千里眼クラシックシリーズの第10弾である。このストーリーはスケールが大きさが生み出す荒唐無稽さの要素、そこに幕末期以来現在まで連綿として話題に上る一伝説の要素、そこに臨床心理士の活躍する世界という要素が加わり、それらが巧みに組み合わされていく。エンターテインメント性に溢れた面白さが強みといえる。本書(完全版)は平成21年(2009)2月に文庫が刊行されている。
前作の舞台となったイラクから戻ってきた岬美由紀は、またもや手許に届いた不可解な葉書がトリガーとなって、大事件に捲き込まれて行く。このストーリーでは、美由紀の意識の底に沈んでいた過去の悩ましい事実が重要な要素として絡んでくる。美由紀が事件に関わるプロセスで一之瀬恵梨香との運命の出会いが起きる。
一之瀬恵梨香。美由紀が自衛隊に入隊した後に、美由紀の両親が交通事故死した。対向車に接触されたことが原因で、両親の車は道路脇に飛び出し、二階建てアパートを直撃。破損したガソリンタンクに引火して爆発事故が起き、アパートは焼失した。唯一、部屋にいたのが一之瀬恵梨香で、彼女は軽傷で助け出された。恵梨香は父親が自宅に火を付け無理心中をはかったことのショックでPTSDに陥り、ようやく立ち直り独り暮らしを始めたところだった。しかし、この事故が恵梨香のPTSDを再発させた。美由紀は死亡した両親の家を恵梨香に無償で譲渡した。そんな苦い過去の記憶を美由紀は背負っていた。
このストーリーの読ませどころの一つは、運命的な出会いの後に美由紀の心の中に生まれる悔い、関係づくりの試みから生じる対立・葛藤、理解し合うことの困難性など、悩ましい思いに囚われ続けていく経緯の描写である。
二人の再会は、恵梨香の反発から全てが始まっていく。ストーリーの進展において、美由紀と恵梨香の心理描写が底流をなしていく。勿論、恵梨香自身も事件のただ中に捲き込まれていくのだ。というよりも、恵梨香が戸内利佳子が訪ねてきたことにより、利佳子の発言を受け、恵梨香が衝動的に利佳子を臨床心理士である岬美由紀が勤務する病院前まで自分の車で送るという行動を取ってしまった。それが美由紀を事件に引き込み、恵梨香もまた渦中の人となる一因といえる。
荒唐無稽さのベースになるのは、萩原である。埼玉、千葉、茨城の県境にあった広大な国有地の森林が伐採され、28の市と町が形成されて、萩原ジンバテック特別行政地帯が誕生した。ここには正式な地方行政は確立していない。埼玉県知事が便宜上の行政責任を持つ形が取られている。しかし、ジンバテックというIT企業が土地を所有し実質的な権限をもつ地域である。俗称、萩原県と皆が呼んでいる。
ここが特殊なのは、同じサイズの住居が並び、人々はそこに住む。月10万円の生活費が支給され、就労の義務がないこと。病院、スポーツセンター、美容室、理髪店などは無料で利用できる。萩原線という八路線、270キロメートルの路線がある。
家に引き籠もり何不自由なく生活したい人々が応募して全国から住人が集まった。800万戸もあった住居は移住者で埋まってしまった。そんな特異な地域である。
その萩原県を一IT企業が資金面で支えているというのだから、ちょっと想像を絶する。それを実行させているのは、社長の陣馬輝義というIT富豪だった。一般企業にとって、これは何のメリットがあるのか。ここに荒唐無稽さのベースがある。
逆にこの萩原県を実質運営するジンバテックと陣馬輝義が何をしようとしているのか。読者はこれから何が起こるのかということに興味を引きつけられずにはいられない。
さらに、一之瀬恵梨香は、この萩原県に移住し、心理相談員と名乗っていたのだ。
このストーリー、住民の一人である戸内利佳子が死後の世界・地獄の様を夢でみるようになり、それが夢とは思えないリアルさを感じるという苦しみを繰り返すようになる。テレビで、臨床心理士の岬美由紀がイラクから帰国の途についたという報道を見る。そして、臨床心理士に相談しようと思う。萩原線の駅に設置された案内ロボットに尋ねると、心理相談員・一之瀬恵梨香を、該当カテゴリで合致する3件の内の一つとして回答した。利佳子は萩原県に住む恵梨香を訪れる。それが結果的に利佳子が岬美由紀に会える契機となる。利佳子の夢の話を聞き、要因分析するためにも、利佳子の家を訪ねると約束する。逆に言えば、美由紀が萩原県の問題事象に一歩足を踏み入れることになる。
一方、美由紀は鍋島院長から不在中にたまった美由紀宛のはがきの束を受け取る。その中に意味不明の文字を羅列した葉書にまず目を止めた。その謎解きを即座にしたのだが、それがきっかけで、帰国後早速、美由紀は東京タワーで発生した事件に自ら関わりを持っていく羽目になる。これまた想像外の事件なのだ。それは美由紀を誘い出す一つのステップにしか過ぎなかった。
メフィスト・コンサルティングの最高顧問ダビデが絡んでくる。
一之瀬恵梨香は、岬美由紀と間違われてメフィスト・コンサルティングのノンキャリアのスタッフに拉致され、ダビデと出会うことになる。その場所は、慶応4年の安房国をリアルに再現した宿場町だった。ダビデはあるところで、実際に壮大なシミュレーション実験をしていた。それは、ダビデが日本政府と密約を推し進め、ある利権を確保するための手段だった。
読者をどこに導こうとするのか・・・・。そんな思いを抱かせる転調となっている。
アプローチのやり方は異なるが、陣馬輝義とダビデの狙いは、德川埋蔵金の発見・発掘だった。その追求がどのように進行していくのか。それがメインストーリーとしての読ませどころとなっていく。德川埋蔵金、ロマンを感じさせるテーマである。
上記以外の主な登場人物を簡略にご紹介しておこう。ストーリーの広がりにもつながるので。
夏池省吾:財務大臣。ダビデの接触を受ける。総理への密約の連絡窓口になる人物。
ダビデは夏池に100兆円の事業を示唆する。
播山貞夫:現在は萩原県の一住民。元民間の考古学研究団体の副理事長。
旧石器の発掘に絡む捏造事件を起こした人物。
伊勢崎巡査の要望を受け、恵梨香は播山の自宅で彼と面談する。
大貫士郎:ジンバテックの顧問会計士。岬美由紀に一方的に面談を申し出てくる。
社長の陣馬輝義に妄想性人格障害の疑いがあるので相談に乗ってほしい
というのが彼の第一声だった。結果的に美由紀はジンバテックの問題事象
に、一歩踏み込んでいくことになる。
塚田市朗:臨床心理士資格認定協会の専務理事。美由紀を要注意人物とみなす存在。
美由紀を敵視する立ち位置から徐々に美由紀の協力者へと変容する。
このストーリーでもう一つ興味深いことは、萩原県の住民から悪夢の訴えが頻出してくることから、臨床心理士たちが総動員され、緊急に現地派遣される事態に展開することである。現地でのヒアリング調査の情報が集約されてくることで、一つの仮説が導き出されていく。美由紀が仮説について重要な発言をするに至る。
美由紀には、事態の核心に迫る一つの結論が浮かびあがってくる。
最後に、本書のタイトルに絡む一点に触れておこう。
上巻には、「蒼い瞳とニュアージュ」という章がでてくる。これは美由紀が幼い頃に母から読み聞かせられた絵本のタイトルであるという。この絵本が恵梨香とのリンキング・ポイントになっていく。そして「荻原県」という章には、「あの童話に登場する雲(ニュアージュ)とは、親をはじめとするおとなの存在を示唆している」(上、p373)と記される。つまり、ニュアージュは雲を意味する。
さて、その雲の存在は何を意味するか。上記引用文の続きにその心理的意味合いが具体的に説明されていく。さらに、それは美由紀の確信する自覚につながっていた。
さあ、本書を開いてお楽しみいただきたい。
なお、私は未読なのだが、『蒼い瞳とニュアージュ 完全版』、『蒼い瞳とニュアージュ Ⅱ 千里眼の記憶』と題する二書が出版されているようだ。こちらも、いずれ読み継ぎたいと思っている。
ご一読ありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』 角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』 角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下 角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』 角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』 角川文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
2022年末現在 53冊
前作の舞台となったイラクから戻ってきた岬美由紀は、またもや手許に届いた不可解な葉書がトリガーとなって、大事件に捲き込まれて行く。このストーリーでは、美由紀の意識の底に沈んでいた過去の悩ましい事実が重要な要素として絡んでくる。美由紀が事件に関わるプロセスで一之瀬恵梨香との運命の出会いが起きる。
一之瀬恵梨香。美由紀が自衛隊に入隊した後に、美由紀の両親が交通事故死した。対向車に接触されたことが原因で、両親の車は道路脇に飛び出し、二階建てアパートを直撃。破損したガソリンタンクに引火して爆発事故が起き、アパートは焼失した。唯一、部屋にいたのが一之瀬恵梨香で、彼女は軽傷で助け出された。恵梨香は父親が自宅に火を付け無理心中をはかったことのショックでPTSDに陥り、ようやく立ち直り独り暮らしを始めたところだった。しかし、この事故が恵梨香のPTSDを再発させた。美由紀は死亡した両親の家を恵梨香に無償で譲渡した。そんな苦い過去の記憶を美由紀は背負っていた。
このストーリーの読ませどころの一つは、運命的な出会いの後に美由紀の心の中に生まれる悔い、関係づくりの試みから生じる対立・葛藤、理解し合うことの困難性など、悩ましい思いに囚われ続けていく経緯の描写である。
二人の再会は、恵梨香の反発から全てが始まっていく。ストーリーの進展において、美由紀と恵梨香の心理描写が底流をなしていく。勿論、恵梨香自身も事件のただ中に捲き込まれていくのだ。というよりも、恵梨香が戸内利佳子が訪ねてきたことにより、利佳子の発言を受け、恵梨香が衝動的に利佳子を臨床心理士である岬美由紀が勤務する病院前まで自分の車で送るという行動を取ってしまった。それが美由紀を事件に引き込み、恵梨香もまた渦中の人となる一因といえる。
荒唐無稽さのベースになるのは、萩原である。埼玉、千葉、茨城の県境にあった広大な国有地の森林が伐採され、28の市と町が形成されて、萩原ジンバテック特別行政地帯が誕生した。ここには正式な地方行政は確立していない。埼玉県知事が便宜上の行政責任を持つ形が取られている。しかし、ジンバテックというIT企業が土地を所有し実質的な権限をもつ地域である。俗称、萩原県と皆が呼んでいる。
ここが特殊なのは、同じサイズの住居が並び、人々はそこに住む。月10万円の生活費が支給され、就労の義務がないこと。病院、スポーツセンター、美容室、理髪店などは無料で利用できる。萩原線という八路線、270キロメートルの路線がある。
家に引き籠もり何不自由なく生活したい人々が応募して全国から住人が集まった。800万戸もあった住居は移住者で埋まってしまった。そんな特異な地域である。
その萩原県を一IT企業が資金面で支えているというのだから、ちょっと想像を絶する。それを実行させているのは、社長の陣馬輝義というIT富豪だった。一般企業にとって、これは何のメリットがあるのか。ここに荒唐無稽さのベースがある。
逆にこの萩原県を実質運営するジンバテックと陣馬輝義が何をしようとしているのか。読者はこれから何が起こるのかということに興味を引きつけられずにはいられない。
さらに、一之瀬恵梨香は、この萩原県に移住し、心理相談員と名乗っていたのだ。
このストーリー、住民の一人である戸内利佳子が死後の世界・地獄の様を夢でみるようになり、それが夢とは思えないリアルさを感じるという苦しみを繰り返すようになる。テレビで、臨床心理士の岬美由紀がイラクから帰国の途についたという報道を見る。そして、臨床心理士に相談しようと思う。萩原線の駅に設置された案内ロボットに尋ねると、心理相談員・一之瀬恵梨香を、該当カテゴリで合致する3件の内の一つとして回答した。利佳子は萩原県に住む恵梨香を訪れる。それが結果的に利佳子が岬美由紀に会える契機となる。利佳子の夢の話を聞き、要因分析するためにも、利佳子の家を訪ねると約束する。逆に言えば、美由紀が萩原県の問題事象に一歩足を踏み入れることになる。
一方、美由紀は鍋島院長から不在中にたまった美由紀宛のはがきの束を受け取る。その中に意味不明の文字を羅列した葉書にまず目を止めた。その謎解きを即座にしたのだが、それがきっかけで、帰国後早速、美由紀は東京タワーで発生した事件に自ら関わりを持っていく羽目になる。これまた想像外の事件なのだ。それは美由紀を誘い出す一つのステップにしか過ぎなかった。
メフィスト・コンサルティングの最高顧問ダビデが絡んでくる。
一之瀬恵梨香は、岬美由紀と間違われてメフィスト・コンサルティングのノンキャリアのスタッフに拉致され、ダビデと出会うことになる。その場所は、慶応4年の安房国をリアルに再現した宿場町だった。ダビデはあるところで、実際に壮大なシミュレーション実験をしていた。それは、ダビデが日本政府と密約を推し進め、ある利権を確保するための手段だった。
読者をどこに導こうとするのか・・・・。そんな思いを抱かせる転調となっている。
アプローチのやり方は異なるが、陣馬輝義とダビデの狙いは、德川埋蔵金の発見・発掘だった。その追求がどのように進行していくのか。それがメインストーリーとしての読ませどころとなっていく。德川埋蔵金、ロマンを感じさせるテーマである。
上記以外の主な登場人物を簡略にご紹介しておこう。ストーリーの広がりにもつながるので。
夏池省吾:財務大臣。ダビデの接触を受ける。総理への密約の連絡窓口になる人物。
ダビデは夏池に100兆円の事業を示唆する。
播山貞夫:現在は萩原県の一住民。元民間の考古学研究団体の副理事長。
旧石器の発掘に絡む捏造事件を起こした人物。
伊勢崎巡査の要望を受け、恵梨香は播山の自宅で彼と面談する。
大貫士郎:ジンバテックの顧問会計士。岬美由紀に一方的に面談を申し出てくる。
社長の陣馬輝義に妄想性人格障害の疑いがあるので相談に乗ってほしい
というのが彼の第一声だった。結果的に美由紀はジンバテックの問題事象
に、一歩踏み込んでいくことになる。
塚田市朗:臨床心理士資格認定協会の専務理事。美由紀を要注意人物とみなす存在。
美由紀を敵視する立ち位置から徐々に美由紀の協力者へと変容する。
このストーリーでもう一つ興味深いことは、萩原県の住民から悪夢の訴えが頻出してくることから、臨床心理士たちが総動員され、緊急に現地派遣される事態に展開することである。現地でのヒアリング調査の情報が集約されてくることで、一つの仮説が導き出されていく。美由紀が仮説について重要な発言をするに至る。
美由紀には、事態の核心に迫る一つの結論が浮かびあがってくる。
最後に、本書のタイトルに絡む一点に触れておこう。
上巻には、「蒼い瞳とニュアージュ」という章がでてくる。これは美由紀が幼い頃に母から読み聞かせられた絵本のタイトルであるという。この絵本が恵梨香とのリンキング・ポイントになっていく。そして「荻原県」という章には、「あの童話に登場する雲(ニュアージュ)とは、親をはじめとするおとなの存在を示唆している」(上、p373)と記される。つまり、ニュアージュは雲を意味する。
さて、その雲の存在は何を意味するか。上記引用文の続きにその心理的意味合いが具体的に説明されていく。さらに、それは美由紀の確信する自覚につながっていた。
さあ、本書を開いてお楽しみいただきたい。
なお、私は未読なのだが、『蒼い瞳とニュアージュ 完全版』、『蒼い瞳とニュアージュ Ⅱ 千里眼の記憶』と題する二書が出版されているようだ。こちらも、いずれ読み継ぎたいと思っている。
ご一読ありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
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2022年末現在 53冊