遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『台北アセット 公安外事・倉島警部補』   今野敏   文藝春秋

2024-09-15 17:26:25 | 今野敏
 公安外事・倉島警部補シリーズ第7弾! 「オール讀物」(2022年5月号~2023年3・4月号)に連載の後、2023年11月に単行本が刊行された。
 今回も、本作がシリーズの何冊めか調べていて、前作の刊行を見過ごしていることに気づいた。速やかに読みたい本がまたできた。

 さて、このシリーズもそれぞれは独立したストーリーなので、本作の読後印象をまとめてみたい。

 倉島達夫警部補は警視庁公安部外事一課第五係に所属する。同じ係に所属する西本芳彦がゼロの研修を終えて戻ってきたところからこのストーりーが始まる。倉島自身もゼロの研修経験者。本作の一つのサブ・ストーリーでは、研修から帰還した西本の思考・行動の変化を、倉島が己の経験を踏まえて観察しつつ、西本が一皮むけた公安マンにステップアップできるよう、先輩として導けるかというテーマを扱っている。
 西本は研修から戻ってくるなり、五係において、白崎と倉島に対して、日本の製薬会社の台湾法人がロシアのハッカー集団REvil(レビル)からサイバー攻撃を受け、ランサムウェアに汚染された事件を話題にした。倉島はその事件はロシアのFSBが14人のメンバーを逮捕したという報道で決着がついていると認識していた。だが、西本はそれは茶番劇ではないかと疑問視する。それが契機となり、倉島はレビルについて情報を収集しなおす。

 そんな矢先に、倉島は公安総務課長から呼び出しを受ける。佐久良忍課長は倉島に台北の警政署への出張を命じる。公安捜査についての研修を行うにあたり教官を派遣して欲しいという要請に応じるというものだった。警察庁に来た話だが、公安の実働部隊は警視庁公安部なので、倉島にその役割が回って来たのだ。課長は「細かなことは、先方が決めます。台湾側の求めに応じてくれればけっこうです」(p25)と言う。そして、「ついでに、サイバー攻撃のことについて、様子を見てきてください」(p27)と告げたのだ。
 倉島は適当な名目のもとに、西本を同行させたいという許可を得て、指示を受けた翌日、台北に飛ぶ。

 このストーリー、台北への出張目的は、警政署での公安捜査に関する研修である。台北で、倉島が教官としてどのような研修を行うかのか。勿論その様子が描き込まれていく。だが、ストーリー全体から見ると、これはもう一つのサブ・ストーリーという位置づけになる。倉島がどのように研修を進めるか、この点は興味深い。それなりに面白く読める。
 ならば、メイン・ストーリーは何か?
 佐久良課長がついでにサイバー攻撃について・・・・と付言した副次的目的が逆にメインになっていく。
 台北に着いた倉島と西本には、滞在期間中、警政署の劉(リュウ)警正と張(チャン)警佐の二人が世話係として現れる。張警佐は主に車の運転手を担当する。劉警正は日本語が堪能であり、日本・台湾の警察組織の階級を対比すると、倉島よりも上位の階級である。この設定は実に巧みに考慮されている。倉島にとっては信頼がおけ、力量を発揮する渉外係の役割を担ってくれる相手になるからだ。勿論、劉警正と張警佐が倉島・西本の監視役をも兼ねているのは当然である。
 倉島は、劉警正に、日本企業の台湾法人がロシアのサイバー攻撃に遭った件を調べたいと依頼する。劉警正は警政署トップの楊警監の許可を得て、この調査の通訳兼案内役となる。
 西本が疑念を抱いている日本の製薬会社の台湾法人に対するサイバー攻撃を調査するために、劉警正の案内で現地法人を訪ねる。この台湾法人では、ランサムウェアに感染したのは事実だが、自社で駆除でき、身代金などの被害もなく既に終わった話と認識されていた。ところが、そこで、倉島はニッポンLCという日本企業が最近サイバー攻撃を受けたという情報を得る。西本にはこの会社の件は初耳だった。だが、劉警正はその情報を知っていた。株式会社ニッポンLCの台湾法人が新北市に所在するという。
 当然ながら、倉島はニッポンLCの台湾法人に出向き、サイバー攻撃の事実と状況の調査に踏み出す。劉警正にとっては調査のこの展開は予測済みだった。

 倉島は、まず広報課の陳復国(チェンフーグウオ)と面談することに。彼が第一関門である。彼は被害届も出していないので警察に事情を聴かれる理由はないと拒否する。倉島は日本人に事情を聴きたいと語る。劉警正の通訳と彼の発言により、CTOの島津誠太郎と面談することができた。島津は8月25日にサイバー攻撃を受け、ランサムウェアに感染したと言う。経路も判明しており、既に除去してシステムを復旧させた。ランサムウェアに感染したのは本社の管理システムであり、技術情報の保持された工場のシステムには侵入されていないと回答した。それ以上は、企業秘密に関わるので話をしたくなさそうだった。
 倉島は今後何かあればという時のための連絡窓口を島津に頼むと、島津は技術部の部下の一人で、秘書を兼ねている林春美(リンチュンメイ)を紹介し、彼女を窓口担当にすることが決まる。

 その日の夜、林春美を介して、島津には言い忘れたことがあり直接会って話をしたい旨、連絡を取ってきた。それは、倉島が教官として担当した研修を無事終了し、楊警監の接待で食事会に臨んでいる最中だった。メイン・ストーリーはここからが始まりとなる。
 一方、台湾に出張してきて以来の西本の挙動から倉島は不審な点に気づく。そのきっかけは、島津の紹介で、林春美が倉島・西本の前に現れたとき、一瞬倉島が言葉を失うほどに林春美が唖然とするほどの美貌だったことによる。この時の西本の反応に倉島は気づく。上記したサブ・ストーリーが織り込まれていくことに・・・・・。
 このサブ・ストーリーの流れでは、倉島が劉警正に語る言葉が印象的である。
 「どんなに優秀でも、必ず無能に見えるときがあります。ステップアップするときがそうなのです。ステージが上がれば、それまでのように活躍はできない。しかし、いずれ克服するはずです。それが成長です。」(p182)

 島津の懸念は、サイバー攻撃を皮切りに産業スパイが暗躍するようなことになればという危惧だった。この点を林春美が島津に進言していたのだ。迫りくる危機への対処、リスクマネジメントの観点である。島津は警察に相談するという選択肢を取ることに踏み込んだ。倉島はまず情報収集のために、ニッポンLCの台湾法人内における関係者の枠を広げ、ヒアリングをすることから始める。

 このストーリーが、俄然興味深くなるのは、ニッポンLCのエンジニア、李宗憲が殺害され、遺体がニッポンLCの本社ビルの玄関付近で発見されたことに起因する。李宗憲は工場のシステムを担当していて自信家でもあった。
 なぜ興味深くなるのか?
 
*当然ながら、殺人事件の捜査が始まるから。新北市警察局がこの事件を扱う。刑事の鄭警正が中心となって捜査する。
 警察の捜査は属地主義である。つまり、台湾において、倉島・西本には、たとえ、日系企業の敷地で発生した殺害事件と言えど、捜査権がない。
 一方で、この殺害は、サイバー攻撃・産業スパイの暗躍と関係があるかもしれない。
 倉島はこの視点を重視し、制約のある中で行動する決意を抱く。

*この事件を殺人事件という範疇で捜査することに鄭警正は執拗にこだわる。己の視点だけで捜査を進展させていく。
 鄭警正は劉警正にライバル意識を持っていた。つまり、劉、倉島、西本の介入を徹底して排除しようというスタンスをとる。

*倉島は、サイバー攻撃に絡む調査は、劉警正を通じ、日台の共同捜査という形で臨む方針を、楊警監から承諾された。

*倉島の出張目的は、研修の教官という業務である。台湾で発生した殺人事件は枠外となる。サイバー攻撃の調査という一点での関わりで、佐久良公総課長から、台湾滞在を延長する交渉を行わなければならない立場に立つ。捜査の大義名分が立つか。認められるか。
*台湾と日本との過去の歴史的関係が各所で心理的な影響力を見せる側面が重ねられていく。親日と反日という両面で現れる。文化の中に根付いていると思われる側面もある。

 つまり、日本国内での公安の捜査活動とは異なる、多面的な視点が絡み合っていくところが、本作の面白さと言える。

 上記の理由に重なる部分があるが、改めて台湾という国の歴史の一端を垣間見る機会となった。鄭という姓のルーツ。鄭成功に関わる逸話。台湾に多い人名の話題。日本による台湾統治の歴史の一端とその痕跡などである。
 もう一つ、台湾との警察組織の名称や階級呼称などの一端が日台対比で要所要所で出てくることが、異国情緒を感じさせる要素の一つになっている。

 ストーリーの根底にあるテーマの一つと思う箇所がある。少し長いが覚書として引用しておきたい。
「差別や偏見をなくすことは不可能だ。それは、個人の感情の問題であると同時に、文化的な防衛意識でもあるからだ。
 自分のテリトリーに異分子が入り込むと、人は本能的に警戒し恐れるのだ。差別の根底には恐怖がある。それが激しい嫌悪の衣を着るのだ。
 自分のテリトリーを守るためには闘争が不可避で、それが差別の根源にあるのかもしれない。
 だから人間は、心の奥底から差別意識を払拭することができない。それとどう付き合うのかが問題なのであり、さらに問題なのは、その気持ちを社会化するかどうか、なのだと倉島は思う。
 差別との戦いには二面性がある。個人の中では自分の差別意識との戦いであり、同時に社会の中に具現化された差別との戦いなのだ」(p319-320)

 ストーリー構成の巧みさとファイナル・ステージでのどんでん返しの妙味が読者を魅了することと思う。
 一気読みしてしまった。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
台湾     :ウィキペディア 
台湾     :「外務省」
台湾の警察組織について(ちょっとマニアック) 黒木 :「カクヨム」
中華民国の警察  :ウィキペディア
ランサムウェアとは   :「docomo business」
「キルネット」とは何者か?  :「NHK サイカル」
鄭成功    :ウィキペディア
日本統治時代の台湾  :ウィキペディア
台湾の人々は日本統治時代をどう捉えたか 山崎雅弘 :「DIAMOND online」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『一夜 隠蔽捜査10』   新潮社
『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』    幻冬舎
『天を測る』       講談社
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』       文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊
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『希望の糸』  東野圭吾   講談社

2024-09-12 15:43:11 | 東野圭吾
 先日、加賀恭一郎シリーズ第12弾『あなたが誰かを殺した』の読後印象記をまとめていたとき、第11弾の本書を見過ごしていたことに気づいた。そこで遅ればせながら、遡り本書を読んだ。本書は書下ろし作品で、2019年7月に単行本が刊行された。2022年7月に文庫化されている。
     

 まず本作構成の巧妙さが印象的である。そして、ストーリーに引き込まれていくと、エンディングの場面では涙せずにはいられなかった。

 加賀シリーズなので、加賀も加わる殺人事件の捜査がメインストーリーとなる。だが、この殺人事件捜査と並行して、2つのサブ・ストーリーが進行していく。一つは、「プロローグ」から始まっていく汐見家の物語。汐見行伸・怜子夫妻は、新潟県長岡市にある怜子の実家に遊びに出かけていた二子、小学6年生の絵麻と3年生の尚人を中越大地震で亡くす。その後、不妊治療の過程を経て、子を授かる。時が経ち、2年前に白血病で怜子がなくなり、汐見家は行伸と中学生の娘・萌奈の父娘家庭となった。この汐見家の物語が織り込まれていく。汐見家には、萌奈に関わる出生の謎が底流にあった。

 セクション「1」は、金沢にある料亭旅館『たつ芳』を経営する芳原家に転じる。2つめのサブ・ストーリーが始まる。『たつ芳』の現在の女将は一人娘の芳原亜矢子で、父は末期癌患者として病院の緩和ケア病棟に入院していて、死期は近いと予測されていた。医師と面談し、病室の父と会った後、亜矢子は脇坂法律事務所から連絡を受け、脇坂弁護士と面談する。脇坂が亜矢子に示したのは、公証役場で脇坂も立ち合い作成された遺言書だった。脇坂は、「亡くなる前にお父さんの気持ちを知っておき、今のうちにできるかぎりのことをしたいと思うなら、早い段階で内容を確認しておいくのも一つの手だ」(p32)と亜矢子に助言した。亜矢子は脇坂の目の前で、遺言書を開封し、内容を読む。最後のページで思わぬ氏名が目に飛び込んできた。松宮脩平。これを起点に亜矢子が行動を開始し、芳原家の物語が始まっていく。その根底にも出生の謎が秘めらていた。

 セクション「3」でメイン・ストーリーに転じる。加賀恭一郎の登場! だが、今回の捜査活動においては、加賀自身が中心となった捜査活動が描かれるのではなくて、警視庁の捜査一課に所属し、加賀を従兄とする松宮脩平刑事の捜査活動に焦点を当てて捜査が進展する。この点が今までとは異色な部分といえる。加賀は捜査本部で捜査の進展状況を取りまとめる立場で登場する。捜査について指示し助言する役回りである。捜査の要のところで、加賀の行動が捜査のターニング・ポイントになる役回りとなるのだが・・・・。
 遺体発見から約4時間後、1回目の捜査会議が開かれた。殺人事件の捜査が本格的に始動する。初動捜査段階でわかったことを記しておこう。

殺害現場 目黒区自由が丘の喫茶店『弥生茶屋』 去年が10周年。落ち着いた雰囲気の店
被害者  カフェの経営者・花塚弥生、51歳、離婚し一人暮らし、子供なし、
     栃木県宇都宮市出身、両親は健在でその地に居住、
遺体状況 背中にナイフが刺さっていて、大量出血。
     検視官は死後12時間以上経過と判断。ほぼ即死と推察。
     凶器のナイフは刃長20cm以上、シホンケーキなどを切るための道具
第一発見者兼通報者 富田淳子、40代半ば。友人と週に一度か二度店に行く常連客

 聞き込み捜査から、経営者・花塚弥生についての評判はすべて良かった。捜査が進むと、弥生が結婚していた相手は綿貫哲彦、55歳。江東区豊洲のマンション住まい。内縁の妻と同居、とわかる。聞き込み捜査が広がるとともに、弥生と親しかった常連客の一人に汐見行伸が浮上する。
 捜査本部の捜査分担で、松宮は鑑取り班の一員となる、松宮は綿貫と汐見への聞き込み捜査を担当する。そこから聞き込み捜査の範囲が広がっていく。

 メイン・ストーリーは、松宮が所轄警察署の若手の長谷部刑事とペアを組み捜査するプロセスに焦点を当てていく。松宮が加賀に捜査状況を報告し、加賀と松宮が事件に関して対話することが捜査を進める節目となっていく。事件の核心へと近づくにつれ、松宮には疑念が湧き始める。
「他人の秘密を暴くことが常に正義なんだろうかって。親子関係に関わるなら猶更だ。警察に、そんな権利があるんだろうか。たとえ事件の真相を明かすためであろうとも」(p284-285) 松宮が加賀にこう語る。それに対して、加賀は会話の最後に己の考えを松宮に告げる。
 「前にもいわなかったか。刑事というのは、真相を解明すればいいというものではない。取調室で暴かれるのではなく、本人たちによって引き出されるべき真実というものもある。その見極めに頭を悩ませるのが、いい刑事だ」(p285)
 「大事なことは、自分の判断に責任を持つ覚悟があるかどうかだ。場合によっては、真実は闇のままってこともあり得るからな」(p286)
 この会話が、この事件の核心に直結している。このように発言できる加賀恭一郎がこのシリーズの魅力であると私は思う。

 この悩みを松宮が抱くに至る捜査の進展が、本作の読ませどころと言える。
 
 このストーリーの底流には、人は他人の言葉や行動を誤解しがちであるというテーマが息づいていると感じる。そこから悲喜劇が始まっていく・・・・。

 最後に一か所、引用しておきたい。会話文である。
*たとえ会えなくても、自分にとって大切な人間と見えない糸で繋がっていると思えたら、それだけで幸せだって、その糸がどんなに長くても希望を持てるって。だから死ぬまで、その糸は話さない。   p350
 「希望の糸」という本書のタイトルは、この引用文に由来するものと思う。

 親子とは何かというテーマが、メイン・ストーリーとサブ・ストーリーを通じて描き込まれていると思う。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『あなたが誰かを殺した』    講談社
『さいえんす?』   角川文庫
『虚ろな十字架』   光文社
『マスカレード・ゲーム』    集英社
「遊心逍遙記」に掲載した<東野圭吾>作品の読後印象記一覧 最終版
                  2022年12月現在 35冊

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『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』 ジェレミー・リフキン NHK出版

2024-09-11 15:57:39 | 科学関連
 新聞の対談記事を読み、著者を知り本書を知った。「限界費用ゼロ社会」という言葉が大昔に学んだ限界費用という用語を思い出させ、その連想が本書を読む動機づけになった。本書は2015(平成27)年10月に翻訳書が刊行されている。

 原題は、"THE ZERO MARGINAL COST SOCIETY THE INTERNET OF THINGS AND THE RISE OF THE SHARING ECONOMY" 。翻訳書のタイトルは原題そのものである。
 そして、このタイトルが21世紀以降の社会・経済の姿について、著者の仮設を的確に示す表現になっている。
 第1章「市場資本主義から協働型コモンズへの一大パラダイムシフト」は、著者の仮説の要約であり、著者の主張のまとめである。主張点の提示であるので、表現の抽象度が少し高まり、読みづらさを感じたが、結論を最初に要約し提示していることによる。その後で己の仮説を論証していく形の構成になっている。本文に入ると、具体的事例が次々に緻密に列挙されて論じられていくので、読みやすくなる。事例が多すぎて、若干辟易とする側面もあるが・・・。逆に実例による論証という説得力が高まる。
 本文は五部構成である。
   第Ⅰ部 資本主義の語られざる歴史
   第Ⅱ部 限界費用がほぼゼロの社会
   第Ⅲ部 協働型コモンズの台頭
   第Ⅳ部 社会関係資本と共有型経済
   第Ⅴ部 潤沢さの経済

 著者は、19世紀初期に資本主義と社会主義が出現して以来、新たに登場してきた経済体制が共有型経済だと論ずる。協働型(コラボレーティブ)コモンズという形で展開される共有型経済だという仮説を本書で緻密に論証していく。
 「資本主義はその核心に矛盾を抱えている。資本主義を絶頂へと果てしなく押し上げてきた、ほかならぬその仕組みが、今やこの体制を破滅へと急激に押しやっているのだ」(P11)と観察・分析し、資本主義の凋落の中から共有型経済が今、台頭してきているという。
 
 著者はその論証を産業革命の段階的変遷として捉え、社会・経済体制の変化を歴史の時間軸に沿って論じていく。論じるにあたり、著者は、コミュニケーション/エネルギー/輸送という3つの観点をマトリックスの相互関係にある必須のフレームワークとして論じていく。この視点は、私には新鮮であり、実にわかりやすかった。産業革命の段階的発展を著者は具体的に論じている。その論証で使われるキーワード、キーフレーズを、荒っぽく次のようにまとめてみた。
 原初的産業革命 16世紀後期 水車・風車の利用 小規模製造業者 
         資本に対する生産の従属の始まり。資本家と賃金労働者の発生。

 第1次産業革命 19世紀後半 石炭を燃料とする蒸気機関 鉄道の利用と時間短縮 
         高速で安価な印刷と識字能力向上のための公立学校制度・義務教育
         株式会社というビジネスモデルの発展 投資と経営の分離
         垂直統合型の大企業の出現、
         中央集中化されたトップダウンの指揮・統制メカニズム

 第2次産業革命 19世紀末~20世紀初期 石油の発見と内燃機関の発明 電気が動力
         電話の発明 自動車の登場と道路網の整備・拡大
         垂直統合型の巨大企業中心。企業ピラミッドの形成
           →サプライチェーンと生産過程と流通経路の集中管理

 これらの産業革命段階を経て、社会・経済の在り方が変貌を遂げてきた。そのうえで、著者は現在、第3次産業革命が進行していると、論理を展開していく。
 著者は、インターネット技術の驚異的な発展を踏まえて、第3次産業革命を本書で論証している。ⅠoT(モノのインターネット)を史上初のスマートインフラ革命ととらえ、「あらゆる機械、企業、住宅、乗り物がつながれ、単一の稼働システムに組み込まれたコミュニケーション・インターネット、エネルギー・インターネット、輸送インターネットから成るインテリジェント・ネットワークを形成する」(p112)と予測する。
 著者は、無料のエネルギーである再生可能エネルギーが発展し、需要電力を満たし、デジタル・スマートメーターで個々人が電力使用についてリアルタイムで情報を得られる状況を語る。3Dプリンティングの普及が、モノのインターネットを介して、消費者が自らの製品を製造する生産消費者(プロシューマー)に変わりつつある側面を論じる。3Dプリンターが低コストで生産されるに至れば、効率と生産性の面で断然有利という。自動車については、所有するという価値観から、自動車へのアクセスを重視し、自動車をインターネットを介して、仲間となる人々とシェアする形が拡大している側面を例証していく。
 数多くの実例を挙げながらの近未来予測は、現代の社会・経済の捉え方に一石を投じている。今まで断片的に見聞してきた事象が、壮大な仮説にまとめあげられていくプロセスは、エキサイティングですらある。

 「人間の活動をすべて、インテリジェントなグローバル・ネットワークでつなぐことにより、私たちはまったく新しい経済体制を生み出そうとしている」(p344)と予測する。金融資本よりも社会関係資本が必要とされ、分散型・協働型でネットワークした形態、水平方向に活動が展開され、コモンズ方式の管理、つまり共有されて共同管理されている方式が最もうまく機能する経済体制だと説く。
 この新しい経済体制について、「慎重に見守る必要はあるが、限界費用がほぼゼロの社会は、21世紀なかばまでに、希少性の経済から持続可能な潤沢さの経済へと人類を導くことができるのではないか、と私は期待している」(p461)と述べている。

 経済社会は、狩猟採集社会から始まり、灌漑農業社会、原初・第一次・第二次の産業革命という形で経済のパラダイムが変化してきたが、それに伴い人間の意識も転換してきたと著者は分析する。その意識は、神話的意識、神学的意識、イデオロギー的意識と転換し、今や心理的意識が加わってきたとする。勿論、それぞれの意識はそれぞれの文化ごとに、それぞれの人の心の中に特有の異なる比率で併存するとみる。新しい経済体制の中では、心理的意識が重視される方向に向かっていて、共感の拡大が共有型経済と不可分の関係にあると論じている。
 協働型の利益追求の魅力は、持続可能な生活の質という新たな夢を共有し活動するという共感にある。

 著者はミレニアル世代に着目し、調査データを踏まえて次のように記す。
「若い世代は世界中で、自転車や自動車、住まい、衣服をはじめとする無数の品をシェアし、所有よりもアクセスを選ぶようになっている。デザイナーブランドを避け、ノーブランドや理念を重視するブランドを好み、モノの交換価値やステイタスよりも、使用価値にはるかに大きな関心を向けるミレニアル世代が増えている。協働型のプロシューマーから成る共有型経済は、まさにその本質上、より共感性が高く、物質志向が弱いのだ」と。(p419)

 コモンズの歴史と概念、管理について、本書は詳細に論じている。「第10章 コモンズの喜劇」という一章が設けられている。コモンズには、7つの不可欠と思われる「設計原理」が見い出されたという点も述べられている。本書をお読みいただきたい。

 共有型経済を推進する協働主義者の文化の根底には、「あらゆるものの大衆化」というテーマがあると著者は語る。

 「アメリカでもヨーロッパでも、第1次・第2次産業革命のどちらのときも、インフラは初期の整備に30年、成熟にさらに20年を要している」(p462)という。ワールドワイドウェブが実用化したのは1990年。著者は2014年のは早くも成熟してきているとみている。つまり、今、私たちは第3次産業革命の最中にいるということだ。
 本書には、「特別章 岐路に立つ日本」という章が末尾に設けられている。そこには、第3次産業革命について、ドイツと日本のスタンスの違いが対比的に分析されている。この分析もまた、一読の価値がある。現在の日本の問題点が指摘されているのだから。「岐路に立つ」という意味を実感する。日本、危うしである。

 ご一読ありがとうございます。
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『鬼役 壱』    坂岡真    光文社文庫

2024-09-05 17:44:03 | 諸作家作品
 『太閤暗殺 秀吉と本因坊』を読むことでこの著者と出会った。『鬼役』という長大なシリーズが出ていることを知った。このシリーズ、現在時点で第34作まで刊行されている。タイトルが面白そうなので、このロング・シリーズを読み継いでみようと思った。
 本作は、奥書を読むと、2005年4月に学研文庫で刊行されていたものに大幅に加筆修正を加え、改題して、2012年4月に光文社文庫として刊行されている。

 主人公は公儀鬼役、矢背蔵人介。公儀鬼役とは何か。ここで公儀は徳川幕府を意味する。鬼役とは通称で、若年寄配下の御膳奉行。将軍家毒味役である。将軍の食事に毒が含まれていないかを一部試食することにより防御するのが役目。河豚(フグ)毒に毒草、毒茸、蝉の殻、なんでもござれで毒をくろうてこその立場である。従来「鬼食い役」と呼ばれたものが「鬼役」という通称になった。「なにしろ、箸で取りそこねた魚の小骨が公方の咽喉に刺さっただけでも、切腹を申し渡される」(p22)という損な役目。だが、矢背蔵人介はたかだか200俵取りにすぎない。重責の割には安すぎる俸給! 矢背蔵人介、42歳、厄年。

 鬼役が将軍のための毒味役とわかると、重責とはいえそんな役目が時代小説として、どう展開できるのだろうか・・・とまず、疑問が湧く。それはすぐに氷塊する。なぜか。
 鬼役蔵人介には、もう一つの隠された顔がある。それは「白洲で裁けぬ悪を断つ」という「暗殺役」の役目だ。
 蔵人介は反りの深い長柄刀を使う。刃長二尺七寸、名匠藤源次助眞の手になる「大反り助眞」である。蔵人介は田宮流抜刀術を会得していて、「飛ばし首」という秘技を使う。 本丸に鬼役は5人いるが、蔵人介以外の4人は長くとも3年で役目替えとなり去っていく。蔵人介一人だけがこの18年間、淡々と鬼役の役目をこなしてきた。
 蔵人介の裏の役目を知るのはただ一人、若年寄、長久保加賀守正忠のみ。この加賀守が蔵人介に奔命を発し、蔵人介は命じられた的を悪人と信じ、問答無用と斬ってすてる。二人にはこの極秘の関係がある。蔵人介の裏の顔は蔵人介の妻ですら知らない。
 蔵人介はこの裏の役目を先代で養父の矢背信頼から引き継いでいた。

 主な登場人物として、ここではまず二人に触れておこう。
 一人は、串部六郎太。彼は加賀守から蔵人介の裏の役目の補佐として寄こされた男。表向きは、「二年前に飯田町の剣術道場で知りあい、用人の空きがあったので年四両二分の住み込みで『どうだ』と誘いかけたところ、二つ返事で傳(カシズ)かれた」(p25)というふれこみになっている。つまり、加賀守と蔵人介の間のメッセンジャーを兼ねている。齢33で独り身、臑(スネ)斬りを本旨とする柳剛流の達人。
 もう一人は、綾辻市之進。彼は蔵人介の妻幸恵の実弟。徒目付の役職なので、役目柄、幕府内での見聞内容について、折に触れ蔵人介に情報提供する役回りを果たす。勿論、市之進も義兄の裏の役目は全く知らない。

 さてこの第1作、読み進めると、短編連作風のまとまりになっている。私はそのように受け止めた。「天守金蔵荒らし」「大奥淫蕩地獄」「群盗隼」「惜別の宴」で構成される。陰謀というキーワードで通底しつつ、それぞれの問題事象は一応の結末を重ねていく。
< 天守金蔵荒らし >
 冒頭、蔵人介が魚河岸の干鰯(ホシカ)問屋、駿河屋利平を待ち受けて暗殺する場面から始まる。読者は、ストレートに蔵之介の裏の役目に導かれて、その後で表の鬼役という役目を知る。当然、話がおもしろくなるだろうと予感できる。裏の役目ばかりでなく、鬼役本来の役目の側面も織り込まれていく。鬼役の視点を通して、江戸城の大奥の世界を読者も垣間見ることになる。

 師走半ばに、相番の西島甚三郎から蔵人介は御天守台での事件を聞く。御天守台から台所方の中村某が降ってきたという。中村の死骸には随所に醜い傷跡があった。御霊屋の遣い坊主月空が目撃したと告げ、下手人は天守番の御家人、叶孫兵衛と目星をつけたらしいという。蔵人介は一瞬、ギクッとする。叶孫兵衛は蔵人介の実父なのだ。父が何事かの謀り事に巻き込まれたと感じる。蔵人介は串部を使いこの事件の背景を調べ始める。
 惨殺された中村某と遣い坊主月空が、霊巌島にある廻船問屋「浜田屋」と関係があることがわかる。さらに、浜田屋善左衛門はまっとうな商人に見えるが、真の顔は群盗の首魁だった。
 御天守台の近くには、御金蔵がある。この事件には御金蔵が絡んでいるに違いないと蔵人介は推測する。父への嫌疑を晴らすために、蔵人介は行動をとる。
 

< 大奥淫蕩地獄 >
 大奥で阿芙蓉と称される丸薬が蔓延する事態が発生する。阿片である。蔵人介は、加賀守からこの状況を引き起こした下手人を探し出し抹殺せよと奔命を受ける。蔵人介は大奥に足を踏み入れられない。さて、蔵人介、どうする?
 蔵人介は大奥での阿芙蓉問題の直接の下手人を抹殺する。だがその背後の黒幕には至りつけない。
 その隔靴掻痒感が、このストーリーのはずみとなっていく、

< 群盗隼 >
 加賀守の屋敷に隼小僧の一味が入る。盗み出したのは何かの裏帳簿。蔵人介と串部は逃走経路で待ち伏せ、阻止する。矢背家が借地している旗本望月家に行状不宜の沙汰が下るかもしれないということを市之進が知らせに来る。望月家は幕閣内の派閥争いの渦中にもいた。そんな最中に、西島甚三郎の誘いで、中野碩翁と対面することになる。蔵人介は碩翁の持ち掛けた話を拒絶する。そこから事態が進展していく。
 一筋縄では行かぬ、奥深い闇の存在が見えてくる。

< 惜別の宴 >
 鬼役の間でも、林田肥後守と長久保加賀守の派閥抗争が話題に上るようになる。鬼役としての務めの相番は疝気を患う押見兵庫だった。西島に揶揄された意地からか、押見はその日の毒味をすべて引き受ける。その結果、鱶鰭(フカヒレ)の毒味において、血を吐き死ぬことに。附子の毒が仕込まれていたようだ。蔵人介は、これは公方ではなく鬼役の毒殺を狙った所業と推測する。狙われていたのは己ではないかと。
 碩翁が現れ、事態を隠蔽しようとする。
 蔵人介は、己の身を守るために、幕閣内に蠢く謀略の渦中に自ら一歩踏み込んでいかざるを得なくなる。転居してきて6年を経て、蔵人介は初めて借地主である望月家を訪れ、当主の望月左門と面談することから始める。だが、それは蔵人介を加賀守と対決する局面に導いていく。
 このストーリー、最後は幕閣の政策的なオチがついている。いつの世も同じか。

 このストーリー、改めて「天守金蔵荒らし」「大奥淫蕩地獄」「群盗隼」「惜別の宴」を俯瞰的にとらえると、起承転結におさまっているように思う。そして、「覇権を渇望しはじめたときから、人ではなくなったのだ」(p281)という一文が、根底のテーマとしてあるように思う。


 今日知ったのだが、現在新装版が出版されている。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』  坂岡真  幻冬舎


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『春はまだか くらまし屋稼業』   今村翔吾   ハルキ文庫

2024-09-03 16:50:15 | 今村翔吾
 くらまし屋稼業の第二弾、シリーズ化が始まる。ハルキ文庫(時代小説文庫)の書下ろし作品として、2018年8月に刊行された。エンターテインメント時代小説。

 堤平九郎は飴細工屋を生業にしているが、裏稼業が「くらまし屋」である。この裏稼業が始動するとき、チームを組むのが七瀬と赤也。七瀬は普段は日本橋堀江町にある居酒屋「波積(ハヅミ)屋」で働く女性。くらましのために智謀を発揮する。「波積屋」の主人・茂吉は平九郎の裏稼業を薄々知っていて、平九郎をサポートする。赤也は「波積屋」の常連客。変装が得意で「くらまし屋」稼業が始動すると、変装して巧みに情報収集を行う。平九郎、七瀬、赤也は絶妙なチームワークを発揮し、依頼を受諾したくらましは困難を克服して遂行する。如何にしてくらまかすかがこのストーリーの読ませどころである。

 平九郎は「くらまし屋」の仕事を引き受けるにあたって、七箇条の約定に依頼主が合意することを前提とする。本作の目次の次に「くらまし屋七箇条」が書き込まれている。「一、依頼は必ず面通しの上、嘘は一切申さぬこと」から始まり、「七、捨てた一生を取り戻そうとせぬこと」まで、条項が列挙されている。ここから始まるのがまずおもしろい。これがストーリー構築の方針になり、かつその制約要素にもなっていく。

 二年前の宝暦元年(1751)に身売り同然にお春は日本橋にある呉服屋「菖蒲(アヤメ)屋」に奉公に出てきた。お春は着の身着のままでその「菖蒲屋」から逃げ出した。なぜ、逃げ出したのか?
 武州多摩にいる母が重篤であるとの火急の知らせがきたことで、一目会いたいという思いを一心に募らせる。だが、主人の留吉は2つの理由からそれを認めようとはしなかった。だから、お春は逃げ出した。
 留吉は追っ手を差し向ける。逃げるお春は、その途中、本郷にある飛脚問屋「早兼(ハヤカネ)」の飛脚、風太に出会う。風太はお春の逃亡の手助けをするのだが、追っ手がまじかに迫ってくると、己が盾となり追っ手を足止めし、お春を逃そうと試みた。別れる前に、風太はお春にあることを教える。
 飯田町中坂通にある田安稲荷社の玉を咥えた石造りの狐の裏に風太が準備した文を人に知られずに埋めろと教えられた。訳がわからずにお春はこれを実行する。だが、その後で追っ手に発見され、菖蒲屋に引き戻され、土蔵に閉じ込められてしまう。

 田安稲荷の玉狐の下に文を埋めるのは、くらまし屋と繋がる方法の一つなのだ。風太はそれを知っていた。赤也がこの文を発見する。信濃に出向いていた平九郎は、この文のことを波積屋で赤也に知らされた。
 この依頼、裏稼業を知る敵の謀略か、本物の依頼か、本物だとしても七箇条の約定に合致するものと判断できるか。この見極めのための行動から始まっていく。
 依頼者であるお春という人物の特定作業。お春に対面し依頼内容の確認。七箇条に合致するかの平九郎の判断・・・・・・・・ストーリーは徐々に進展していく。
 勿論、平九郎たちは菖蒲屋の土蔵に閉じ込められたお春の存在を特定し、平九郎が土蔵内のお春と対話することになる。まず、ここに至る紆余曲折にエンタメ性が盛り込まれていて、その進展を楽しめる。
 お春から聞いた風太の容貌から、平九郎はある男を思いだす。
 
 平九郎はお春に確かめる。「幾ら銭を持っている」と。「七十文と少し」
 わずか七十文だというのに、平九郎はお春の依頼を引き受ける。金銭的に
引き合う仕事ではない。さらに、それは最初から七箇条の約定に対する掟破りともなる受諾だった。「二、こちらが示す金を全て先に納めしこと」に違反した。
 勿論、赤也は不承知を唱える。平九郎は赤也と七瀬に告げる。「すまねえ、今回のつとめは、俺一人でやる」と。(p134) 読者にとっては想定外の展開となっていく。
 逆に、読者には、ストーリーにおもしろい要素が加わっていくことを期待させる。エンターテインメント性が一層加わっていくことに・・・・・・・・。

 さらに、読者は、なぜ平九郎がそこまで突き進むのか。平九郎を駆り立てる背景に潜むものは何なのか。この点に関心をいだかざるを得ない。絶対にそう思うでしょう・・・・・・・・。

 この第二作にはおもしろい要素が加わる。
 一つは、万木迅十郎(ユルギジンジュウロウ)の登場だ。彼は江戸の裏社会で暗躍し、「炙り屋」を名乗る。依頼者の要望に応じて、人あるいは物を炙り出してくる稼業だ。平九郎の裏稼業「くらまし屋」とは真逆の稼業。万木迅十郎が、平九郎の障壁となる。いつ、どこで、どのように・・・・・・・・・。第一作にはその片鱗すらなかったが、本作には次の一文がさりげなく入っている。平九郎は「・・・・ 目的は完全に相反している。今まで一度だけかち合ったことがあり、その名を記憶していた」(p75) 読者にとっては、迅十郎がどの時点で出てくるのか、読み進める上で楽しみの一つになる。

 もう一つは、日本橋南の守山町にある口入屋「四三(ヨミ)屋」の主、坊次郎が加わる。平九郎がよく利用する店として。勿論、坊次郎は裏稼業の側面を併せ持つ男である。一人でお春の依頼を遂行すると決めた平九郎は坊次郎に2つの依頼をする。

 なかなか巧妙なストーリーに展開していくことに。

 このストーリー、菖蒲屋の近くに「畷屋(ナワテヤ)」という呉服屋ができるという異変が半年前に起こったという事情に一因があるのだが、その一方で、菖蒲屋の背景事情が関わっている。さらに主の留吉に裏事情があり、それを隠し通すために留吉が判断し、行動する側面が、ストーリーの進展を一層面白くしていく。

 最終章は「第五章 春がきた」である。
 お春の依頼は完遂される。だが、それで終わらないのがこの第二作。お春は江戸に戻る決心をする。そのオチが実に楽しくなる。

 エンターテインメント時代小説。楽しめる。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『くらまし屋稼業』  ハルキ文庫 
『童の神』   ハルキ文庫
『恋大蛇 羽州ぼろ鳶組 幕間』  祥伝社文庫
『襲大鳳 羽州ぼろ鳶組』 上・下   祥伝社文庫
『黄金雛 羽州ぼろ鳶組零』 祥伝社文庫
『双風神 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『玉麒麟 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『狐花火 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『菩薩花 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『鬼煙管 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『九紋龍 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夜哭烏 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『塞王の楯』   集英社


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