散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

史実である必要はないが、リアリティは必要

2018年06月16日 | ドラマ
日本史には「正史」がありません。今に至るまでないような気がします。「昭和史」だって、学者さんによって、とらえ方がだいぶ違います。

今の時点で既に「昭和幻想」が始まっていますが、公害は酷いし差別も酷い、今に比べれば生活水準も低い。「人の心が温かかった」なんてのも「感じ方次第」でしょう。私の感じでは、さほど温かくない。今のほうがよほど温かいと思います。生活苦が多いから、犯罪も多く、特に少年犯罪は今とは比較にならないほど多かった。みんなギリギリで「人に温かく」なんてしてられない時代だったのです。昭和幻想がない私にとって、昭和なんてろくな時代ではない、と思われてなりません。

とにかく日本史には「正史」がありません。記録が非常にあいまい。記録があまりないから、伝頼朝の絵画が実は足利直義の絵だったなんて事態も平気で起こります。源頼朝と足利直義では、時代が150年も違います。こういうことが平気で起こるのです。

ドラマ化という観点からみると、これは「幸い」でありましょう。「正史」「きちんとした記録」がないのだから、どんな「空想」だって小説にできます。正史があってもできますが(韓国のように)、やはりないほうが「自由度」は増すでしょう。

信長は秀吉が殺した。しかも本能寺から外に続く「トンネルをふさいで」殺したってのが「信長の棺」の大前提ですが、こんな「トンデモ説」だって「完全否定はできない」のです。だって資料がないのだから。あ、私は感情としては「完全否定」をしています。「信長の棺」という小説がとんでもなく「つまらない」からです。

「信長は謀略で殺されたのか」という本は、上記のトンデモ説を完全否定していますが、「根拠は主に信長公記」です。「信長公記」なんて「個人のメモ」みたいなもんで、正史でもなんでもありません。繰り返しになりますが、「信長の棺」がいかに「トンデモ」であっても、完全否定は無理なんです。正史も完全に信頼できる資料もほとんどないからです。

「正史」だって嘘はあるだろう。まあ、そういう反論もあるでしょう。でも普通の歴史書や個人の日記、メモ、手紙類に比べれば、信頼度は格段に上であることは間違いありません。嘘がないようにチェックする体制のもとで書かれているわけですから。たとえ「王」でも原則的には「正史」に手出しはできません。もちろん「正史にも嘘」はあります。でも「少ない」ことは確かでしょう。

正史がなくて幸いだった。ドラマ好きにとってはそうなると思います。

日本の「正史らしきもの」は日本書紀から始まります。8世紀の初めですね。天武天皇の時代です。日本書紀には「天皇」が沢山でてきます。しかし日本で最初に天皇号が使われたのは天武天皇からで、これはほぼ間違いないようです。少なくとも天武以前には天皇号を持った存在はいません。でも日本書紀には天皇が沢山でてきます。

日本書紀の場合「嘘と誠が混在」してますから、ややこしいみたいですが、「正史」とはとても言えません。

そのあとも「正史らしきもの」は多く作られましたが、みな「嘘と誠が混在」したものです。

鎌倉時代には「吾妻鏡」があります。鎌倉幕府に「都合がいい歴史」が色々書かれています。誠も多いが嘘も多い、のがこの本です。

江戸時代には「徳川実記」とか水戸の「大日本史」。「嘘ばっかり」ではないですが、「本当ばっかり」でもない著作です。

室町時代には「神皇正統記」とか「鏡がつく本」とか「太平記」とか。あと江戸時代に書かれた「後鑑」などがあるようです。「後鑑」ってのは知りませんでした。何が書かれているのだろう。

まあみんな正史とは言えない本ばかりで、だから「日記」「手紙」「公文書」などが日本史では重視されます。

でも「日記」や「手紙」なんてのは資料と言えるかどうか。私なんて日記(正確にはブログ)にうそを書くことがあります。頭から信じていいとは思えません。「公文書」も怪しいもんです。「たてまえ」が書かれていますから。

日本史には正史もないし、完全に信用できる文書も少ない。だからドラマや小説の「自由度」は非常に高い。

だからこそ逆に大河ドラマ等では「リアリティ」が問われます。嘘は書いてもいい。でも「本当っぱく嘘をついて」欲しい、と思います。あまりに「トンデモ」だと、見る気が失せてしまいます。

本能寺の下の「トンネル」なんてのは論外ですが、「平清盛と源義朝は友情で結ばれていた」とか「13代将軍家定は愚人のふりをしていた」とか「秀吉と淀の関係は実は素晴らしい純愛だった」とか、本当、いい加減にしろ、という感じがしてなりません。

「信玄と謙信の一騎打ちだって嘘だろう」って反論もあるでしょう。まあその通りです。でもこれには「嘘として歴史の古さ」「嘘としての年輪」があります。だから嘘と分かっていても「リアリティ」を感じることができるのです。

嘘はかまいません。でももっと「本当らしい嘘」をついて欲しいものです。

「ブラックペアン」の感想文

2018年06月15日 | ドラマ
「ペアン」、色々な意味で「なんやねんそれ」という言葉です。調べると「血管や組織を結紮する時」に使う道具のようです。「結紮」って「なんやねんそれ、読めないわ!」です。「けっさつ」みたいです。字を見るとなんとなく意味は分かります。ドラマでは血流を止める時に使われています。

「ブラック」は内野聖陽の存在がブラックだから使われているわけではなく、そもそも内野さんはブラックではなく、、と書いていくと「ネタバレ」になるのでやめます。

ドラマで二宮君は時々「べらんめえ」になります。「じゃあ、やれよ!自分で!」という感じ。まず好きなのはその時の言葉遣いです。巻き舌ですね。

懐かしいのです。マザータングという気がします。僕が子供の頃に使っていた言葉です。大田区の片隅のゴミのような少年だった時代に使っていた言葉です。

その後成長して言葉遣いはいささかお上品になりましたが、それでも時に応じて今でも使うことがあります。

ドラマの構成は「なんとなくドクターXに似て」いますが、本質的な違いがあると思います。本当はその「本質的な違い」を書かなくてはいけないのでしょうが、別に学術論文ではないので書きません。

「直感的にそう思う」で勘弁してください。

そろそろ最終章のようです。前回は内野聖陽さんがカッコ良かった。

小泉さんの「高階先生」はちょっと損な役どころで、毎回毎回、ころころとキャラが変わります。猿之助の腰ぎんちゃくみたいな存在として登場し、二宮くんの引き立て役となり、、、と思ったら「決然とした信念の男」になり、と思ったらまた腰ぎんちゃくになり、前回はまた「信念の男」に戻りました。ある意味難しい役です。キャラが毎回変わるのです。

ドラマの初回から、二宮くんの相方の看護婦が気になってました。マスクしてるので目しか見えません。その「目」が「誰かの目」なのです。見覚えがある。と思って調べたら、伊藤蘭さんの娘でした。つまりは「伊藤蘭さんの目」です。「見たことあるような感じ」がするはずです。趣里さん。美人というより個性的な顔立ちですが、いい味出していると思います。

二宮くん、ファンには悪いのですが、背は低いし、ねずみ男みたいな顔です。でも演技がうまい。うまい、というより「ひきつける魅力」がある。いい俳優さんだと思います。





ヴォラプチュアスな表情に富んでいる女優さんは誰か。

2018年06月15日 | 日記
私は漱石の主人公では「三四郎」の美禰子さんが一番好きである気がします。「気がします」というのも変ですが、全部の登場人物を並べて比べたわけではありません。

「それから」の三千代さんは、いささか「儚げ」過ぎる感じです。

「三四郎」の中で美禰子さんの表情はこう描かれています。多分有名な部分だと思います。


二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。


調べてみると「三四郎」は1961年と、1974年にTVドラマ化されているようです。見てません。美禰子は「八千草薫さん」「篠ひろ子さん」が演じているようです。なるほど。

ヴォラプチュアスな表情は「官能に訴える艶なるもの、残酷なもの」のようです。

今の女優さんなら、誰がいいでしょうか。「いい」というより「演じることが可能」でしょうか。

といってもまあ「好き嫌いの問題かな」とも思います。

一番に思いつくのは「石原さとみさん」ですが、なんかちょっと違う気もします。綾瀬はるかさん、健康的過ぎますね。だいたい現代日本には「官能に訴えるような女優さん」が少ないのですね。

壇蜜さん、ではちょっと美禰子は不可能でしょう。北川景子さんは美しいですが、あまり官能的とは思えません。

趣里さん、というかブラックペアンの猫田看護士さん。ヴォラプチュアスな「目つき」をしているように僕には思えますが、完全に「好き嫌いのレベル」ですね。要するに個人の好みで「いい目つきだな」と思うのです。

この方、全然知りませんでしたが、水谷豊さんと伊藤蘭さんの娘です。目が伊藤蘭さんにそっくりです。

自分でも何書いてるか分からない感じになってきましたが、要するに美禰子さんと猫田さんは「いいな」というお話です。




TVドラマ「シグナル」の感想文

2018年06月13日 | ドラマ
TVドラマ「シグナル」。

韓国のオリジナル版と日本のリメイク版があります。日本版は2018年が舞台。韓国版は、放送された2016年が舞台です。

極めて興味深いことに「韓国版」と「日本版」は「全く同じ」と言ってもいい作品です。リメイク版は、ただ日本を舞台にして、登場人物を日本名にしただけ、と言っていいぐらい「同じ」です。

普通であれば「日本の現実に合わせて」変えると思えるのですが、それをしていません。見事なぐらい同じです。これはどういう「契約」でそうなったのか、僕には極めて興味深く思われます。

さて、感想を書けるほど「よく見ている」かというと、どっちの作品も一回しか見ていません。だから「思い違い」もあるかも知れませんが、そこはお許しください。

最初、コンセプトがよく分かりませんでした。内容が意外なほど「シリアス」で、さらに「社会派のドラマ」なのです。にもかかわらず「20年前の過去との交信」という「SF的要素」が入ってきます。

どうして20年前との対話が必要なのだろう?最初はどうしても「そこ」が分からなかったのです。

全部見るとわかります。「必然的に必要」というか「どうしても必要」なのです。

何故かというとこの作品。「20年前の韓国社会」と「現在の韓国社会」を比べている作品だからです。

もう少し簡単に書くと、1996年の韓国は「一部の特権階級、具体的には経済的強者(金持ち)や権力者(政治家)は何をしても逮捕されないような社会」であった。

20年後、2016年の韓国も、本質的には大きく変化はしていない。しかし徐々にその社会矛盾に人々は気づき始め、社会が変わりつつある。つまり20年前にはなかった「希望」が生まれつつある。

これが私が考えたこの作品の主題(主旋律)です。

しかし「希望はまだ希望の段階」という認識が脚本家にはあるようです。だから韓国版は「諦めなければ」という言葉を繰り返して、終わります。「諦めなけばどうなるのか」、相当続編が見て見たくなるような終わり方です。

さて、日本版はと思って見てみると、やはり「諦めなければ」で終わっています。でも日本の現実と韓国の現実は違いますから、いささか「唐突に」、「諦めなければ」が出てきて終わります。でも「続編が見たくなる」点は韓国版と同じです。

韓国の現実を土台としたこの作品は、「日本の現実とズレて」しまうのです。1998年の日本と2018年の日本。どっちの時代でも、日本では金持ちも政治家も権力者も「そこそこ捕まり」ますからね。

田中角栄氏が逮捕されたのは1976年です。むろんあの時三木総理という存在がいなければ、逮捕まではされなかったかも知れません。でもとにかく逮捕されたのです。その後もいわゆる大物政治家の逮捕は続きました。結構検察庁は頑張ったのです。金持ちだって捕まりました。たとえばホリ〇〇〇氏です。

韓国だって大統領が何人も逮捕されたじゃないか、は正論です。しかし韓国社会の本当の問題点というか巨悪は、政治家ではなく「金持ち」「財閥」のようなのです。政治家も大統領も所詮は金持ちの「道具に過ぎない」という風に描かれる場合が多いのです。

理由ははっきりしています。韓国が戦勝国だからです。日本の場合は、敗戦によって根底から社会構造が変革されました。具体的には大土地所有がなくなり、財閥が解体され、貧富の差があまり生じないような社会構造が占領軍によって構築されました。韓国は戦勝国であったため、根底からの社会変革が遅れ、朝鮮王朝の負の遺産が残ってしまった。親父さんの方の、昔の朴政権の時、財閥のようなものが形成され、貧富の差が「固定的なもの」になってしまった。今、韓国はその弊害を「ぶち壊す」ためにもがいている状態です。

このドラマはそんな韓国の「もがき」と「未来への希望」を正確に反映している気がします。韓国版の方の「大山刑事」はその社会矛盾を「ぶち壊す」ために、地下にもぐってまで戦い続けます。

しかし日本は違います。1998年より2018年の方がいい社会である、未来に希望がある、とはならないのです。

日本は2018年になって、20年前より「社会正義がはたされる」という「希望」が出てきたのでしょうか。現実は「むしろやや希望が後退した」感じすらします。財務省問題、森友問題、加計問題などを見ると、僕なぞ「暗黒社会になってしまったのではないか」とすら思うのです。

というわけで、韓国の今の「未来への希望」「諦めない決意」を土台にしたこの作品は、今の「日本の現実」とややズレている、というのが私の感想です。脚本を変えずに日本に適用すると、不自然な部分が出てきてしまいます。

ただし「ズレている」としても、この作品はなかなか面白い作品です。面白いから最後まで見たのです。

ちなみに過去時系列での主人公である大山刑事、北村一輝さん。日本版だと「多少繊細」ですが、韓国版では「相当ずぶとい神経の持ち主」です。私がみるところ、そこが一番違っています。北村さんと吉瀬さんの「恋愛関係」も、韓国版の脚本の方が、やや濃密で情熱的です。





西郷隆盛と「明治維新の輸出」

2018年06月08日 | 歴史
西郷隆盛。

日本では昭和ぐらいまでは人気がありました。

今は、あまり人気はないですね。とにかく人気なのは坂本龍馬で、西郷はその人気の影に隠れてしまっています。最近は「坂本龍馬を謀殺したのは西郷だ」なんて黒幕論も出ていて、そうなると西郷は日本でも悪人扱いです。

さて、西郷ですが。

彼は大きな器の人間でしたが、「近代国家に対するビジョン」というものがありませんでした。明治維新は達成したものの、その結果できた国家に彼は大いに不満だったのです。

彼は儒教的道徳心をもった武士で、いわゆる「ぎょうしゅんの世」のようなものを考えていました。アジアの教養人の限界を超えることはなかったのです。素晴らしい君主と素晴らしい人民。そんなものを夢想していましたが、明治維新の結果できた「近代国家」は全く別のものでした。

ただし「近代国家」そのものは彼の師匠(島津斉彬)が目指していたものです。生理的には不満でしたが、頭では、近代化しなければ列強によって植民地化される危険がある、ということは理解していました。汚職や金権のはびこりには我慢ができなかったのですが、兵制改革という「最も重要な国家の近代化政策」を担う山県有朋が汚職で危機に陥った時、彼は山県を助けたりもしました。かれは大きな矛盾の中で生きていて、そして死にたかったのです。

もう名前を出しましたが、彼には大いなる師匠がいます。殿様の島津斉彬という人です。この人は欧米列強のアジア進出に危機感を持ち、日本、清国、朝鮮国が近代国家となって列強に立ち向かう、というビジョンを持っていました。

西郷は江戸末期にこの殿様が死んだ時、殉死しようとしたのです。しかしこの師匠が抱いたビジョンを実現せずに死ぬことは不忠だと言われ、殉死をあきらめます。でもいつも「死に場所」を探していて、実際自殺未遂なども起こしています。

西郷はどうして朝鮮国に行きたかったのか。朝鮮国の無礼をたしなめるためでしょうか。私の理解では、彼は開国と近代化を朝鮮国に求めたかったのです、そしてそれが無理なら「殺されたかった」のです。自分が殺されれば、朝鮮と日本の間に戦争が起きる。後の日本と違い、この明治6年当時の日本には強大な力はありません。軍隊だってまったく整っていませんでした。朝鮮国だってそう簡単に負けることはない、日本との戦争が現実のものとして迫れば、朝鮮国も近代化せざるえない、つまりは「明治維新が朝鮮でも起きる」、西郷はそう考えていました。

朝鮮国にとっては、迷惑な話です。「明治維新を朝鮮国に輸出する」、西郷にとってはそれが死んだ師匠に報いる道に思えたのです。感情的には近代国家を嫌いながら、頭では列強に立ち向かうにはそれしかない、と分かっていたのです。西郷は愚人のふりをしていましたが(薩摩の伝統です)、若い頃から聡い男でした。

本当に迷惑な話です。しかし、この迷惑なおしつけをしないと、日本が危ないという危機意識は、同時代の勝海舟なども持っていました。元寇の時、日本をまず攻撃したのは高麗です。ご存知のように、元に強要されて仕方なく日本を攻めました。日本を列強が攻撃する時の通り道は朝鮮国。だから朝鮮国に近代化してもらわないといけない。こういう思いをもった人間が日本には多くいました。朝鮮国を支配しようという人間ばかりではなかったのです。

しかしながら、結局西郷は朝鮮国に行きませんでした。朝鮮国と日本が戦争などすれば、列強が介入してきて、両国とも植民地にされてしまう。そうしたリアルな危機感をもった人間たちとの政争に負け、政府を去りました。

西郷を負かしたのは、大久保利通だということになっています。最後の最後の段階ではそうでした。しかし大久保は実は親友である西郷と政治的に争いたくはなかったのです。西郷つぶし、に動いたのは、もう少し年の若い政治家たちでした。これも嘘のような話ですが、その政治家の代表格は伊藤博文です。韓国では西郷より悪人扱いである伊藤博文が、この明治6年の段階においては「征韓論をつぶし」たのです。もっとも西郷は「征韓」という言葉は嫌いで、もっぱら「遣韓」(けんかん)という言葉を使っていました。

嘘ばかり書いている。例えば韓国の人の立場になれば、そう思うのは当然です。が私には「偽りを書いている」という意識はありません。「西郷への認識を改めて欲しい」なんて傲慢な意識もありません。歴史は、人間おのおのが「自分の目」で見定めるものですからね。ただ、こういう見方もある、というだけのお話です。

韓国の方には失礼ですが、あの時西郷が行って殺されても、朝鮮では「維新は起きなかった」と私は思っています。イバンオンから続く朝鮮王朝は強固な伝統を持った国で、文治主義的です。両班、良民、という階級制は、日本のいわゆる「士農工商」よりずっと強固でした。いまだに韓国でも北朝鮮でも「特権階級」が厳然として存在することを考えれば、そう簡単に「維新」など起きるわけもないのです。韓国の産業的近代化は1970年代後半からで、21世紀には急速に発展。今や世界企業であるサムスンやLGが存在しますが、社会経済面ではまだ「特権階級」が残存し、「ナッツ姫事件」等の問題が生じています。(徐々に改善されつつあるということですが)。

北朝鮮では、見方にもよりますが、まだ朝鮮王朝が続いている、と言ってもいいような気がします。

さて、

西郷は逆徒です。日本最後の内乱を起こしました。天皇に逆らった逆賊ですね。そういう逆賊の銅像が、どうして上野のお山に堂々と立っているのか。

これにはまた日本特有の事情があるのですが、機会があれば。

河井継之助は後世に何を残したか。

2018年06月04日 | ドラマ
北越戦争、などと言っても地元の人と、歴史オタクぐらいしかピンとこないでしょう。戊辰戦争の一部という感じです。

長岡藩、幕府側の藩でした。

人材登用によって長岡藩の家老にまで上りつめた河井継之助は、陽明学の徒です。行動的なんです。実践と行動は同じじゃなくてはいけないという政治学です。

で、まあマシンガンのような連射機能を持った、当時最新のガトリング砲を手に入れて「しまい」ます。小さな藩が強大な軍事力を手に入れた。これが不幸をもたらします。

小さな長岡藩に対し、官軍は散々苦労して多くの死者をだして戦いました。むろん長岡藩士も多く死にました。「悲惨な北越戦争」と言われる所以です。官軍の現地指揮官は、たしか山縣有朋だったはずです。東京においては、西郷から軍事権を奪った村田蔵六が戦略を立てていました。

明治初期の天才的軍略家、村田蔵六の前に立ちはだかったのが、小さな長岡藩の家老、河井継之助です。

しかし多勢に無勢、結局は敗退します。村田の「必要ない」という意見を無視して、官軍の救援に向かった西郷が現地についた頃には、ほぼ勝敗は決していました。

この戦争の中で河井継之助も死にます。

司馬さんによれば、死に臨んで自分の焼き場を作らせ、それをじっと眺めていた、とされています。

さらに司馬さんの、たぶんこれは願望をこめた創作なんでしょうが、河井は負けを予想しつつも、「美はなせる」と考えていたとされています。

大老格の井伊家を含めて、多くの藩がこぞって「新時代の側につく」中で、「後世に向かって人間とはなにかを示した」、小説ではそう表現されています。

「いまこの大変動期にあたり、人間なるものがことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩を忘れ、男子の道を忘れ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう、、、、人間とは何かということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならない。」

この部分、何度読んでも感動します。いや感動というより、なぜか涙が出てくるのです。