この歳になると自分がどういう人間か、よく分かるようになる。
自分の性格を端的に言うと「大ザッパ」
若い頃からザツな性格とか、鷹揚だとかガサツだとかデリカシーに欠けるとか散々言われ続けてきた。ザツな性格だからか知らんけど、学生時代、先生や保健の先生からザツに扱われて来た。保健の先生は、「お前は大丈夫だろ」と言われ、カット絆貼った患部をはたかれ、「我慢しろ!甘えんな!」で終わり。他の普通の人間は、丁寧に扱われ、「痛くない?」「お大事に」と笑顔対応。繊細な人ほど丁重に扱われ、果ては赤ん坊か?と思うような言葉まで掛ける始末。
学生時代は医者にかかる事も無かった。成人してからは10年に一度ぐらいは風邪やインフルエンザで体調を崩す事もあった。病院では流石に「我慢しろ!甘えんな!」と言われたことはない。客商売だからそれはないだろうと思う。
自分の文章を読んで、ザツな性格はよく理解頂けてると思う。
ザツ、ザッパはあまり印象が良くないのは充分理解している。
自分の大ザッパな性格は、ズボラともまた違う。もちろん他人から見ればズボラだが、ズボラというのは、計算ずくの上での手抜きだ。自分はその計算が出来ずに、ただキッチリしたことが出来ないだけである。
面倒くさがりというのともまた違う。自分は絶対にマメではない。しかし万事に面倒くさいと思う方でもない。
ラフな性格というのも全然違う。ラフな性格な人は周囲に敵意や警戒心を抱かせにくく、憎悪やイジメの標的になりにくい。
自分の大ザッパさは、不注意とか詰めが甘いとか手先が不器用とか気が利かないという類いである。大ザッパな性格というより大ザッパな性質(セイシツ)といった感じだ。自分ではどうにもならないものである。大ザッパ&無神経と言った方が良い。自分としては真面目にというか普通に取り組んでいるが、他人から見るとザツに見えるらしく、アンタはザツとおもむろに言われてしまう。言う人はBBAが圧倒的に多い。こんなに大ザッパだと長生きするわ。とか言われる。
自分の大ザッパさは、周囲に不快感を与えているらしく、今まで色んな会社の同僚にそう言われて来た。今まで、多くの会社で、適性なしと言われクビになってきた。不注意によるミスは、大ザッパな性質の人間でも、やり方次第で克服出来る。問題なのは克服が簡単なケアレスミスより、ふわっとした分かりにくい指示を、自分の都合の良いように解釈して動いた結果、発生するミスの方だ。分かりにくければ、自分が理解出来るまで何度も聞く。その部署の係長は気の短い上司で「何度説明すれば理解出来るんだ!!普通に考えれば分かるだろ?」と怒鳴られたりもした。そしてミスばかりしていた。意思の疎通不能である。普通の察する能力のある人なら1を言えば10出来るらしいが、自分は1を言えば0で3度聞いても3か4らしかった。人前で怒鳴られる続けると、次第に周囲からも軽蔑されるようになった。こんな会社に何年も勤めるのか。と思った時に別室に呼ばれて、総務からクビを宣告され、明日から来んなと言われた。アルバイトだし。しょうがない。まあいっか。この会社居づらくなったし。と思って、次の日にはケロッとしていた。
別の会社でも、派遣でオフィスに入って仕事をしたが3ヶ月でクビになった。派遣だからクビになるのはしょうがないが、クビを宣告された時に理由を聞いたらア然とするものだった。他の女子派遣社員と和が保てないためだと言われた。業務と関係ない理由だった。和が保てないと言われると、喧嘩やトラブルなど和を乱す行動をしたかのように思われるが、そんな事をした覚えはない。心当たりがあるのは、女子派遣社員たちから村八分を喰らっていた事。トラブルメーカーだったから村八分を喰らっていたわけではなくて、自分でも理由が分からない。業務に支障は無かった。私が派遣社員の中で異様で浮いた存在だったのが鼻についたのだろう。その他にも色々な会社で適性なしとか、協調性に欠けるなどという適当な理由でクビになっている。ミスが多いとか、言っても治らないとか、仕事が遅いとかもっと具体的な理由が欲しかったが、協調性がないというのは、会社にとって支障だったのだろう。
母に昔々から言われているのが、「アンタの大ザッパな性格が人生の全てをぶち壊してる。」それは当たっていると思う。
周囲や上司から大ザッパな件で指摘を受けるのは、勿論ミスが非常に多い事もそうだが、それ以上に、察しの悪さや空気の読めなさや、協調性に欠けるところなどが多い。
ミスとか作業のザツさ以上に、周囲の女性たちから神経が図太いと言われる事は「空気の読めなさや察しの悪さ」だと思う。言うのは決まって女性。
キッチリとした性質(セイシツ)の人から見れば、詰めの甘さとかザツさは、非常に許せないということは分かる。ザツさは改善しようと努力してきた。空気の読めなさや察しの問題も改善しようと努力してきた。しかし、空気読むのと察しの問題を克服するのに限界を感じている。ザツさ改善も限界あるけど。
この歳になって自分についてやっと分かったこと。
空気読むことやチームワークが非常に苦手である。自分の独断で周りを見ないで暴走したりする事が多々あった。あと、自分の人生観に、完璧の概念が無いということ。完璧主義者の心は全くわからない。
自分は協調性が無さすぎるわけではない。人とトラブル起こしたりはしない。寧ろ、温和な部類だ。チームワークは本当に苦手だ。だから球技が大嫌いだ。
察しが鋭い人は、些細な事でも精神的にダメージを受けやすくストレスが溜まりやすいらしい。察しの鋭い人には優秀な人が多いが、優秀な人ほどデリケートである。察しが鈍い人は、メンタルがタフで、体も頑健である。自分は本当に頑健だ。
察しの良し悪しは天性のものがあると思う。察しが悪いから治そうと努力しなかったわけではない。でも無理なものは無理。
酷い扱いを受けた時に傷ついたり、悲しかったり、ストレスが溜まったり、疲れたりする事はいくら頑健な自分でもある。しかし普通の人間や察しの鋭い人間は自分のような鈍感の比ではない程のダメージだろうとは思う。
自分はザツで鈍感なため、学校を含む社会から絶えず非難を受けて来た。自分としては普通に生きているだけで何故そこまで非難されなければならないのか、常にモヤモヤしていた。母に言わせれば、丈夫で大人しく、扱いやすくて、育てやすい子供だったと言う。しかし社会では全然ダメだった。学校で自分がイジメられたときも、イジメた側を大人たちは擁護していた。イジメた張本人の子というのは、普段強がっているが、しかし彼女はとても繊細な性質だという事で、彼女の生い立ちなども考慮され、彼女のイジメの行為は弱さの裏返しだと学校側は擁護していた。イジメる側は徒党を組んでいる。徒党を組むことは弱さゆえの事だ。自分は基本的に一匹狼だ。そういう意味では彼女は弱い人間だ。イジメられた自分は、担任から“図太いから大丈夫だろ”と思われ、「気にすんな。」の一言で終わり。彼女は誰からも非難されなかった。40年以上経った今でも、見つけ出して復讐してやろうとふと思う時がある。いくら図太くても、傷つくことはある。図太く無神経な性質だと、大人たちからは痛覚さえ無いと思われ勝ちだ。
人の社会(世)では常に繊細な性質の者が擁護され、協調性の高い者が重宝され、手先が器用な者がもてはやされる。それに対して自分は、空気が読めなくて協調性がない。人の社会(世間)では、その時点で人として終わっている。
イジメられても、自殺する勇気はない。飛び降りるのは怖いし、首を吊るのもさんざん苦しんで、力尽きて死ぬので、苦しむ勇気もない。そういう面では自分は弱い。
散々イジメられても解決した途端、寝たら次の日にケロッと忘れてちゃってた。でも時々復讐したい感情が湧き起こる事がある。
自分は落ち込んで夜が寝られないということは今までの人生で無かったし、イライラしてご飯が喉を通らないという事もなかった。全ての物事は寝たら次の日にはケロッと忘れてしまう。図太い精神のせいか、肉体的にも頑健で、肩こりを経験した事がない。胃もたれ、二日酔いも経験した事がない。大ザッパだと長生きするというのも一理ある。
マスコミの情報にも踊らされず、地震や台風の件でも適度に恐れられる。先日の関東を直撃すると言われた台風7号(アンビル)の件でも自分はパニック買いなど何もしなかった。スーパーで米や水や缶詰めが棚から売れてなくなっていた。普通に考えれば、台風7号は沿岸部にしか接近しない。内陸部まで暴風の影響はない。と言われているに関わらず近所のスーパーの棚に何も無くなっていた。みんなパニック買いしたのかも知れない。
自分は台風や地震など災害情報を聞き流してしまう。地震や災害を恐れない傾向にある。その理由として自身が激甚災害に見舞われたことはなく、甘く考える傾向にあるため。まあいっか。台風でも家の中にいれば何とかなるだろう。缶詰めもあるし。でも一応ベランダの竿やモノは家の中に入れておいた。懐中電灯も探して、点くか一応確認して、自分の近くに置いておいた。まあ、一応。何事も無いとは思うけど。そんな感じ。実際に何事も無かった。また外に出す作業をする。
良好な人間関係や、仲間とわちゃわちゃやるのに憧れている。ドロドロの人間関係や修羅場にも憧れている。しかしそこまで行く前に、空気読めない、察し悪いというだけで仲間からはじかれ、その先に進めない。大ザッパな性質が不快だという感性の人も多いのかも知れない。自分は1対1で付き合っても、ナイーヴな悩みに全く共感出来ないため、自分は解決策を提案するのみ。その人は、徐々に距離を置き結果的に自分から離れていった。流石にその時は反省した。彼は共感を求めていたのではないかと気づいた。
自分は無駄に親切ではない。基本的に人に関心が無いため、人が困っていても気がつかないことが多い。細やかで優しい人は絶えず困っている人がいないか探しているようである。そして心の底から相手を思いやる。しかし自分は優しい人でもいい人でもなんでもない。しかし、いくら気が利かない自分でも困ってる人を見殺しにするのはどうかと思うことはある。気が利かない人間特有の対策だが、自分でこういう時には手助けしようと決めている。踏切で立ち往生している人や車、車椅子。階段の前で大きな手荷物を置いて立ち往生しているシニア。電車から降りるのに苦戦しているベビーカー。倒れている人。それ以外にも直感的にこれはヤバいだろう!という場合には例外的に手助けする。気が利かない人間なので、自分が決めた事以外眼中になくなってしまうことが多々ある。人助けは自分の場合、決して思いやりや愛によるものではなく、義務としてやる。そもそも気の利かない人間で、いい人ではないのだから。
大ザッパな性質ということは悪いことばかりではなく、反面、寛容や大らかという良き側面もあると思う。神経が鈍感なため、人のやることなすことが気にならない。というよりこれにも気がつかない。自分はどこででも寝られる。そしてぼっち行動をどこでも出来てしまう程、人の目なんか全く気にしない。自己肯定感はめちゃめちゃ高い。
自分は小学校期から社会に於いて絶えず非難に晒されて来たため、極力、人に干渉や非難をしないようにと努めている。世の中には自分のように、どうしてもキッチリ出来ない人間がいる。自分がそれだから、そういう人間を攻撃しない。出来なくてもしょうがない。と大目にみてしまう。
人の世(世間)は、大ザッパ者の良き側面、おおらか、寛容であることを称賛する傾向にないと常に自分は感じている。いつも何で自分は“おおらかだ”と褒められないのだろう?とモヤモヤしている。
“小心者”たちは群れをなし、徒党を組み、大ザッパで空気が読めない、不完全な者を排除してきた。
しかし、小心である事は緻密な思考にも繋がる。人間社会の、高い技術力やサービスなどにも貢献しているので否定は出来ない。
これを読み返すと自分いかに気遣いがない人間かという事が浮き彫りになった。
長文をお読み頂き、ありがとうございます。
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