日本橋髙島屋資料館で、ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家展がやってたので、遠路遥々東京へ。
東京駅は人でごった返していた。これは東京駅にあるカニの化石という有名なものらしい。写真で見ると25cmぐらいに思えるかも知れないが、実際には10cm程度。東京駅の構内についてググってたら偶然見つけた情報。新幹線南乗り換え口を出てすぐの手荷物預かり場の前の柱。“ごまたまご”の広告がある面の左側のスイッチだか非常用ボタンの上方、大理石のマス目の境目である直線の僅か下辺りにあるらしい。
指示通りに確かめてみたら本当にあった。
このカニは約3000年前に絶滅したカニの祖先らしい。同じ石柱に貨幣石という生物の化石もあるためその時代(古第三紀)のカニなのでは?ということらしい。
《抜粋:ROCKET NEWS24》
化石は生きた証。今からどれくらい昔なのか想像がつかないが、億単位の昔に生きていた彼と現在の自分とが対面している。化石というものが残っていなければ、この種は決して知られる事はなかった。何かを威嚇したポーズのまま彼は息を引き取ったようにも見える。この大理石は何処から来たのだろう?残念なことに彼らは絶滅してしまった。化石とは、なんて重大な意味を持つのだろうかと思った。
カニといえば前記事に掲載した、ナショナル・ジオグラフィックの孤立したカニの群れの記事の続きを読んだ。
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そのカニとは、ポタモン・フルビアティレ(Potamon fluviatile)という、イタリア固有種で唯一の大型淡水ガニの、孤立した群れ。古代ローマ帝国時代の下水道工事が原因で、テベレ川から切り離され、仲間から隔離されて都市のまんなかに取り残された。
「彼らは古代からずっとローマの中心部から動けずにいたのです。今われわれが目にしているのはかつて生息していた古代の群れの生き残りです。」
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これの続き。
群れの数は急激に減少している。
2005年の発掘作業により、群れの規模が明らかになるとともに、カニたちをずっと守ってきた地下運河のネットワークの発掘も行われた。これによってカモメやカラスなどの捕食者に狙われることになった。加えて気候変動での地表の温度が上がり、湿度が下がっているせいで、カニたちは涼しさと平穏を求めてさらに地下深くまで潜るようになった。
現在の個体数を把握するために作業を行なっていたが、結果は芳しいものではなく、過去3年間で新たに確認された個体は6匹だけだった。
「これまでのローマの発展の経緯や、テベレ川がもはやカニにとって幹線道路として利用できるものではないこと、さらには気候変動のことなどを考えると、この群れに明るい未来が待っているとは到底言えません。」
彼らを生き延びさせるには、彼らについて研究する資金を集め、また、市から許可を得て運河の露出した部分に鉄格子を設置して鳥による捕食を防ぐことが必要となる。
「我々が詳しい研究を望むのは、彼らについて知るためではなく、救うためなのです。」
「この群れを消滅させるわけには行きません。」
市はこれまでのところ、鉄格子と通行人にカニの存在を知らせる看板を設置したいというダミアーニ氏らの要請を却下している。
「彼らはカニのことなど気にしていません。彼らにとって大切なのはコロッセオを見に来る観光客なのです。」
今のところ、このカニを気にかけている者たちにできるのは、ローマ遺跡の地下深くで彼らが生き延びられるかどうかを見守ることだけだ。
《抜粋:NATIONAL GEOGRAPHIC》
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この群れが背負っているものは大きい。カニにとっての工事、発掘作業、気候変動などは有事と同じである。有事によってダメージを受けた群れは元のような状態に戻ることが非常に難しい。先日の記事で、彼らを川に戻せば良いなどと簡単に書いたが、故郷の川に戻ったところで2600年前と同じ生活に戻れるとは限らない。川に馴染めず死んでしまうかも知れない。彼らに関係なく、帝国主義や行政の都合によって運命が翻弄されることを思うと心苦しい。カニは、人間社会に対して何の力も持たないのだという事を充分解っていてもいたたまれない気持ちになる。成れの果てには、個体数が激減してしまった。古代ローマ時代に始まった、帝国による下水道工事(カニにとっての大きな有事)から始まって、仲間と切り離され、地下に残留してしまった。それから、ローマ市行政による発掘という激動を経た。その上、気候変動などにより、明るい未来が待っているとは到底言えないという。この群れはいつまで苦難しなければならないのか?全て、力を持つ人間によって分断され、されるがままで、なすすべが無かった。
大切なのは、この群れの存在を知れ渡らせる事と、群れが存続するように守り続ける事だと思う。カニたちはそれでも不遇な環境の中で逞しく生きている。
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ジャッカ・ドフニ展をみるべく日本橋髙島屋へ向かう。資料館の入り口の模型と広告は撮影して良いが、中は撮影禁止である。勿論、貼ってある文章をスマホのメモに書き写す事も禁止である。
この展示会は、とても情報量が多く、ブログとしてまとめる事が困難であった。
今日の記事は、自分が読んだ内容の記憶と、行った人のX投稿記事情報と、頂いた資料を頼りに書く。展示会を文章だけで説明するのは難しい。
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かつて北海道の網走の地に「ジャッカ・ドフニ」と呼ばれたサハリン小数民族の資料館があった。「ジャッカ・ドフニ」とは、ウイルタ語で「大切なものを収める家」を意味し、ウイルタ民族を中心に、ニブフ族、樺太アイヌといった、サハリンに暮らした少数民族の生活文化を伝えた稀有な私設資料館。
この「ジャッカ・ドフニ」は2012年に35年間にわたる活動に終止符を打つ。その後、そこで所蔵されていた北海道立北方民族博物館に引き継がれた。この展示会は「ジャッカ・ドフニ」の所蔵資料をまとまって東京で展示公開するはじめての機会となる。
1905年、それまでロシア領だったサハリン島は、日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南が日本領と定められます。このことは、サハリン島に暮らした少数民族に大きな影響を与え、それまでの生活習慣一変させました。また、サハリン少数民族はアジア・太平洋戦争にも巻き込まれ、なかには終戦後にシベリアへ抑留される人もいました。さらには、さまざまな事情から、住み慣れた地を離れて日本への移住を決断せざるを得ない人もいたのです。「ジャッカ・ドフニ」設立に尽力したウイルタのゲンダーヌ(日本名:北川源太郎)さんはその一人です。このようにウイルタをはじめとするサハリン少数民族は、自らの意思とは無関係に、近代が設定した国境や国籍といった枠組みの中に取り込まれてきました。しかし、そうしたサハリン少数民族の歴史や文化が、今日、十分に知られているとは言い難いでしょう。
本展は、前述のゲンダーヌさんが初代館長として残した「ジャッカ・ドフニ」を通して、ウイルタとその文化に出会う場にしたいと思います。そして、ウイルタと「出会う」ことが、他者あるいは自らの文化に対してより一層理解を深め、さらに、私たちが生きる世界が多元的で、複雑な交差性のもとにあるというということを再認識する一助となれば幸いです。
《引用:髙島屋資料館TOKYO》
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狭い空間に多くの展示物。樺太・サハリン情勢から始まり、ウイルタ族について。ジャッカ・ドフニの設立に貢献したウイルタ族のゲンダーヌ氏(和名:北川源太郎)氏について。それから、ジャッカ・ドフニ設立の理由や、貢献した人、協力した人について。隣の部屋には、ウイルタ族のシャーマンが祈祷に使った物や、民族的な衣類、日用品、伝統的な刺繍模様(イルガ)。ウイルタの他に、樺太アイヌやニブフの所蔵品、樺太先住民の映像など。
ゲンダーヌ氏(北川源太郎)はウイルタの本当のことを伝えるために資料館ジャッカ・ドフニを作り、彼を支えたウイルタ協会もそれを重要な使命とみなしていた。
また、ジャッカ・ドフニは彼が民族復権を目指して活動した結晶である。
樺太の少数民族はウイルタ族や樺太アイヌやニブフ族などがいる。彼らは言語も生活様式もバラバラでった。ウイルタはトナカイを飼育する民族で、言語系統はウラル=アルタイ語族のアルタイ語派ツングース系統に属する。ニブフ族はウイルタと違い、孤立言語の民族。アイヌ語も孤立言語とされる。
ウイルタ語は、野生のトナカイと飼育トナカイを分けて違う単語で呼んでいる。夏は木造の定住住宅に住み、漁労などで生計を立て、冬はトナカイを連れて移動式三角テントに住み、遊牧で生計を立てる。トナカイは食用の他に、荷駄家畜としても利用された。
彼らは大自然の中で、自然とともに生き、自然界全てのものに神が宿るというアミニズム信仰と、呪術と祈祷によって病気を治す、予言をするなどのシャーマニズム信仰であった。
ウイルタは、大陸や日本と交易があった。シャーマンが祈祷する時に腰に巻くベルトのようなものに、日本刀の鍔(ツバ)が使われていた。日本とウイルタには、繋がりがあった。
ウイルタには鉛で砲弾を作る技術があった。銃は狩猟の為に使用された。
ウイルタの衣類はトナカイの皮や毛皮、アザラシの毛皮を使う。とても暖かそうである。
史実に関する自分の感想は書かない。先住民問題は非常にデリケートな為、控える。この展示会で最も衝撃を受けた史実は、戦後補償の差別待遇。
樺太アイヌには国籍が与えられたのに対してウイルタには日露共に、国籍が与えられなかった。そのためなのか、ウイルタは戦後補償を受けられなかった。ジャッカ・ドフニの設立に貢献したウイルタ族のゲンダーヌ氏(日本名北川源太郎)も戦中に日本の特務機関に呼ばれてロシアとの国境付近での諜報活動に従事したが、戦後、ソ連にスパイ容疑をかけられシベリア抑留。帰国後、正式な召集令状ではないとして補償請求は退けられている。
先住民は国を持たない人たちであるがゆえ、日露両国によって人生が凄まじく振り回された。アイヌ、ウイルタ、ニブフなどは、先住民といえども、決して好戦的な部族ではなかった。
ジャッカ・ドフニで収められていた所蔵品と対面していると、文字に起こされない多くの史実がそれらから語りかけてくるようにも思えた。
この展示会は、民族の所蔵品に留まらず、メッセージ性の強いものだった。ゲンダーヌ氏やウイルタ協会が残した結晶は、遠く離れた自分というただの日本人も知る事が出来たし、多くの人が知る機会を得ることが出来た。ジャッカ・ドフニは非常に重要な意味を持つものだと思った。樺太の少数民族は今後、トナカイを飼育し、森で狩猟し、自然とともに豊かで伝統的な生活と全く同じに戻ることは出来ないのかも知れない。私たちに出来ることは、樺太の少数民族の存続をただ願う事である。それは文化や言語の継承あってのことだと思う。
自分は先住民問題について疎いので、何ひとつとして勝手な事は書けない。樺太先住民問題については、この展示会に一度足を運んだだけでは足りない。ゲンダーヌ氏の伝記などを読まなければ深いところまでは分からないと思った。
今日の文章はギコチなくて申し訳なかった。
長文のご精読ありがとうございます。
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