電車を例にとると、回生ブレーキとは捨てる熱エネルギーを電気エネルギーに変え、究極のところその分だけ発電所の負担を減らし、その発電所が火力発電なら化学エネルギーの温存を図ろうというものだ。
どう考えてもエネルギーの変換点が多い。回生される電車の運動エネルギーは紆余曲折を経て化学エネルギーになると考えていい。発電機のρ、途中熱エネルギーとして捨てられる送電ロス、変電ロス、火力発電出力の調整ロス。じつはこれが大きいのだ。調整が簡単だと言われる火力発電ですら弱電ならどうでもいいが強電になるとものすごい手数と計算を踏まなければ困難を極める。
そこでデンマークはかんがえた。デンマークというと途端に拒否反応を示す低能右翼がいる。僕はそれが十分わかる。気違いババアがパンフレットを持って人の昼寝を邪魔しに来る。エネルギーといえば自然エネルギー、食い物といえば自然食。なにかの宗教みたいにこれを人にも強要する。この文明拒否集団は日本でも大いに迷惑していて僕も背中がぞくぞくするほど嫌いだ。
だけど全部を否定したりしない。そこが脳のキャパシタンスだ。
デンマークの地下鉄は駅のある部分だけを浅くつくり駅と駅の間は深く作った。おそらくサイクロイド曲線になっているはずだ。
電車が駅に着こうとすると駅は地上近くにあるから自然とブレーキがかかる。電車は坂道を登る。つまり電車の運動エネルギーは自動的になんの機械も通さずに位置のエネルギーに変換されているのだ。乗客の昇降距離も短縮されたという副次的効果も生んだ。
上方に位置するという位置エネルギーは今度は発車の時放出される。ボルト一本つけない回生ブレーキだ。
一般に現代では精密この上ない姿をしている機械というものは、ほんの50年前はお粗末この上なく単純だった。いろんな不都合があり、あれをつけこれをつけしていくうちに怪物のような代物になってしまった場合が多い。
ほとんど死滅しているキャブレーターがいい例だ。お目見えしたころの霧吹きのような単純なキャブに比して最後のころのキャブはすさまじく複雑だった。しかしそのことと、それがいい機械になったというのとは違う。発想においては最初のころと何一つ変わりない。修正に修正を重ねた結果化け物のようなキャブが登場した。
も一つ例をあげよう。自転車。無駄なく洗練された姿は美しい。ビス一本無駄なものはない。クルマという怪物はその点自転車に大きく後れをとっている。根本において100年以上もレシプロいこだわっているからだ。こう言うとすぐ低能は、だから電動モーターがいいのだとか言うがそんな話はしていない。
デンマークの地下鉄はローテクだ。計画通りにはいかなかったところもあると聞く。しかし、それは本質ではない。では本質は何か。
日本はああでもないこうでもないと複雑なキャブを求めたのだ。デンマークは発想を転換した。