か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

今は鎖国なんだな、ゆるーい戒厳令も出たし

2020年04月01日 | 日常

事は思った以上に深刻で、ビールスは今や痕跡を残さず経路不明の伝染を始めた。

といってもビールス自体に意識があるのではない。意識どころか、生命体としての基本であるタンパク質すら欠けているので他の生命体の助けを借りなければ単なる物質なのだそうだ。

厄介な存在だが、生命体のなかにもこうした他人を利用することを覚えた生命は多い。ヤドリギ、寄生虫、・・・ おいしいところを吸い取って宿主が死にそうになると、どうやって察するのかさっと次の宿主に移動する。

 

まてまて、人間にもいる。借りたものを返さず当座を嘘でごまかし都合が悪くなるとさっとトンずらして新天地で再び増殖する。不渡り出しても気にもかけない脳性良心麻痺はそこら中にいる。コロナビールスもコロナ人間も罪の意識がないことでは同一だ。

目先を取り繕って、声ばかり大きく、時には偉そうに精神訓話をたれる。自転車操業の人生は結構快適だったりする。類は友を呼ぶ。

こいつらは歓楽街という粘膜で増殖する。何の生産性も持たないが、人に寄生しいるとか自活できてないとかいった自覚はない。

 

狂ったように目の前の軽薄な喜びに夢中になり、将来に備えることをしない。

 

賢明な方はお察しの通り、自分をコピーするという情報のみで構成されるビールスは、じつはビールス人間としてすでに巷にあふれていたのだ。

 

ただし、そんな軽薄な寄生人間に対して、ぼくらは彼らを「憎悪する」という抗体を獲得している。不当なあぶく銭を嫌悪するDNAは多くの人にある。

コロナがパンデミックになるかどうかの瀬戸際だというが、人間同士のなかでも悪性の寄生人間が不正をはたらき善人がばかを見る事態はよく目にする。

日本ではパンデミックとまではいかないが、少なくともクラスターは各地にある。本物コロナにしろ人間コロナにしろ。

寄生人間コロナは、人の良心が弱るのを虎視眈々と狙っている。隙を見せると増殖は速い。のどの粘膜から網膜にいたり物事をまともに見る能力を奪い、髄膜に、いたっては思考を停止させる。抗体のない人はいちころだ。

 

考えてもみろよ。はやい話が町の人間コロナゴミどもをいつ駆逐したか。暴力や裏切りや犯罪が町を大手を振って歩いている。抗体のない人間はバカを見ている。

目に見えるこの手の等身大ビールスを退治できないで今に至った社会が、今更特効薬を発明するとは考え難い。

 

絶対にありえない。

コロナビールスとチンピラに何の違いがあろう。

 

 


外に出るな、人に近づくな

2020年03月27日 | 日常

濃厚接触しないために学校は休みになった。ぼくにはどうも安部のすることはあべこべだと思えて仕方がない。あべこべじゃないとでも言うのかい。

安部は、休校措置に対しこう言った。

「この一、二週間がヤマです」「ともにこの難局を乗り切りましょう」

根拠がない発言だったが、ほんとにそうなら様子を見ようかというところが大方の心情だっただろう。

冷静になると、いかに国民をペテンにかけているかがわかる。

 

あべこべ①

学校は休校になっても共稼ぎの子供は行くところがなく学童保育所に行く。そこでは教室以上の学年をまたいだ詰め込み状態であり、濃厚接触をしないなんてありえない。

低学年の子は学校にいようが家にいようが学童保育にいようがとにかく大人が常時見守っていなければならない。つまりどこにいても濃厚接触からは逃れることはできない。

子供を他人に預けて働くしかない社会を作っておきながら、今更会社を休めというわけか。そんなことしたら会社はこういう。

「あんた、ずーっと会社来なくていいから」

こういう実態を知らず、あるいは理解できず、または、何かしてます感を出すためのパフォーマンスとして、無駄なことをした。

子どもも母親もただただ困り果てた。人を困らせたという効果はあったが、コロナには何の効果もなかった。

 

あべこべ②

そもそも子供はあまり罹患しない、しても軽症だ。9歳以下の発症率は極めて低い。それよりも緊急を要するのは高齢者対策だ。遊休施設を利用して学童保育をするのではなく、学童の数百倍も発症率が高いご老人の安全確保に留意すべきだった。

 

あべこべ③

学校に行くなといわれた子供は街に出る。隔離性を高められた老人が退屈して原宿に行くとは考え難い。

 

感染症学会の中でもとくに政府寄りの忖度上手の御用学者は、バカ殿の思い付きに何でも賛成する。クルーズ船も感染拡大の前から洋上ビールス培養器になるというのは良心的感染症専門医が指摘していたところだ。常識だった。

後になってからは何とでも言えるという相当に能力のない人がいるが、お黙りなさい。クルーズ船の船室がビールスからの隔離能力がないということは事前にわかっていた。バカね。クルーズ船を設計するとき、防疫性を考慮するのか。さらには、二人部屋がどうして隔離部屋といえるか。

日本では帰国者に対しても二人部屋をあてがった。これじゃあ頭にくるのも当然だ。家に帰れば一人部屋だ。クルーズ船の独房よりも、お役所仕事の隔離ごっこよりもはるかに自宅の一人部屋が防疫性が高い人は多い。

オリンピックが延期になるや否や、数を抑え込む理由がなくなり一挙に患者数が増えたことに意図的なものを感じないかい、皆さん?

 

韓国に行けばぼくは田舎で海を見ながら隔離生活を満喫できるのにそれもかなわなくなった。ぼくは日本の超田舎に行って一人キャンプをした。今後もそうする。その様子は次回からの記事に書きます。

 

 

日本には、たとえ賢い選択を知っていてもそれを口に出す勇気がない人が多い。とくに学者、知識人。たいていは、その場を取り繕い、行き当たりばったり、パフォーマンスの人気取り。責任逃れを第一に考えちゃんと逃げ道を用意した表現で何の具体策もない日本のかじ取りたち。これじゃあ日本はコロナがなくても落ちぶれるね。

 

安部こべに言いたい。

テキトーに人の立場も理解できず、仕事はうちでしろとか、子どもは家にいろとかよく言うよ。それよりも、今どき能天気にコンサートに行きイベントで濃厚接触をする人たちに対し、「人が死んでいるんだぞ」「自分は発症しなくてもお前のそばの老人を殺す気か」と憎まれてでもそれら集会を禁じる勇気のある発言はできないのか。

 

 

 


バレンタイン 恵方巻 七五三 回覧板 年賀状 お中元・・・を断捨離 

2020年02月14日 | 日常

現役の教師のころ、家庭訪問をしたことがある。

貧乏人の家ほどモノにあふれている。

台所が片付いていない。カネにルーズ、テレビの音が大きい、ゲームだけは最新だ・・・貧乏に共通する特徴はいくらでもあるが、とにかくいらないものがあふれている。それはなぜかについて考えた。

 

そんな人たちもときどき思いついて断捨離をしようと思う。できたためしはない。先生が来るから少しは片付けようとした形跡もあるが、モノは一時移動しただけ。一週間もすればまっすぐ歩けない部屋に戻る。

 

恥知らずにも、散らかって不潔な部屋をそこにあるモノのせいにする。

冗談じゃない。よく考えもせず物を買いたがるその思想性に原因があるのだ。該当する貧乏は反論する。

私の勝手だ。好んで貧乏やってるわけではない。大きなお世話だ。・・・そのたぐいの声が聞こえてくる。

 

ぼくが思うに、原因は関係性を断つ勇気がないからではないか。現代の貧乏人は本当に物がなくて困った人はもはや少数だ。つまり、なくなって困った時のことを考えて・・・などとは、腐れた弁明だ。幻想にすがる。

ただ、捨てた後で必要になったらどうしようという・・・気持ちと、こんな部屋に人が来たら恥ずかしいという気持ちがいつも堂々巡りをして出口のない迷路をぐるぐる回る。

 

わかったようなものの言い方で記事を書いているので嫌な気持ちになる人がいるはずだ。ご心配なく。ぼくもそんな貧乏人の典型だ。

 

ただし、先日、” One morning I awoke to find I should reset my life "というブログ記事を書いた時の気持ちを義理チョコをいただいて思い出した。義理チョコは失礼だ。

部屋に散乱するガラクタの類と変わりない。断ち切れないのは自分が弱いから。

 

これは参考にしていただいたらいいかなと思うことがあるので書く。

 

ぼくの心は人一倍弱い。それでも僕は無理をした。無理は嫌だが、正しいことに努力するのはいいことだと無理して思った。

 

捨てるのが心配なときは、かりにそれを捨ててもまた同様のモノを買う。人はこのときモノを心配しているが、そういう心配をする心を捨てたらどうだろう。

偉そうに言うが、僕は思い切って捨てた経験からかなり自信をもって言うことができる。

 

ぼくは、いらないモノを捨てるのではなくいらない関係、の連続に連綿とする心を捨てた。

タイトルに例示したおよそ無駄と思う関係性を捨てた。その後、その関係性に関連するものを捨てた。

無駄な挨拶をする虚礼という関係。こんな関係はいらないと確信した後住所録を捨て年賀状もやめた。お歳暮もお中元もチョコレートのやり取りも、忘年会も新年会も町内会も回覧板もすべていらない。

人間関係がまずくなるからと言って人は断ち切れずにいる。そんならぼやくな。見苦しい。

 

もちろん来るモノは拒まない。年賀状も封筒セットが当たった。お歳暮もチョコレートももらう。だがもはや返すことはない。

 

関係を捨てると決心してからしばらく(3日)は、なんだかもやもやした。そうしてやがて、心は快晴になった。

 

本当か。本当に快晴か。一点の曇りもないかと自問する。絶対僕にはホワイトデーはないのか、と。どんなにかわいい子からもらっても心は微動だにしないか、と。

ああ、そうだ。しない。

 

その後、僕の関心は新しい関係の構築に注がれるようになった。その後の人生はまだ半年だが確実に以前より楽しい。


暑い夏

2019年08月07日 | 日常

夏はぼくを悪くする。暑いので福岡県の山間部に逃げていたら、迂闊にもそこは盆地だった。日本一暑かったとテレビが言った。暑かった。38℃

 

日本は今,太陽光線から受けるエネルギーの60倍のエネルギーを放出している。太陽の狂気もそう考えるとささやかなものだ。この爆炎の60倍が日本から宇宙に向かっている。

そんな中公園に行った。この公園は昔、焼夷弾で1000人ぐらい焼かれている。苦しみを共有できた。

そんな暑さは当然の地球からのおしかりだと考えるか。いやいや寒冷化に向かっているのだとか。CO2は気候変化を穏やかにするとか。地球の未来予想は百家争鳴だが、個人の取るべき行動はいろんな予想に関係ない。エネルギーの乱用は見苦しい。われらは本能的に道徳としての節約志向をそなえている。

昭和30年代、高度経済成長とはいえ、家庭の電気の契約は10Aが普通だった。シンクの水は庭に撒いた。鉛筆は繋いで使った。小学校の間、筆箱を新調したことはない。・・・

貧乏だったからではなく、捨てるとか、壊すとか、乱用するとかに対しては、身体的拒否感があった。

 

ひるがえって今や、いざ自分の利益になると判断するとどんなに反社会的なことをしても自分で自分を許す。部屋の温度を5度下げたら同じ体積の空気をひかえ目に言って15度あげている。

屁理屈はどうでもいえる。熱中症だ、病弱だ、高齢者だ、風呂は一日おきにした、庭には打ち水をしている・・・狂気の反論であり、巨漢ボンレスハム自体が温暖化を促進している。

 

体脂肪30%以上の人は冷房料金を加算して払うようにしよう。

 

よどむ熱気の中公園は静まり返っていた。

少し前同じ公園で、

ベルサイユのばらだそうだ。

坂本繁二郎のアトリエ、移築


千栗(ちぐり)神社 村田神社

2019年01月05日 | 日常

この二つの神社は1キロほど離れている。佐賀県鳥栖市あたり。両社とも長い石の階段の上にある。三社参りの続き、残りの二社。

千栗神社は昔、柔道の古賀さんがその階段を駆け足で上り下りをして足腰を鍛えたところだ。


僕は「10万もらっても走らんぞ」といったら、「100万なら」と返してきた。100万か、別に迷うこともないな。心臓、血圧、糖尿。いずれも絶望的な状況になってきたが、がぜん笑顔になって駆け上がる自分が容易に想像できた。

「僕は100万でも行かんな」と言うと、「顔に出るタイプやろ、見え見えばい」

女は、人の表情を盗み見したり相手の言葉の裏を邪推する能力にたける。女の3歳は男の30歳に等しい。

心の純粋さにおいて男が優位に立つのだが、そういうと、「ん~ならみんな女はつまらんものやね。ん~ならかわいい巫女さんを探すこともなかよね」

あ~言えばこ~言う。男は口では不利だ。脳の言語野に著しい差がある。

 

先日の熊本和水(なごみ)町の地震の時、うちもかなり揺れた。僕だけすばやくテーブルの下に隠れたのでそれ以来彼女の機嫌が悪い。低気圧がずーっと続く。

男はしばらくすると面倒くさくなって、もうどーでもよくなるが女はそうもいかない。完全無欠の執念深さ。くわばらくわばら。

 

村田神社。

元来花見とは梅の花を指した。梅は息が長い。一か月間、昔の人は花見をした。今は1時間以内に終える。酒を飲んでもせいぜい一日だ。怒涛の資本主義は巨大な自転車操業だな。

 

千栗神社。

「宝暦」「元禄」「元和(げんな)」の年号が刻んであった。

根元から空を向いて広葉樹をとる。葉は互いに重ならないように広がる。貴重な日光を分け合うのだ。

 

近所にカレー屋があり行った。インド人がいた。アフリカの黒さと違ってこげ茶だ。子供のころ、僕は「インド人のくろんぼ」と声を出しながら遊んだ。…

さあここらで人種差別だ、男女差別だとが目くじら立てる「こんな人たち」の登場じゃないか? いやいやそうじゃなくて、ぼくも反省しているからどうかご勘弁を。

インド人のくろんぼなんてとんでもなく失礼なことを言った。インド人はこげ茶だ。

ナンや🍚のお替り自由。ラッシー(左の牛乳みたいなの)がインドになかったら僕にインドは必要ない。インドで食えば40円だが、ここインドみたいな佐賀で食うと3000円。

そんなもんだろ。絶望と殺戮のイラクではガソリンは1円だ。日本はアメリカのぽちだ。が、言いなり小僧もいいもんだ、思考停止すれば何でもできる。イラクに奉仕した自衛隊。ばか。

ただでさえがむしゃらな資本主義の下、追われるように働いてついに考えることをやめた葦原の国の人々。どうせ過労でこう↓なる。

神社ではいろいろ学べる。

 

 


当所神社

2019年01月03日 | 日常
今、当所神社から帰った。福岡県朝倉郡筑前町当所。

毎年のことであるが、この神社は面白い。僕はこの神社を楽しみに正月を迎える。土地の古老や神職の方と話すのがとても面白い。
 
神社裏の池
 

占い好きのアホ女子=内縁の娘によると、何を根拠にしているのかわからないが、ここはパワースポットだそうだ。
 
 
 
神職みたいな人が出てきたので、霊験あらたかなこととか、日本人の清き明けき心を言われるかと思ったら意外なことをおっしゃった。
 
 
以下神職みたいな人の話

高校生が、この当初神社に合格祈願をして見事合格したのでお礼を言いに来た。その子は以前、太宰府天満宮に祈願したが、その時受けた学校は不合格になったそうだ。

(僕は又出た神社の自慢かと思いながら聞いていた、ところが)

けしからん、自分の将来を人頼み、神頼みにしてどうする。自分の力で合格しないと意味がない。受験するということは、自分の力を発揮して真剣勝負をすることだ。
 
あなた(受験した高校生)が今まで十分努力してきたからこそ合格したのであって、神社はあなたの実力以上に何か力を与えたことはない。

神社のおかげで合格したなんてありえない。

神社としては、あなたがやる気を出すために利用していただくのは結構なことだが、自分の力で合格したんだということを自覚しなさい。努力をおろそかにして神頼みしようとする考えには同意できない。

以上
 
神社の焚き火は暖かく燃えていた

 
 日本人はその場を壊さないようにどんな人の言うことも同意したような態度をとる。ましてや話題が相手の立場にかかわることなら極めて慎重に発言する。ここでは神社にお礼を言って無難にやり過ごそう、と思うものだ。

しかし、そのような自分を消した態度が思考の深まり、議論の深まりを妨げる。分かっちゃあいるけど穏やかな人間関係のためには少々の不同意も隠し「ごもっとも、ごもっとも」と相槌を打つ。

漱石の言うように、情にさおさすと流され知に働けば角が立つのだ。しかしこの爺ちゃん神職は、思ったままに発言するからきわめて言葉が重かった。
 
僕はもともと人格者だったが、年とともに僕の人格と識見はその完成度を増しこのごろは「丸くなったなあ」と自分自身を振り返ることが多かった...

バカ言え。そんなこっちゃあ、いかんのだ。青天の霹靂とはこのことか。いい神社だ。

いろんなものが奉納されていた。

よい大根。僕は好きだ
 
 
よい男根、いや大根。ぼくは、負けました。

なんでも差別というと良い人になれる

2018年12月02日 | 日常

引用

 電動車椅子を利用中の飲酒を巡る警察の対応について、障害者団体が抗議を寄せている。警察庁が「操作を誤らせる恐れがある」などとして禁止を呼び掛けているためだ。団体は「不当な差別だ」として改善を要望。道交法上、車椅子は歩行者扱いだが、普及に伴って事故も増えており、識者の間でも見解が割れている。 (浅野有紀)    東京新聞 2018年11月24日 07時08分

ソウルの町は今とても寒い。寒いのではあるが雪は多くない。昔はほとんど雪はなかったのだが、この頃増えた。ずっとそこに住んでいる人は、かえって町の変化は見落としがちになる。突然行くと変わったなあと多くの発見をする。

しかし変わらないものがある。

町に出て障害者を見ることはない。物乞いの類に自分の障害を売り物にしている人を見かける。これはよく見る。お涙を頂戴して糊口をしのごうというわけだ。また恵む方も、施しをすることでたやすく善人になれる。

僕は彼らの生命力に頭の下がる思いだ。僕は両足をなくしたら生きる気力までなくす。車いすのバッテリーから電源を引いてジングルベルを歌う人。とても下手だ。だが僕は彼の生きる力に尊敬する。

だが大部分は家の中にじっとしている。段差だらけの家、街、店、道路。一度でも車いすを押したことのある人は段差が悪魔のように思えたはずだ。とくに電動。総重量は150キロになる。5度でも傾けたら、「あんたは介助が下手やね。」と乗っている障害者からいわれ、大名の駕籠かきになった気がする。

北朝鮮の高官がもっと恐ろしいことを言った。「わが国には障害がありません。この世の楽園ですから。したがって障害者もいません。」

 

日本はどうだ。

福祉の水準は、こうあるべきだという理念によって現実化されることはない。ない袖は振れないのだ。おそらくこの理念ということでは韓国と日本に差はない。むしろ日本で盛んな自己責任論こそ恐ろしい。すべてを無政府状態で足りるとする暴論がまかり通る。

だが現実は韓国には福祉政策がほとんどない。存在しない。

 

もちろん、十分ではないがが、わが国の社会福祉は世界に冠たるものであった。しかし今は福祉の後戻りの時代だ。それでも厚労省は予算の1/3,30兆円を握っている。韓国の全国家予算の1.5倍である。

生活保護をもらえない人はもらう人をひがむ。もらえない自分の貧困は、ぐうたらや無能が根本原因なのに、人は比較の中に住んでいる。

 

いっぽう、もらう側すなはち障害者はどうか。もらって当然であるからすべてを差別といえば何でも可能なのか。

健常者と全く変わらず行動する権利とは、障害者が健常者から奪い取るものではない。自助の努力がまずあってそれでもできないことを補ってもらうのだ。健常者といわれる人も何らかの障害を抱えている。

片親、中卒、高卒、借金、へき地、貧困、離婚、はげ、ホモ、・・・それらに手当は出ない。出ないが自分で何とか克服している。自分の思想を作っている。障害者だけが限界までの自助努力をしなくていいとはおかしなことだ。

酩酊して道を歩くのはだれであっても下品なことだ。障害者はその下品なことをする権利を主張している。日本はそこまで面倒見のいい国ではない。


人間のつながり

2018年10月16日 | 日常

具体的事件を例に引きその事件の面白さとか衝撃度とか特異性を述べることで耳目を集めるのは簡単だ。

興味ない。

E.Frommが「自由からの逃走」を書いて久しい。ワイマール共和国であれ、戦後の日本であれ自由らしきものは突然空から降ってきたものであった。

だから、自由とは自分勝手を意味しないとか、責任を伴うものだとか、、生産関係のトップたちは何とか御用学者を動員して、枠の中でおとなしく草をはむ飼いならされ満足した豚の量産を図った。

Frommは勝つことなしに手に入れたものの脆弱さについて問う。

自由はありがたくないのだ。権威(会社、学校、サークル、団体etc・・・およそ一切の所属させられているもの)にすがる生き方を選択する者に自由ほど邪魔なものはない。不本意な判断、行動、去就が詰まった人生が予約される。

 

今孤独について日本の思想界は盛り上がっている。孤独から逃げるのは簡単だ。先ほどの権威にすがればいい。アリが砂糖にたかるように、すがるもので僕の周りはあふれるだろう。

権威にすがれば、さらにそのすがった者にすがるものがあふれる。これを田舎の低能たちは町役場で昇進したぐらいで、自分の人徳をしたって人が集まると勘違いする。

この勘違いがファシズムの温床であるとFrommは言う。

だが、その「寄らば大樹」選択をせずに、孤高を保てる人は少ない。低俗なコメントによればやせ我慢をしているという。

 

Fromm wurde in Frankfurt am Main geboren.

 

僕は孤独の中で正義を貫くことはできない。こっちの水はあーまいぞ、という声は常に大きく誘惑に満ちている。ボーナスは50万より500万がいい、部下は50人より500人がいい。蛍には甘い水だ。

しかしやせ我慢にしろそうでないにしろ、精いっぱい節を曲げずにいる人を軽蔑的にやせ我慢とかいうものではない。

The ability to be alone is the condition for the ability to love.

(一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。)

フロムは心の弱者に厳しい。


人情の紐帯

2018年10月08日 | 日常

僕の祖母と母が出た女学校だ。石碑はもう一本古いのがあるので目立ちたがりの下品な奴が名を残すつもりで恥を残したものだ。

 

戦後は隣の学校と合併したが、バカとバカが合併しても賢いのは出て来ない。50°のお湯に50°のお湯を足すと、やはり50°だということ。

男子校の旧制中学の方は、血の気が多いのとか、命がけで自己中心なものが際立っていたし現在でもそうだ。したがって九州大学も20名程度しか合格しない。

問題はその後だが、やはり際立って自分だけがよければよいとする人間になっている。いつも後ろからこそこそついてきていたくせに文部省に入ると突然ケンカが強くなる。頂点まで上り詰めたが晩年はさみしかった。

利己主義の集合には助け合いがない。何百人も取り巻きがいたが、汚職がバレると潮が引くようにいなくなった。

 

平和主義とか言うことで戦前の天才たちは無理に記録や記憶から消されている。現在東大は定員5000人、九大は4000人が合格する。ところが海軍兵学校には大正時代の軍縮の時代には30人だった。伝習館中学は多くの合格者を出している。

誇るべきだ。僕は入試問題を見た。半端な頭じゃ通らんぞ。微積がないと到底解けない。それを今の中3に解けというのだ。こう書くと戦前をほめていると思って右翼が喜ぶが、お前はこの程度に合格したか。

宮崎鼎・・・電気溶接の父 伊藤整一・・・戦艦大和艦長 白秋とか言う飲んだくれのエロ本作家をこのごろはやたら持ち上げる。白秋は伝習館を卒業してない。それでも大学に行けたのだから時代がおおらかだ。

 

浮立(ふりゅう)は各地各様のスタイルがある。こちらのはドンキャンキャンと言って鬼に扮した青年が子供を泣かせて回る。なんとなく異国の風情を感じるのはここが長崎に近くシュガーロードに位置しているからだろう。

チンをたたきすぎて折れた木づちが散らばる。

きょうは祭りには暑すぎた。

 

女学校の壁だ。僕らは細い電柱をもち体当たりをして肉弾三勇士ごっこをした。仲間に歴史好きがいたのでこんな名前が付いたが当然僕は意味は分からない。中国人を爆殺するのだろうということぐらい。

 

ツルみそはかろうじて営業していた。昔このあたりはトントコ町といっていた。由来は不明だがとくに友達の多い街だった。が、

 

味もそっけもない立派な集合住居になっていた。これが発展か。そんな発展、僕はいらんな。

 

日本のプロバンスと僕一人で呼んでいる。もう行くことはない。灰になって上空から見たらいいかな。汚くてしょうがない大川のような街になった。


我慢しないで辞めればよかったのに。なんて知りもしないで言うな。

2018年09月04日 | 日常
高橋まつりさんの時も、名古屋のホウロウ加工会社が日常的に従業員に傷害を与えていた件も、山形の消防士が自殺した件も、加害者はカネさえあれば何回でもカネでカタが付き、失う側がさしだすのは命だから一つしかない。

殺す側が公務員の場合は、役所や組合がグルになって仲間の人殺しを守る。滋賀県大津市では、教育委員会がいじめ自殺した子供が切々と書いた遺書を見て「なんや、しんだんか」と言い放ちオーストラリアにコアラを抱きに向かった。

パワハラをうけないようにするには…、という記事は多い。パワハラをする方は、相手が傷つこうが死のうがゴメンといえば済むことが多い。

江戸時代の武士だ。切り捨てごめん。

これは戦争である。戦争である以上、敵を何人殺そうと罪に問われることはない。ところが戦時以外でも殺人のライセンスを持つ奴がいる。自殺に追い込むという卑怯な免罪符を持ちつつ殺人を犯すと、「なんや、しんだんか」ですむ。

やられる側が反撃すると犯罪になる。始末に悪い。

その中学は犯人のみを転校させただけだ。別のチンピラがまたいじめを繰り返している。転向した主犯も再び転校先で自由にいじめを再開した。

権力による治安が十分に機能している限りにおいて仕返しは犯罪である。(自力回復の否定)つまり権力が身の安全を保障せず「なんやしんだんか」で済ます大津市においては、住民は教育を受ける(受けさせる)義務を負わない。

では逃げろというのか。どこに。不良はネットワークを持っていて全国オウム真理教のように追ってきて死ぬように仕向ける。

戦えというのか。なんという残酷な言葉だろう。できないからこの現状がある。

ぼくもパワハラを受けていた。反撃したが最後の一蹴りは手加減した。僕は180センチ80㌔だ。こういうのをみんなの前で馬鹿にするのが面白かったのだろう。

それまで頭を小突かれても書類で叩かれても我慢して精神科に通った。ある時半殺しにしたが。あと少しやりたかった。

風のうわさに不具者になったと聞きこの件は僕の中で収まった。

なぜ面白半分に人を死に追いやる不良やくずやチンピラが人権を盾に顔を隠されこっそり転校し場合によっては戸籍まで作ってもらっているのか。

DENTSUの人殺しは出てこい。

 


集金人は暴力である

2018年01月08日 | 日常

NHKの集金人が来た。今日は朝から雨が降りしっとりとして暖かい一日であった。レンタルビデオの返却以外に何の用事もない。

充実して仕事がさばけ銭になり人に喜ばれ・・・と物事をどんどんこなすのも楽しいが、今日だけは誰も来るなと祈りつつ、読書、電子回路、プラモデル、料理と風呂、これらを繰り返していると一日の短さをを嘆く。

 

NHK

こちらの対抗要件としては、「見ません」「CM流せよ、民放のように」「総務省の天下り団体じゃないか」「常識的に人間が多すぎるぞ」「内容が偏向している、みぎに、ひだりに」「低俗化しているし下手だ。そんなとこはいらん」「麻生の友人が会長になった」「人んちに夜、柵を乗り越えていけば普通懲戒免職じゃないかい。かえって昇進して紅白の司会か、ニューヨーク支局長か」・・・

NHKも大変だ。受信料払ってくださいというたびにどんな言葉で応酬されるかわからない。ここは九州だ。言葉で応酬されたらまだラッキーだ。とにかく内部が腐っていることは事実だが、それと公共放送が不必要だということは関係ない。

 

時の政権のお先棒を担いできた事実だけでも解散に値する。USAにNHKがあるか。韓国にはKBSがあるが冷静で客観的でジャーナリズムの本旨を忘れてない。安倍のポチ犬NHKとは違う。まずCM収入があり受信料は極めて安い。

中国が環球時報を持つようにNHKがある。時局が急を告げたらNHKは身を呈して政府を守る使命を持つ。(放送法)

 

僕がこんなことを話したら集金人は、なるほどそうですかあ、今日は勉強になりました、と言って帰った。なかなか上手(うわて)だ。

だが、いつでもマニュアルどおりとはいかない。いきなりバットを掲げて追い回されることもあったそうだ。

九州は熱い。嘱託にいやな仕事をさせて、コネ採用にあふれて、人余りの中人件費は受信料で支えられている。とくに幹部の超高給と会長人事の不公正。放送委員会とは名ばかりで大物の一言で決まる。自民党による私物化はきわめて不愉快だ。動画の自由新報だ。このざまでどうして国民にカネを払えと言えるか。

カネは国民から。やることは自民党のポチ。

 


うちの年末

2017年12月17日 | 日常

クリスマスリースを自作した。

山からつたを取ってきてぐるぐる巻いた。毎年のことだが少しは進歩があるし出来上がりがはやくなった。はやくなったのは去年のを流用した部分が多いせいもある。

松ぼっくりはプラカラーで緑や金銀にスプレーする。今思うと金が良い。松ぼっくりの先に紙粘土で雪がついているようにする。だが、紙粘土は乾燥すると割れるので何回も盛り付ける必要があり飾る時間がなくなりそうで辞めた。

金のスプレーにをした松ぼっくりに白い紙粘土の雪はとても上品だ。

工夫の余地があると来年に向けての創作意欲がわく。完成と思ってしまったら墓場にいることと同じだ。成長もなく意欲もなくなる。

ベルはワインのおまけ、花びらとテープは紙で作った、枯れた柊は白スプレーでごまかし

糖分をとると脳が冴える。はっきり自覚できる。ところが当然血糖値が上がる。病院の医者が「死にます」と言った。3か月かかってやっと正常値になった。最初は測定不能値。これはたしかに怖かったので保険外の治療を仕方なく受けたが毎回2万もとりやがった。きっとネコババしている。僕は、意地張らずに医者になっとけばよかった。

腹が減ったので糖分の代わりに炭水化物で我慢した。医者はそれもいかんと言った。そしたら食うもんがない。

二人分ではない ダブル特製うどんと普通のうどんを一人で食う ラーメンなら替え玉5回 この替え玉とは全国にあると思っていたが九州だけだそうだ 食欲に限らず煩悩の消える日はまだ遠い

リースも夜撮るとなかなか良い。素敵な家に住んでいるようだ。

クリスマスにはバイオリンを弾いてケーキを作る。僕がケーキ職人をしていた時は一番苦しい時だった。父親は妾を作って行方不明、母親は家のカネを使い切る。仕方なくケーキ職人の見習いになった。死んでたまるかと思い最高の試験を目指した時だ。

試験には合格したが何にもいいことはなく、今、子や孫にケーキを作ってやるのに役立っている。それでよし。  Es ist gut.

 Frohe Weihnachten

 

 

 

 


わからないとき

2017年11月18日 | 日常

特別支援学校の生徒の詩が文化祭で発表された。

 

わからないとき

わからないといはバスていのいろ

わからないとき

わからないときは きいろいバスていのいろ

ぼくのよくわからないときは きいろいバスていのいろ

 

ここでのバス停とは路線バスではなく送迎バスのバス停です

 

 

このての学校には褒めて褒めて褒め殺して自分の高い給料を確保しようとする、善人面した悪魔が巣くっている。良くもないのに褒め、面白くもないのに笑う。仮面をかぶった悪魔、「善魔」、教員。

この偽善のるつぼで一番素直なのは生徒たちだ。人手は余っている。だがそれを言うと誰かが転勤になり給料の低い職場へ行く。恨まれる。その転勤該当が、改善を言い出した自分になったら笑えない喜劇だ。すべて沈黙は金。

そこで忙しいふりをする。実際、無駄に忙しい。だが、そのぶりっ子仕事をなくし校内人事配置やカリキュラムを最適化すれば、一部へのしわ寄せはなくなる。だが、・・・

そのしわ寄せの極値が、やけになった人殺しとして表れている。人はいくら収入が多くとも、人の役に立ちたいという本質をなくした仕事をしていると精神は、跛行する。

生徒より先生に気違いが多い。

「善魔」(善人面した悪魔、先生)は必要以上の声の大きさで死んだ〇〇ちゃんを嘆く。

 

なにがあってもなにも変わらないように、生徒たちは日々を過ごす。保護者、とくに母親は自分を責める。こんな子に産んだのは私だ、と。「善魔」は、軽くそんなことはありませんと顔だけ同情して言う。父親はこんな面倒からはとっくの昔に逃げ、若いピチピチとつるむ。

 

障害児の生徒には、状況が分かろうものか。生徒は、「わからないとき」と題して詩を書いていた。すべてがわからないのだ。

なぜここにいるか、なぜお父さんはいなくなったか、なぜお母さんは時々隠れて泣くか、なぜお迎えのバスは遅れたか、なぜ食う暇も与えず楽しいね楽しいねと横から口出しするか、帰りのバスから降りた後で見える先生の顔が死人のように冷たいのか。…

すべての彼の疑問は同じ大きさの不安であり、波のように絶えることなく次々と彼を襲う。

長い間、じっとバス停を見ていたのだ。よくわからなくなって。

少なくとも、善魔たちの言う楽しい世界は幻だと知りつつ。

 


島原まで  7(最終回)

2017年08月03日 | 日常

夕方、宿を決めて車を置き再び街を散歩した。8月から有料になる武家屋敷が数件あった。やはり武士の家だけあってそこらの商売人の家とは違った。

本物はもっと量が多く上品な甘さだ かんざらし

さすが武家は質素である。過度に上等な木材を使うことなく、調度品にも奢侈なところがない。お城に近いところを見学したので、かなり高級武士だったろう。奥行きは1間ほどの狭い庭だが、当時、きちんと手入れされていただろう。堅実、質素、堅忍、…武士の素養を高めようと厳格な家訓のもとに生活しただろう。

商売人の家はなかなか贅沢な作りで、奇をてらい贅を誇示する成り上がりの下品さに感動した。

現代に通じる。商人の屋敷に嬌声をあげる人、武家屋敷に清貧の美しさを見る人。武家屋敷からは、武士の品位が読み取れた。特別に見学させてもらったからこそ、食レポみたいにウソで褒めちぎることは、してはならぬ。

こう書くと商売人を卑下しているようだが、その通り。銭儲けをしても自律した清貧の財閥は今も残っている。どこに五代がいるか、鮎川は風前の灯火だ。

ところが世の中にはもっと下等な生物がいる。島原の町に残る小道、路地は、すべからく飲み屋に変身していた。しかも寂れたアーケードに付随して夜銭を稼いでいた。

汚いプラスチックの看板。それを酔っ払いが割ってそのまま。恋の泳ぐ街にアルコールと嘔吐物のにおいはそぐわない。

旅館への帰り道、島校生に会った。清楚な顔立ちの利発な生徒だ。ほんの10年前でもこんな生徒はクラスに5,6人はいた。今は見つけてほっとする程度だ。

日本はバカになっている。現代文や小論文の課題が不真面目になってきている。点差はつくが優れた人間が選ばれているとは限らない問題だ。いつか機会があれば書きたい。僕は問題を造りながら、こりゃ無理だな解けないなと思うことが多くなってきた。

再度、日本はバカになっている。ネトウヨは韓国の心配より自分の心配をしろ。

島原城 横に島原高校、島原商業 両者優れた高校だ

 

 

 

 


島原まで  6

2017年08月02日 | 日常

「かんざらし」 価格と商品とのバランスが必要だ。だったら食うなという傲慢さと勉強不熱心さが、街の衰退の原因だ。絶品と言える「具雑煮」の店も閉じていた。

僕は、すでに消えたものを求めたのかな。

 

アメリカ芙蓉というのか。

しかし、過ぎたるは及ばざるのであって、大きさにも限度がある。2,30年前セイタカアワダチソウがあちこちに生えだした。アメリカシロヒトリなども同じ部類の考え方ができる。

在来種を駆逐するやもしれぬと大騒ぎをし、刈り取る、焼却する、すだれに加工する、というB29の爆撃に対するバケツリレーが推奨された。今、人力の及ばぬところで自然は均衡した。

外来のものには違和感がある。日本人固有の感情か。いや人類誰でも感じる。

カナダエスキモーは隣村をひどく嫌う。ニューギニア高地人は殺し合いをする。アマゾンに点在する原始人たちは人殺しをして頭蓋骨を飾りそれが男の勲章になっている。

鯉は、遺伝子工学まで動員し異なるものを欲しがるが、ここの商店街も死んでいた。

 

そう考えると日本人はましなほうだ。なぜヒアリに大騒ぎするのか。毒か、在来種が駆逐されるからか。毒ならスズメバチは数百倍強い。そもそも在来種なんてない。人類が日本で発生したなら我々自身は固有種だ。残念ながら異なるものを嫌がる我々こそが外来種だ。

しかし、注意してほしい。だから危険生物を侵入させてよいというものではない。ヒアリ、韓国人、中国人、イラン人。現に犯罪を犯すものは駆逐すべきだ。

警察は外国人犯罪率の発表をしなくなった。労働力として利用したい資本の圧力だ。

今刑務所に来る手紙の半分は外国語だ。入れ墨おじさんが突然アラビア語の学習に目覚めたか。

官僚なら真顔でこういう。

「その可能性は否定できない。」