か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

島原まで  5

2017年08月01日 | 日常

店内にサボテンがある。熱帯島原は、気絶するほど暑かった。

フロンだ,CO2だとうるさいが、ここまで暑いともう原因などどうでもよくなる。しかもでかい車は走行のエネルギーの5%程度で冷やしているから、暑さを実感することはない。ところがFIATはブレーキを踏みながら走っているようでもやもやする。

娘はスカートを広げ、冷気の吹き出し口を独り占めしている。僕一人なら窓を開ければ済むのだが、それをやったら駄々っ子は即JRで帰る。

島原は、その昔、ある高校から僕に対し求人を受けたところだ。その頃は、県教育委員会に人事権があるとはいえ、まだ有力校の校長は陰に陽に人事採用権を持っていた。とくに、ど田舎長崎情実採用県では。

僕は寡聞にして島原高校がいかに優れた高校であるかを知らなかった。今でもその片鱗はある。

本校は島原半島の「とうだい」と言われております。と教頭が言った。あまり教員になりたくなかったのでお断りしたが、「とうだい」と言われて灯台と思ったが若かったので聞き返すこともできず「ああ、はい」とごまかした。心の中ではなんで俺が島原半島を照らさにゃならんのかと思いつつ。

お分かりのように、灯台ではなく東大だった。もったいないことをした。おかげで僕は息のくさいバカ役人の下っ端どもと、その後の人生を無駄にした。

歴史にIFはないというのは勉強が不得意な人だ。IFを探して歴史の分かれ道を探ることこそ歴史学の使命だ。翻って人生についてはどうだろう。やはりIFは重要だ。人は過去の変曲点を探し未来の判断材料にするしかない。

日本語が不得意な人は字が続くと読まないのでここらで画像。

街なかに湧水を集めた筧があり鯉がいた。なぜ誰も盗らないかと中国人はきくそうだ。右のブロックにギターを弾く青年がいたのでストリートミュージシャンかと思ったら、ただギターの練習をする中学生だった。そうか。観客がいない。

人生にはいくらでもIFがあり後悔の種にしかならない。それは当たり前だ。誰が常に最善の選択をなし得よう。

でも、こう考えたらどうかな。だからなんだ、と。振り返れば失敗ばかりを思い起こす。それがなんだ。それを糧に次はよりよい選択ができる。

それでも失敗したら、その次がある。さわやかな島校生を見ていた。娘がすねたので雑貨店に入った。

レストランは昭和だった。宿は江戸だった。店員さんがなぜか駐車料をまけてくれた。ディーンからけんなので仕方ない。


島原まで  4

2017年07月30日 | 日常

シチリア島原についた

 

料金表を見てくれよ。これを馬鹿らしいと言わないことがノブレスオブリージュなんだ。僕はばからしい。以前のクルマは約5メートル。長さは1.5倍なのに料金は3倍した。累進課税を教えてもらった。半額以下になって、なんか助かった気がするが、軽トラが3000円とか4000円の税金とはどうも納得がいかないが。お百姓さんは大変だからか。勤め人も大変だったけど。なぜ15倍の税を取り3倍のフェリー料金を取り2倍の高速代を取るか。FIATは貧乏人の部類だ。素直に喜ぼ。

顔を出さないからということで、この姿で妥協して写真に納まった。自爆テロ犯だ。内縁の娘かも。

choke(チョックストン) 木製だが。昔、ピンチヒッターで時々8トンを動かしていたころを思い出した。

ラウンジは自由に使え冷凍室みたいに冷えていた。250円というのがとてもかわいい。僕とテロ犯はロゴ入りの水にした。白川水源の水だ。地震ごときでびくともしない。数百年のタイムラグを経てこんこんと湧き出している。島原もそうだ。

中央上部左にトンボが写っている。昆虫学者が言う昆虫の飛翔能力は間違っている。東シナ海の真ん中で何度もトンボや蝶にあった。ちゃっかり僕の船で休憩していった。

 

 

 


島原まで  3

2017年07月29日 | 日常

もう少し焼けてきたら、僕の太ももほどの腕をしたおばちゃんが来て高専ダゴをひっくり返す。

魚粉と青のりをこれでもかと振りかける

力を入れて切り取るが

食っても食ってもなかなか減らない。控えめに見て30センチ✖50センチのお好み焼きだ。が、残したら損だと思い全部食った。人間だれでも金が絡むとギャル曽根になれる。

それから長洲港までは15分ぐらい

フェリー乗り場に一番についた。というのは錯覚で、船が出たあと一番についたのだ。3隻でピストンしているので30分ぐらい待つことになった。

くまモンも充実している

あまりうれしくない先頭だ

船の内部はなかなか豪華でJR九州のローカル線か廃止前の田舎バスのようだ

写真の上部にあるカーブした乗り込み口から乗った。よく見ると船が見える。FIATだからシチリア島にわたる気分がした。いや、曇りで35℃で湿度はたぶん70%。これは間違いなく日本だ。(つづく)

 

 

 


島原まで  2

2017年07月28日 | 日常

この頃の回るすしは回らない。新幹線やランボルギーニに乗ってさっと出てくる。佐賀県などは皿が回っていると一旦テーブルに置き、やっぱりやめたとレーンに戻しても何が悪いかわからない人ばかりだ。

不潔で決断力がないからいつまでも寿司がレーンを動き食欲が落ちる。かつ希望の品が手元に来るまで時間がかかり他人が獲ったりしている。もちろんそれも何が悪いかわからないでいるのは例の県の人だ。

若者並みの食い方だ

僕みたいに教養のある人は何かにせかされるように目的地に突進したりしない。久留米南部には無駄な公共事業の典型として立派な公園がある。自民党は波及効果をどう言い訳するんだろう。バカ。そんなものない。

しかし、ここの公園の展望台だけは公共事業の成果だ。登ったらいいエロ本が落ちていた。隠していると内縁の娘が見つけ、「あたしにも見せて」と言って取り上げると池に捨てた。

これで僕の今年後半の楽しみはなくなった。

 

気を取り直して大牟田で降りて高専ダゴを食った。学生3人分がスペシャルなのだが、僕ら,つまり爺と子供はそれを平らげた。

 

他のブログに書いたが、大牟田の最高の食事は港倶楽部である。反論の余地はない。もう一つ山之上倶楽部もあった。空襲で灰燼に帰したが、ここだけでも残り良かった、と思うのはアホな日本人で、進駐軍は自分達が使うためあえてここを残したのだ。

口にモノをためてしゃべる人にはここの違いはわからない。著名な額にたばこの息を吹きかける人、ほろ酔い加減で軽トラで来る人 ケバイ花嫁衣装を着る人,自分だけがいるつもりで叫ぶ人、庭の松がいかに価値あるかわからない人、額が読めない人、三井と政府と朝鮮中国情勢が分からない人は来てほしくないが、これが雲霞のごとく来る。

行くなら今のうちだ。 

 

旅は続く。

 

 

 

 


島原まで

2017年07月27日 | 日常

こんなもんで力がつくはずはない。しかもウナギの量が少ない。以前は大量にウナギが獲れた。そこらへんの小川に仕掛けをしておいて、学校帰りにその仕掛けを見るとたいてい一匹はかかっていた。

仕掛けは単純で缶詰のあき缶に糸を巻き付け、缶をさかさまにして浮かべる。糸の先には特定のミミズがついている。このミミズが問題で、〇〇君のうちの風呂の横を掘った時に出るミミズがいいとか、みんなそれぞれに情報を持っていた。

株の情報と似ていて各個人の情報網は明かさないのが流儀だった。

5,6個浮かべた缶の位置が、学校の帰りに動いてているとウナギがかかっているということだ。アナゴでもよかったが、ウナギは食うためにつっているのではない。料亭に売るのだ。小学生にしては大金の200円を得ることもあった。

カネにルーズな子の親は大抵貧乏で子供の勉強すら見てやる時間も能力もない親だった。そんな子と遊べば労せずして金を得ることができた。笑顔で脅せば金を出した。暴力の必要はない。仲間はずれは子供にとっては死刑だ。

僕たちはそんな不労所得よりも頭脳の限りを尽くした魚類との知恵比べが面白かった。

 

今、マリアナ海溝まで回遊するシラスウナギを閉じ込め、養殖が盛んだ。これは自然に反している。こんなバカなことすら分からない痴呆が川でシラスを根こそぎ取り上げていた。シラスをとれば天然はいなくなるだろ。当たり前だ。シラスをとってウナギにして食う。一方通行の略奪漁業は、やがて資源の枯渇を生む。

今や国連のred dataに載るウナギを一網打尽にする根拠が土用の日だ。

ウナギはマリアナ海溝に返せよ。

 

自分さえ儲かればいいと夢見てばくち漁業をする。そのばくちに勝者はいない。

そんなことするよりオスプレイが来るので膨大な漁業補償金が落ちるぞ。漁民は魚なんてとるな。補償金をとれ。船も網もいらんだろ。口だけ民進党と一緒に自然保護を叫べばいい。

 

この申し訳程度にウナギが乗った悲しい蒸籠(せいろ)蒸しを食った後、僕は、九州旅行に出発した。酢酸ビニルの効いたタレは最高だ。その後は次回。

 

 


君は川柳を汲め、我は車の運転をせん がんばれFIAT 

2017年07月04日 | 日常

勢いよく流れる小川を見て豊かな気持ちになるのは農耕民のDNAが騒ぐからだろう。

農業をやめ流れ者として都市に住み着いた人間はどこか奇形で利己的だ。本質的に社会的に有用な労働をする機会を失ったものほど、わずかの現金にしがみつき非生産的な反社会的な公務員的な労働をしても恥を知ることはない。

地方創生という地方破壊によって今や町ごと不健全な地方が誕生してきた。このブログでは、今まで一つのトリックとして佐賀県に登場してもらっていたが、もちろん不良世界のパロディだった。

最近はもとよりあった泥棒が勢いを増している。当たり前だ。工藤会をなくせば町のチンピラは勢いづく。そこの中坊は、先生から頭を撫でられると不登校を決め込み市から1500万円取った。体罰で頭が痛くなったそうだ。

女は売春、男はアタリヤ。みんながナンバーを見て用心する。

 

高貴で清潔で教養のある僕は下賤の民とは接しない。

「あもうずのみず」は小川の横にあり、人とすれ違うだけで指が折れたと言って何百万も掠め取る鬼畜は来ないところだ。

とくにこの国の政府はいくら庶民がチンピラに追い詰められて死のうと関心はない。警察はせいぜいよくて何もしない。

爺どもがどこの水がうまいとかいうのを聞くのが嫌だった。H2Oはどこでも同じはずだ。ところが飲んでみるとここのはうまい。コーヒーにするとその差は歴然だ。

もっとおいしい水がある。日田の天領水。家の水を水道に変えたので、わざわざ汲みに行き水運びの重労働をすることになった。

FIATは水の重さにあえぎ何やら怪しい警告ライトが付いた。この程度で根を上げるなんて、そんな車を作る方が悪い。そのまま走ったら警告音が鳴った。台風が来ていたので車を止めるとすぐ冷えた。以後快調。

 

 

 


友泉亭  泉を友と結ぶ庵は

2017年03月01日 | 日常

ほとんど気まぐれに友泉亭公園に行った。

筑前国藩主、黒田の別邸として宝暦4年(1754)に完成した。如水は茶室の横に織部式灯篭を置いている。ほとんど目立たないので探してみるのも楽しいと思う。この織部灯篭は隠れキリシタンのささやかな抵抗のよりどころでもあった。灯篭の土台が良く見ると十字架やアルファベットになったいるものもある。

僕は意味もなくそんな危険は冒さない。ばれたら死罪だろう。遠藤周作さんの「沈黙」の世界だ。

当時の1/10の規模だそうだ。福岡市は個人の所有となっていたものを買い戻して公園として整備した。盗られた仏像をカネを払って買い戻すようなもんだ。周囲は高いマンションが囲み泉の水量も少なくなっている。行政は昔から歴史遺構の保存には全く無能だ。

だが福岡市およびその他の大都市に住む65歳以上の人は無料だし、広間や如水庵は落ち着く。

さすが武士が住んだ建物だ。虚飾を排し書を読む小部屋がいくつもあった。だが見えないところにこっそり彫刻を残している。

内縁の娘にそれを説明していたら、「でもプラスチックじゃん。」と言いやがった。250年ももつプラがあったら革命だ。

今やロストテクノロジーとなった漆塗りであり、床の間は顔が映るほどの塗と磨きだ。1/10でも残ったのを喜んでおこう。

 

池の鯉と遊んでいたら韓国語が聞こえた。韓国語は音量が大きい。日本に来たら学習すべきだ。ただそこらの馬鹿女たちとは違う、気が利いた顔をしていた。これは話が通じるぞと思い政治的な話を振ると意外とノリがいい。

梨花女子大、さすがだ。僕が出た学校の隣なので懐かしく、いつの間にか僕も音量が大きくなっていた。だが、打てば響く人間と話すのは本当に気持ちがいい。西南大は遊びの馬鹿話にしか乗らないし、福大は話の意味を理解しないし、それ以下は日本語が通じない。

こんなマイナーな公園に来るんだからそれなりの教養があり学力も高いはずだ。もちろん、だからと言って僕の韓国に対する絶望的認識は微動だにしないが、日本人もバカの部類になると優れたものも理解できないのが多い。

ま、よくも悪しくも自業自得だ。

「この手すりは何の意味があるのだろう。」「どうして茶室は別棟なのか。」「大名はどれくらいの頻度で来たのか。」「いや、住んでいたはずだ。」…恐ろしくポイントをついた会話をしつつ梨花女子大は去っていった。

うちの娘は小さな板を指でこすっていた。

 

 

 

 


三社参りという狂想曲 2

2017年01月09日 | 日常

 

ひょこり大きな建物が立っているので何かの倉庫かと思った。なんと大学だそうだ。さぞや学生はアホだろうと思ったら、豈図らんやみんな優秀だ。

さすが大学で、腐っても鯛なわけだ。だが、なんちゃって高校になるとそうはいかない。土地の安い地方、限界を超えた破壊集落に勉強のない学校がある。全寮制スポーツで人気取りをしている。親もよくその方針に賛同する。勉強をしたことがなく教養に敬意を払わない。

できてまだ日も浅いアホ高校のくせに、こんな学校にかぎって「先輩たちが築いた歴史と伝統に…」とのたまう。福岡県立高校の最高峰、修猷館ではこんな訓示は決してない。200年の歴史があるが。

しかもアホ校の歴史とは勉強しなかった歴史であり、伝統とは運動におぼれ馬鹿であり続けた伝統である。

学校としての本質がないくせ、学校を騙(かた)るのは犯罪である。

 

往々にして、本物は語らないものだ。

 

綾部神社はひっそりとある。たまに。参道のぼた餅が売れる。バス停の切符売りのように狭い売店で、神主がお札を売っていた。巫女がいないのには落胆したが、澄んだ空気が正月を上手に演出した。

宝暦の狛犬。いいものを持っていた。

こんな済んだ小川があるのか。絶滅危惧種のメダカがいた。殺しておいて助けようというのは人類のエゴだ。が、目の前の小魚を見るとどうしても生き延びてほしいと願う。

境内には保存樹木が多い。風が吹くとぼたぼた銀杏が落ちてきた。

屋久島では98%を伐採しながら今更のように縄文杉だ、水の島、自然に帰ろうとは図々しい。狂った人が言うことだ。なぜナウル島のような乱獲を行政は放置したのか。馬鹿が多いなあ。

 

 

 

 


三社参りという狂想曲

2017年01月07日 | 日常

 

一社参らせたのでは金にならない。江戸時代の商売人は計算高い。三社だ。お賽銭も三回取れ。この方式で 伝統行事と称しつつ、つい最近始まった住民の大移動は商魂の犠牲になった哀れな低能が渋滞にあがく姿だ。

ほかにやすみがとれないじゃないか。これがまともな言い訳になる日本社会はおかしい。年に1,2回しか子や孫に会えないなんて異常だ。そうまでして金を稼ぐ精神は病んでいる。

人殺しをしておいて、10時には退勤するようにしましたと電通は言う。それ十分遅くねえかい。また殺される。三流四流学生は今がチャンスと押しかけている。殺人企業にすら通らないのがいるのは哀れだ。殺す価値もないわけだ。「男子力がない」わけだな。

大宰府は渋滞だし、凶がないおみくじは面白くない。僕は、大宰府の喧騒が聞こえてくるところに住んでいるが行かない。

 

「当所神社の歴史」をもらった。破魔矢だとか、おみくじだとか、お札、お守り。この類は一か所で作っているので当たろうと当たるまいと気分的なものだ。そんなものはどうでもいい。神社ごとに必ず神社のいわれとか暦をくれる。たいてい無料。この文章は、とくに当所神社の場合は、教養のある人が書いたものだ。田舎者を馬鹿にしてはならない。田舎は悪質なチンピラが多い。そういうのは思いっきり馬鹿にしてよいし最近は中国人ががんの転移のようにどんな辺鄙なところにもいる。いたるところに唾を吐きごみはきちんと出さずコスモスから万引きする。

引用

当所神社の歴史

当所神社の在する地域は、今から1700年前「弥生時代」から人々が集落を形成し、果てしなく遠い時の流れの中で、営々と生活をしながら現在に至った次第であります。古文書の記録によりますと、教法年間「徳川吉宗」の時代黒田長政公の名を受け栗田村より分村したのが藩政上の村としての始まりとされ、同時期に日光東照宮の御成館の祈りであり、その東照という呼び方をいただき当所と名付けられたのが地名の由来であります。・・・

 

書きなれた人の文章だった。

おまけにくじを引いたら銀杏が当たった。

ここは大己貫(おおなむち)神社、大国主命を祭る。次回ぼた餅で有名な綾部神社について書く。

 

 

 

 

 


ぶどう

2016年09月15日 | 日常

ぶどうをもらった。タネなしもあった。世の中にこれほどおいしい果物があるかと思うぐらい、おいしく頂いた。

僕にそのぶどうをくれた女性は、僕の気を引こうとしてとくに上等のぶどうをくれたようだ。

痛ましくもあり切ない努力であるが、僕はそういう目でその人を見たことはない。たぶん、今後も無い。

ぶどうだけ頂いて彼女の心を頂かないのは失礼な気がする。その気がないならぶどうをもらったりするな、という声が聞こえる。

今の時代、そんな神のような、あるいは山口判事のような人間がどこにいる。彼女の顔をつぶして悪かったが、僕が彼女をお持ち帰りしなかっただけでも、僕は上等な人間に属することが出来るというものだ。

いやー、じつにモテる男はモテない男よりつらい。しかし、あまんじて甘受すべき苦しみでもある。

僕ほどの広い教養、巧みな話術、ポイントで話を盛り上げるが笑いをちりばめ聞き手が飽きることは決してない。そして、もっとも重要な点だが、彼女が自らの知識と教養が高まった実感を持ち、さらに少しでも自分の知識と教養を高める努力をすべきだと自覚することだ。

ぶどう2房では安いものだ。

 

家で内縁の娘にこの話をすると、そのぶどうの2/3を食べていた。

娘は、女の敵はあたしが征伐するといった。つづけて、僕の首を絞めた。

 

 

 

 

 

 

 

 


杉玉

2016年02月12日 | 日常

 

杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。      >Wiki

杉の穂であるから、最初は青々としている。枯れ始めて褐色になる。そのなり具合で酒の熟成を判断する。昔の人はうまいこと考えたもんだ。上の写真の杉玉はもう少しだな。

人間と同じく、若く青い酒は、ぴりぴり来る。だが熟成したのは、飲んでも香りが舌ににのこり口腔と鼻腔を静かになでてそのまま脳を酔わせる。そんな芸当は青いのには無理だ。

佐賀県鹿島市。いくつもの造り酒屋が並んでいる。溝には、

溝に魚か、何だ、つまらない、と若い頃は思う。年を取れば誰でも溝に鯉が泳ぐことが、中国人の食用でないことに気がつく。佐賀県でありながら何とすばらしい町だろう。

この道を通って鹿島高校に通学したら、僕ももっと穏やかな人間になったに違いない。

ここからが重要だ。年を取れば誰でも持つかもしれない感受性だが、だからこそ一刻も早く教育をすべきだ。時を逃すと人は下品なままだ。たしかに、人の教養というものは別に必須のものではない。問題は価値あるものの峻別力と吸収能力である。それがあれば、教養はおのずと着く。

子供は親の興味を示すものに興味を示す。親が見るものを見る。重力波について一緒に考えてくれる親は尊敬を受ける。

無教養はよくこう言う。

人に迷惑をかけない。

そんなことが重要か?アホ。人として必要のないことだ。人に迷惑をかけないで生きることはできない。そんなことで子供の能力の発揚を抑えてはいけない。そんなことを言う親はきまって教養がなく勉強が出来なく自分という馬鹿をコピーした子を作る。

人に迷惑をかけない?サルでも分かることをわざわざ言うな。

この写真にあるようなちゃんとした家に住め。造り酒屋の裏。貧乏で無教養ほど家にガラクタが多い。

ふすまの雀が秀逸だ。修復(家全体)に一億かかったそうだ。350年経つ。一億は誰かの寄付。金はこう使え。腐れたミニチュアモーテルみたいな家を建てるな。

松田わこちゃんが、朝日歌壇に選ばれていた。中1。ぐんぐん上達する。「初笑い」の後の場面展開に才能を感じる。切れがいい。「雪」で止めるなんて。

 

オペレッタ「こうもり」を観て初笑い明日から本格的に雪

 

 

 

 


人の目に怯える貧乏人の正月

2016年01月02日 | 日常

なんかこのタイトルは助詞がおかしい。

外人と話すときなど一般に、男性は、言語をすばやく切り替えるのが下手だ。あたかも、スイッチを切り替える様にすばやく出来る人はまれだ。院で議論になるとメンバーによっては、3ヶ国語、4ヶ国語が飛び交う。女性は言葉の切り替えが皆速い。僕はいつもとり残された。

5秒ごとに、日、韓、英、・・・と切り替えていく。優れた人は、今自分が何語で話しているか、何語の本を読んでいるのか忘れるほどだ。

田舎の温泉に行くと女湯はかしましい。だが、男はを待つ牛の様におとなしい。これはジェンダーじゃないぞ。僕はある県で通訳認定の仕事をしたが、圧倒的に合格者は女性で男は5%程度だった。

語学にはおしゃべりが有利だ。

負けるのが嫌いな僕は、もっとも僕がしたくない努力と言うものをして、何とかさまになるレベルに到達した。だが一日でも勉強しないと実力はすぐ落ち、取り戻すのに1週間かかる。

そこで、年賀状とか新年の挨拶とかお歳暮とかお年始とか・・・とにかく旧来の虚礼、陋習の類を一切止めることにした。

馬鹿から来るのはそのまま頂く。とくにボンレスハムの場合はおいしく頂く。困るのはかつての上司から来る場合だ。勘違いした上司を持つと後の処理に困る。お歳暮ごときで。

あるいは学問的に尊敬している人から年賀状が来ると正月三ヶ日はずっとすっきりしない。この人には年賀状出したっけ、と。

どこかで区切りをつけようと思い、今年からすべてを遮断した。

注連縄飾りだけは、ドアの構造上無理なのでリースを編んだ。これは相手がいないから心の負担ではない。

頂き物が勉強の邪魔とは言わない。神経がそちらに向くのがいやだ。ちょうど女房の実家に行ったときの気分だ。だれとも話が合わない。当たり前だ。お互いまったく違う人生を歩んできたんだから。

アカの他人を”お父さん”とか呼ばせ、僕はムズムズしてきて腸内にギョウチュウがいる気分になる。

とにかく、Do not shake a boat。

 

それより、内縁の娘と小さな人気(ひとけ)のない神社に行くのは楽しい。なぜもっと早く低俗と縁を切らなかったのだろう。

狛犬と並んで鳩みたいなのがいた。優しい顔を見て僕も変わろうと思った、無理か。

写真下。むやみでないいたずらとは?、と屁理屈を言っちゃあいかんかな。

この蔵は西南戦争で被害を受けたものである。だが、被害が少なかったものをここに移築した。戦いによっておよそ一帯の建造物は消滅した。30万発/日、100万発/week。西南戦争は近代戦である。

2時間もいたのにだれも来ない。安政4年に出来た。夕方いくと碑文が読みやすい。後10年して明治維新、さらに10年して西南戦争。久恵八幡宮。

ハリスが来た頃だ。あと10年で幕府がつぶれるとは誰が考えただろう。それからさらに10年で九州が半数に分かれ殺しあうとは。

石灯籠に安政4年が見える。

 

 


Christmas、子供の昇進、ケーキ、Bouquet

2015年12月25日 | 日常

Bouquetと言っても平凡なのは止めて、ペコちゃんの似顔絵にした。かみねんどでトトロ一族も作った。小さく丸いコーヒーカップに薄くかみねんどを貼り付けプラカラーとニスで塗装した。

ペコちゃんは色鉛筆で書き、きり抜いてお菓子の箱の内側に貼り付けた。ペコちゃんを少し浮かせて立体感を持たせ箱の上からサランラップをまいた。

子供が小学校の頃から使っていた色鉛筆なので、ないイロが多く苦労した。

その子供もNTTの偉い人になった。僕の考えとしては、そういう課長だ部長だというような他人が作った権威に束縛されてはならぬと言うスタンスを通してきた。

しかし人間はそう簡単には出来ていない。僕自身の親は戦地にも行き、ながらく公務員的なものをしたので凄まじく高額の年金をもらっている。僕の月給が彼の年金をこえたことはない。

そうするとなんか心にもやもやが生じる。地位は人生と無関係だ、といくら叫ぼうとモヤモヤは残る。

だけど信念を曲げることもできない僕は、今度は子供との関係で同じことに悩むことになる。

夜を徹して僕は、会社人間は利用されるだけの奴隷だと主張し、子供は他に自己実現の場所がないといった。それはどこにでもある、頭が悪いからそれが見えないだけだと僕が言う。子供は、現実の自分を見よ。現に貧乏じゃないか、頭の悪さを示すものだ、と反論した。

たいていこの堂々巡りは朝まで続き、僕は議論には勝ったが体力が続かなかった。

 

ところがその子どもが2段階飛び越えて偉くなった。僕はなんともないはずだ。今までの生き方からしたら昇進なんてもっとも詰まらんもののはずだ。

でもこれがそう単純ではない。やはり体が喜んでしまう。面倒くさいなあ、もう一個作るケーキが増えた、と喜ぶ。

親ってなんて馬鹿なんだろう。しかし、どんなに強がっても、これより、

これがいいもんなあ。

 

 

今日は施設に行ってバイオリンを弾いた。入所者の痴呆たちは何があっているか分からないでいた。まあ、看護婦さんたちがうっとりしてくれたからよしとしよう。

僕はただの貧乏だが、もしも会社人間になっていたらこの看護婦達をうっとりさせることは出来なかったはずだ。採算の合う人生ではなかったが、誇りある貧乏を楽しむことが出来た。

おまいらはロレックスを持っている。だが時間は僕が持っている。

内縁の娘は機嫌が悪い。僕が楽しそうにバイオリンを弾きに出かけたそうだ。そしてもっと楽しそうにして帰ってきたそうだ。スケベは顔に出る。

 


料理なんかしてないだろ

2015年12月07日 | 日常

 

ガスレンジのゴトクについて。

ガス工場を見学したら、おまけに家庭用ガス調理機器の展示をしていた。最近のゴトクはメッキをしてある。しかも哀しく細い。

九電は何でも電気にして200V常用に誘導しようとした。僕はライフラインを一本にするには危険性が大きいと思いオール電化には消極的だ。

何よりもフライパンを振れないことは致命的だ。フライパンを振ることによる「返し」は、できますとか電気会社の回し者は言うが、炎にフライパンが隠れるほどの強い火でカラッと炒めた中華料理はママゴト料理を引き離している。

香港に行けよ。ロケットを逆さにしたような炎の噴射の中でこそ、野菜は水分が逃げる前に炒められるのだ。テフロンだなんだはうまくない。油のしみこんだ鉄なべに勝るものはない。

ぐちゃぐちゃにゅるにゅるべちょべちょIHは要らない。旨くないといっているのではない。火力が弱いともいわない。吐きそうだといっているだけだ。

しかし、それで誰も文句を言わない時代になったんだな。たしかに3,4人分を作るのならそんなに大きなガスレンジは要らない。下の写真はParomaだ。細かい改良点はあるが形は30年前と同じだ。比較的大きいゴトクをしていた。5,6人分作るときは、願わくはプレスしたゴトクよりダイキャストのゴトクがほしい。

対面キッチンでテレビでも見ながら大声でしゃべり、つばを飛ばしながら安く買ったしなびた野菜を入れる。ああ、何という貧困だろう。

どこの会社の製品も、レンジは一日何時間も火がついていることを予定してない。新婚はコンビ二弁当をチンするだけだろ。

5人分のカレーが入ったなべは女性には重たい。ままごとゴトクでは不安定だ。プレスや打ち抜きあるいは曲げ加工ではなべがすべる。そこで、

 

 

これを上からかぶせゴトクの面が広い平面になるようにした。Rinnaiは専用のアタッチメントがあるようだ。僕は細かい比較には興味ない。とにかくこの平面ゴトクはなべを抱えず横にずらすことが出来、きわめて便利だ。車椅子の人にも絶対よい。

車椅子に座りながら手を高く上げた状態からさらになべを持ち隣のゴトクに移動するのは健常者でも困難だ。

 

消費者が本質を求めないから奇形レンジができる。ふにゃふにゃゴトクがどれほど危険か。底面積(なべとの接触面積)の小さいゴトクで事故が増える。