失敗したのは、私にかぎの束を渡されたのを戸棚の中に置いて帰ると、そのカギで、納戸のタンスの中から好いものを出して、分けたらしい。夫でも形見分けの時には、名古屋の伯母さんが、三四枚ずつ重ねて分けていたから、ずいぶんたくさんの衣装持ちだったらしい。うちの分は疎開した荷物があったのを、あれは孔敏さんにと伯母さんが言っていたので、好いものだけ残った。ついに伯母さんが亡くなって、お通夜もお葬式も済み、初七日の時、てんぷらをして、皆も集まり、ご法事の後、お膳を出した時、付けで醤油が欲しいと坊さんに言われて困った。甥の戸棚に一升瓶の醬油があることはわかっていたが、母が黙っているので、出してくれとも言えず、無しで済ませた。どうせ、この家のものとは思っていたけれど、そんな中、甥も出ることになって、荷造りが大変であった。
家政婦も暇を出した。遠い親類からは、あの皿が欲しい、何が欲しいと言って来たので、その度にやっていたけれど、その代わり、以後、親類づきあいはせぬとの条件付きだった。それで私たちが本家に住み、前の家には、焼け出された母や、田辺さんが住むことになった。
孔敏は千葉の大学校に勤めていたが、校長さんのお仲人で、校長さんの姪と結婚することになり、日本園で式を挙げた。山本大将とその他近親が集まり、ささやかな結婚式だった。何しろ、モノの無いご時世とはいえ、中華料理がおいしかった。まもなく終戦となる。
台湾から水谷一家が帰ってくることになり、私たちと一緒に暮らした。渉(水谷家長男)はなかなかおませで、皆の前で酔って歌う真似をし、お盆を持って踊った。宏(水谷家次男)はまだ可愛らしい赤ちゃんで、一緒にお湯に入ったりすると、どこでも構わず吸い付くので、困った。何しろ、お米の配給のない頃なので、たまに土浦から持ってきてくれたけど、お芋だのキュウリだのを食べていた時なので、水谷さんも、お芋にバターを塗って甘い、甘いと言って食べていた。そのうち水谷一家は、お婆さんの家の方へ越していった。
ある日、兄が病気だと言ってきたので、祖母さんとしづ枝さんが行ったきりなので、私が行ってみたら、今度はしづ枝さんが病気とのことで、入院することになり、担架に乗せて病院まで運ぶのだが、布団まで乗せたので、重くて、私など二足、三足と歩くと、手の力が抜けて、持てなくなった。しづ枝さんのお母さんと娘さんで運んで行った。やっと病院に着いたら、毛布を忘れたというので、私が取りに帰ることになり、帰って、夕飯のすいとんを作って、二人に食べさせ、病院に二人分を持って行ったら、しづ枝さんのお母さんはこんなドロドロしたものは食べられないと言うので、しづ枝さんだけに食べさせて帰ろうとしたら、電車はもう終電が出た後であった。歩いて帰ろうとしたが、鼻緒が切れてしまった。仕方がないので、病院へ戻り、その晩は語り明かして早朝帰宅した。母は変わりなく、よく眠っていたので、ひとまず安心した。物がない時なので、病院の方は自分で食事をするようにしてきた。そのうち、しづ枝さんは治って、退院することになったので、私が行って支払いを済ませ、掃除もして、横浜へ帰るというので、駅まで見送った。以前から、しづ枝さんは離縁を申し出ていた。家へ帰ってみたら、寿子がどうやらやっているので、また取って帰ったところ伝染病を出したということで足止めされ、帰れなくなってしまったので、母の看病をし、食事の用意やら、洗濯をして暮らした。
そのうち母も起きられるようになったので、吉川がリヤカーを借りてきて、布団と母を乗せ、兄と私が付き添って、帰途に就いたのは、五月初旬のさわやかな日だった。敏一(吉川家孔敏の長男)が生まれたのは、九月十五日ごろ、お祭りの太鼓が鳴っていた。お里から安子(孔敏の嫁)がおんぶして帰って来た。それからすくすくと成長し、孔敏が岐阜大学に転勤することになり、三人で出立していった。あとは貸すことにして私たちは、元の家に越すことになった。田辺さんは引っ越してもらった。
寿子は女学校を卒業して、大妻専門学校に入ったが、戦後のことでもあり、割烹学といっても、材料がないので、家にあるジャガイモを持っていくような始末で、あまり充実した授業は受けられなかったと思う。そのころ私の目の具合が悪くなった。第一病院で見て頂いたところ、白内障だから、手術をしなければならないということなので、入院した。手術してからなにしろ戦後なので、スイカやオサツばかり三度三度出るので、皆をさそって、戸山が原まで散歩し、あかざを摘んできて湯出、胡麻和えにして皆に配った。退院の日は、家からお赤飯のおにぎりを届けてくれたので、看護婦さんらにふるまい、喜ばれた。先生方には、差し上げられなかったことが今でも残念に思う。
寿子が大妻を卒業し、労働省へ勤めるうち、縁あって、安藤と結ばれ、結婚することになった。昭和三十二年五月だった。職場の上司の近藤氏が仲人で、式を挙げ、東北へ新婚旅行に行った。
一時、下落合に家を持ったが、大阪へ転勤となり、赴任した。ある時、敏一が肺炎になったという電報が来たので、取るものも取りあい、岐阜へ駆けつけたところ、大したこともなく、二三日で、快方へ向かったので、来たついでに知人宅を訪問した。ご主人は下呂駅の駅長をしていて、たいそう喜んでくれた。みかえ(吉川孔敏の長女)の生まれた年で、三月の末頃だった。下呂駅の近くに、桜の咲き続いた景色の良いところがあった。翌日、孔敏が、長良川を見に連れて行ってくれた。岐阜時代は、一番財政上困っていた時であったと後で聞いた。(次回へ続きます)
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