聞き慣れない駅名であるが、既に駅はなくなっている。南武線の宿河原駅と久地駅の中間にあった駅である。元々南武線は個人が出資して運営した私鉄であったが、国鉄が誕生したときに国有化された。宿河原は多摩川の採石を京浜工業地帯へ送る路線駅で、同様に、青梅より先の日原あたりで産出する石灰石を製鉄の原料として使っていたので、製鉄所があった川崎臨港部へ輸送するのに使っていた路線あった。最近までは原油やジェット燃料も数十両の貨物車で運んでいたが、最近は殆ど見なくなった。南武線は産業の分野においても重要な路線であったことが分かる。
標題にした宿河原不動駅は、不動尊を信仰する多くの人々のためにあった駅と聞くが、確かに久地駅に近いところに不動町という一角があり、そこの住民の殆どは不動明王を家屋に安置し、十数軒の宗教集団であった。どの家も同じ作りで、参拝客のための宿泊設備をも備えていたようである。現在では新明国上協協会に集約され、当地に立派な協会が建立されていて、当時の名残が残っていて、現在も活動中である。
不動尊は、都内でも目白、目黒の駅名や地域が残っており、それぞれには不動明王が祀られていて、不動尊の目の色で目白、目黒と呼んでいた。この他にも、目赤、目黄、目緑等の不動尊があったようである。不動尊・不動明王は、仏の化身といわれ、五大明王の一つで、怒った顔つきで、右手に剣を持ち、左手には縄状の仏具であるケン索を持ち、火炎を背にしている。災害を除き、財産が増える功徳があるとされているため、信仰する人が多い。当時の話では、大阪や三河の商人が訪れていたと聞いていた。
同級生の中にこの不動町出身者が数名いて、何度か遊び仲間の自宅へ行ったが、母親は巫女をしているようで、子供ながら始めて知る室内の雰囲気に畏敬の念ではないが、畏れ多きところであったと記憶している。現在では不動町という名前も宿河原○丁目となっていて、最近の住居表示に改名されている。久地梅林が近くにあり、久地駅も以前は久地梅林駅と言っていたそうで、宿河原不動駅には梅林に来る見物客や、不動信仰の信者達の宿があったのであろうか。多摩川に沿っているため、鉄道のない時分には、鮎や鰻を遊船で楽しむ河原遊びを行う酔客用の宿があったようであるが、現在ではそれらしき宿は見あたらない。
下流の高津や二子新地は大山街道の通り道で、大山詣でをする客を相手に遊郭があったようである。その場所には岡本太郎の母親が居たといわれる神社付近にオブジェが飾られている。自宅付近の歴史は時代と共に変わり、忘れ去られる運命に有るが、何かの参考になったであろうか。
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