【五式中戦車 チリ】
1942(昭和17)年当時の戦車装備方針はチヘ車(一式中戦車)とチト車(四式中戦車)の二本立てで計画されていたが、1943年6月に一式中戦車の開発が終了すると、新たにチト車よりさらに大型の戦車=40t級戦車を開発することになった。
しかし1943年中期には戦局は切迫しており、資材も不足していたから本格的な新規開発を行う余裕はなく、、既存技術の寄せ集めで開発が進められることになった。
一般に新戦車開発で最大のネックとなるのはエンジンである。当時開発中のチト車は25t級の戦車で、従来の空冷ディーゼルに過給してなんとか400馬力まで引き上げていた。しかし今度のチリ車は35t級で、そう簡単にはいかない。
そこで目を付けたのが航空機用としてはすでに旧式化していたBMW液冷ガソリン・エンジンで、本来800馬力の出力を550馬力までパワーダウンして使用することとした。
主砲には四式中戦車に搭載予定の四式75mm戦車砲が搭載されることになったが、副武装については37mm砲と7.7mm機関銃の連装案と7.7mm機関銃2丁の連装案の2つのうち前者の案が試作された。
主砲として88mm砲を搭載する計画もあったため、砲塔は四式中戦車に比べかなり大きなものとされ、砲塔リング径は2m、砲塔重量は軽戦車1台分もあった。車載機関銃は1丁を37mm砲と同軸に車体前面左側、もう1丁を対空自衛用に装備した。
37tという九七式中戦車2輌分の重量を支えるために、足回りは直径58㎝の複列転輪を片側4組-8個とし、履帯幅は40㎝もあった。懸架方式は日本戦車の伝統的なシーソー式である。
装甲板の組み立てには車体・砲塔とも全面的に溶接が取り入れられ、操行機構には油圧方式を採用。また日本戦車としては初めてバスケット式戦闘室となった。従来の日本の戦車では、乗員の床は車体であり、砲塔の旋回に応じて身体を動かしていたが、本車では戦闘室の床が砲塔と一体となり、乗員は砲塔と一緒に回転する。なお、砲塔は手動旋回も動力旋回も出来た。
五式中戦車は終戦までに試作車が1輌造られて終わっている。それも未完成の状態で、砲弾の搭載位置まで決まっていなかった。なお、四研史によれば、1945年3月には富士の裾野で走行試験・発射試験が行われたという。(グランドパワー誌 No.030より抜粋)
【制作を終えて】
なんかグラデーション塗装とか、色調操作とか、凝ったワリにはそれが生かされてない仕上がりというか・・・(笑)。基本塗装をもっと簡略化して、制作時間の短縮を図ったほうが良いかもしれませんね。というわけで、久しぶりの戦車の完成です。