ホーエンシュタウフェン

生きるために食え、食うために生きるな。

心の旅~生まれ育った場所へ

2024-07-12 17:56:08 | その他雑談系

毎日暑いですね。

さて今回は、私が生まれてから小学校2年生(8歳)まで住んでいた場所に行ってみました。

これには動機がありまして、幼年期の私は当時「市営住宅」に住んでいたのですが、これらの古い団地は現在老朽化と再開発のため市として取り壊す動きが進んでいます。

自分の生家も近い将来取り壊される可能性が高く、今のうちに写真に収めておきたいという衝動に駆られ、夜勤明けに撮影に行きました。

また、これは自分のルーツを探す旅、この市営住宅が出来た来歴を残すためにもやっておかなければならないミッションです。

 

その前に、まず押さえておきたいのは、私の地元はかつて炭鉱で栄えた町であった、という事です。

プロの画家であった私の母方の祖父も、食い扶持は炭鉱夫として働いた稼ぎでした。

かくいう私も、昔は炭鉱開発をメインに行っていた企業で働いていますので、炭鉱とは切っても切れない縁があるのです。

ただ、私は自分の町がかつて炭鉱で栄えた、という事は知ってはいましたが今まであまり興味がありませんでした。

生まれた頃は石炭の時代は過ぎ去っており、既に石油の時代だったからです。

 

そこで、今回生家の事を記録するにあたって地元の歴史を色々と調べたのですが、驚きの連続があって俄然興味が湧いてきたという訳です。

年代は不明ですが、おそらく昭和30年代頃の地元の写真を見てみましょう。

 

奥の方にピラミッドのような山がありますが、これは炭鉱を掘り進む時に出る土「ズリ」を排出して出来た山、通称「ズリ山」です。

現在残っているズリ山は長い年月で緑に包まれ、普通の山にしか見えないものが多いのですが、私の幼少期には禿山の状態のものが残っており、地元の人にとってはこの町の原風景として心の中に残っています。

次は、昭和32年頃の地元の風景を絵図にしたものです。

 

これは南から北方向に向かって描いた絵なのですが、写真中央に山頂を平地にした部分がありますね。

これは石炭が出なくなった閉山後に、ズリ山を整地して住宅地(ベッドタウン化)に移行しようとする姿を描いたものです。

今の私の自宅はこの平地部分に建てられているので、今自分が住んでいるところは実は「本当の山」ではなく、「ズリ山」だった事が初めて知った衝撃的な事実でした。

なるほど引っ越してきたばかりの時、近くの公園の土にやたら石炭が混じっている事に不思議さは感じていましたが...

この平地は私が幼少の頃は電線も無かった事から、唯一凧上げが出来た場所として印象に残っています(当時はゲイラ・カイトという凧が流行っていた)。

 

昔の地元の写真らしいです(年代不明)。

資料によると、

「住吉坑ズリ山は秀麗な三角形を備え常磐炭田では名実とも随一とされ、U郷T坂の梨畑が連なる山並みを越えてそびえたっていた。
住吉本坑、一坑、二坑から出るズリを積み重ねた山の高さは約100メートル、青空を鋭角に切り裂く人工の山は綴坑ズリ山と共にU郷を代表するランドマークであった。
映画や画家の絵にも多く登場し、万人の思いがこもるズリ山であったが、閉山後削られて今はT坂団地の一部をなす。」

とあります。

 

この写真の右側に位置する高台が現在私が住んでいるところです。

昔はこんな感じだったんですね。

私の母も炭鉱長屋に住んでおり、結婚を機に後に私の生家となる団地(市営住宅)に移り住んだようです。

なんでも、当時長屋の友達だった人が新築間もない市営住宅に移り住み、それを大変羨ましがっていたので、祖母のコネで市営住宅に入る事が出来たんだ、と最近聞きましたが、以前は違う証言をしており、「市営住宅は人気が高く、抽選制であり、何回か抽選で外れてガッカリした思い出がある」と言っていたのですよ(笑)

私の母はときたま相手を混乱させる様な事をのたまう時が多々あり、この件に関しては後者が真実であろう、と考えています。

 

さて石炭が出なくなってズリ山を削り住宅地へと変貌していくのですが、開発が進んできた頃の航空写真を見てみましょう。

 

撮影の年代は不明ですが、おそらく私が小学生の頃~多分昭和50年代のものと思われます。

これではよく分からないと思いますので、私が手を加えてみました。

 

私はこの町で育ちましたので、小学校・中学校もこの写真の学校を卒業しています。

私の息子と娘も同様です。

さて私の生家ですが、黄色の矢印で示したところです。

裏山はゴルフ場、前はズリ山の斜面という、いわゆる谷底みたいなところに位置しています。

矢印左側の1丁目の住宅群と比べると、細長く連なった道路沿いに生家がある事が分かります。

現在の我が家の辺りは、この頃は更地の状態です。

一説には、この更地の少し手前に火葬場があったと聞いた事もあります。

そこも現在は住宅が2件建っており、私の同級生なのですが二人とも転校生でしたので、火葬場だった事はおそらく知らないと思われます。

 

お待たせしました。

私の生家だった現在の場所に行ってみましょう。

 

私の生家はこの左端の部屋でした。

後に父母が家を建てて、私の家族がここを出た後に入居した人が居たのは知っていましたが、その痕跡すら感じられない廃屋となっています。

ここには小さいながらも庭があり、母の弁ではブランコもあったらしいのですが、全く記憶にありません。

後から入居していった人達は庭にプレハブ小屋を建てて違法増築の様な事も行っていました。

1本だけ残っている物干し台はコンクリート製で、当時の生活をしのばせます。

 

当時はマイカーを持っている人が珍しかったのですが、父は日産店のセールスをやっていたので車で通勤していました。

代車で一度だけチェリーに乗って帰ってきた事が印象に残っています。室内灯が異様に暗くて(笑)

父のマイカーで最も印象に残っているのは、グリーンメタリックの初代バイオレットのクーペです。

参考までに初代バイオレットのクーペ ↓

 

毎朝いつも母に抱っこされて、父が車で出勤するためこの道を左折してゆくのを見送ったものです。

また、ゴミ清掃車のあのメカニズムが好きで、清掃車がゴミを回収するのを幼心に興味深く見ていた記憶があります。

今回改めて感じた事は、「この側道って、こんなに狭かったか?」という事です。

今の時期は雑草が繁茂しているのもありますが、子供の頃はこの側道でモーターで走るクルマや戦車のプラモデルを走らせていました。

 

また、角部屋だったのでこの壁にボールを投げてキャッチする様な事もやっていました。

昔はこの辺に子供が沢山居て、公園で野球などをして遊んでいました。

 

庭に入って撮影もしたかったのですが、雑草の多さに断念。

 

裏にまわります。

2階は前方が6畳、裏が3畳でした。

3畳の部屋にはビクターの家具調ターンテーブル(レコードを聴くオーディオ機器)があり、兄のおさがりのレコードをよく聴いていたものです。

そのため今でも、「変身忍者 嵐」「帰ってきたウルトラマン」「仮面ライダー」「決断」「ガメラマーチ」「スペクトルマン」「イナズマンフラッシュ」「超人バロム1」「ミラーマン」「キカイダー」など、リアルタイムより4~5年前の歌が唄えるのはそのせいです。

また、当時流行っていた山本リンダのLPや石原裕次郎(78回転)、日産店の販促品であったフランク永井の「ブルーバードUの唄(愛されてますか奥さん)」や、910ブルーバードのCMソングであった沢田研二の「俺は俺」などもよく聴いていました。

 

 

そういえば、正月には東京に車で旅行に行く、というのが我が家の恒例行事で、1年に1回しかない正月は田舎とは別世界の大都会の文化に触れる、子供にとっては凄く愉しみなイベントでした。

その頃は東京まで高速道路が繋がっていなかったので、クルマで片道7時間くらいかかるロングツーリングで、そのため子供がラゲッジで寝られる様に(?)一時期父は何かのライトバンに乗っていた事がありました。日産店で扱っているライトバンは限られていましたから、時系列で考えると810ブルーバードのライトバンだったかもしれません。

後席を倒して寝ながら2回ほど東京へ向かった記憶があります。

 

 

住宅裏のスペース。

昔はこんなジャングルではありませんでした。

裏山のてっぺんはゴルフ場で、なだらかな斜面に太いツルのある木が生えており、ターザンごっこが出来ました。

現在は竹藪になっているようです。

当時、父が日産から廃車になったサンバー(だったと思う)をここに置き、物置代わりにしていました。多分、日産からタダで持ってきたと思われます。

 

裏側に玄関があります。

玄関を入ると正面に洗濯機(脱水機が無いやつ)があり、右は風呂場で木の風呂桶でした。

父は古い人間らしくとにかく熱い風呂が好きで、私が「熱い!」と言うと「お父(おとう)が入ればぬるくなる」とか言ってましたが、ぬるくならなかったです(笑)

洗濯機には脱水機が無いかわり、ぐるぐるローラーみたいなのが付いていました。

 

トイレは当時の標準であった汲み取り式で、和式でしたね。

なので、殆どの家には換気用の煙突があったものです。

この玄関の扉はこのようなアルミのものではなく、鉄で出来たものだったと思います。

 

子供の頃はなんとも思いませんでしたが、随分と小さい所に住んでいたものです。

ただ、造りはしっかりしている様で、壁のひび割れなどはありません。

結構、頑丈な造りだったのでしょうね。

屋根はトタン張りで恐らく断熱材などは入っていなかったと思われます。

エアコンなど無いので夏場はそれなりに暑かったはずですが、凄く暑かったという記憶はありません。

 

数軒隣にIさんという人が住んでいて、確かいすゞベレットに乗っていた事を思い出しました。

そのIさんの息子は私の同級生でした。

 

2階建て市営住宅は北側のみで、南側の住宅は全て平屋でした。

この真向いYさんのお宅の娘さんも同級生でした。

Yさんは後に白いマツダ・ファミリアAPを購入し、出勤前に毎朝洗車をしていました。

マイカーを購入して嬉しかったんでしょうね。

参考までにマツダ・ファミリアAP ↓

 

 

平屋の方は二階建ての方よりも早く廃屋化が進んでおり、しばらく人の住んでいた気配はありません。

この角の家にはヤンチャな上級生がいて、メンコ取り(地元ではペッタと呼ばれていた)の勝負でコレクションしていたペッタを全部取られました。

 

と、まぁ駆け足で生家を紹介してきましたが、複数の事実から私が1970~1978年までここに住んでいた事が分かります。

ひとつは、ここに住んでいる時に「宮城県沖地震(1978年)」を経験した事。ですから8歳の時です。引っ越しの寸前ですね。

それから、先ほどのYさん宅のマツダ・ファミリアAPが1977年に発売された事。

スターウォーズの最初の日本公開時(1978年)に合わせ、SW関係のお菓子などを近所の駄菓子屋で買った記憶がある事。

自分の記憶では小学2年生の途中でここから新居に引っ越した記憶が鮮明に残っている事、などです。

 

この道をどんどん進んでいくと左手に公園があるのですが、公園脇の土手から沢山、貝の化石が取れました。

様々な大きさの化石があり、見た目はシジミの様なものだったと記憶しています。

あまりに化石が取れるのでコレクションしていたほどです。

微生物の死骸の化石が石炭であると考えると、数百万年前はここは海底であった証拠でもあります。

その後何万年もかけて隆起して陸地になったのでしょうね。

奥は最終的に行き止まりになっていて、両脇の山から流れてくる水により湿地帯となっており、入れませんでした。

子供心に、この行き止まりの先が「ロスト・ワールド」の様な恐竜の時代になってたら面白いのになぁ、と思っていました。

 

私はここから山を越えて、一人で幼稚園に歩きで通っていました。大人が歩くにも相当な距離です。もしかしたらそれで足腰が強靭だったのかもしれませんね。

それから小学校に入学して、この道を通って集団登校したものです。しかしここからだと小中学校がとても遠いため、現在の実家を建てたと聞いています。

 

私の母には教育の謎ルールがあって、「天才バカボン」「空手バカ一代」などタイトルに「バカ」がつく番組を観ると馬鹿になるので、絶対に観るなと言われていました。

また父は、クルマのプラモデルを買う時はトヨタの車は絶対に買ってはいけない、と厳命していました。

昭和の古い人の頭の中は今でもちょっと理解に苦しみますが、この頃からそうでした(笑)

 

 

さて、来た道を通って我が家に帰りましょう。

私の住んでいた住宅は、市の資料によると1965年頃完成した建物の様です。

だとすると、もう60年近くここに存在している事になります。

よくもまぁ東日本大震災に耐え、地滑り等の自然災害に遭わなかったものです。谷間ですからね。

昔は子供が沢山住んでいて賑やかで活気がある住宅街でした。

この現状を見ると、隔世の感がありますね。

光陰矢の如し、とは良く言ったものです。

この生家が私の原点であり、心の故郷です。

現状、この様な状態になっているのはやむを得ないとはいえ、まだ生家が残っている事に喜びを感じながら帰宅の途に就きました。

(了)

 

 

【おまけコーナー】

これは、2010年頃に自宅近傍のズリ山に子供と探索に行った時の記念写真です。

このズリ山は私の勤務先のものらしいです。やはり石炭が混じった土で、土に栄養が無いせいか植生もまばらです。

この動画の後半(2:39あたりから)に、このズリ山をドローン撮影した場面があるので全体像が分かると思います。

 

奥に沼というか池があるのですが、これがこの辺に住むタヌキなど野生動物の水飲み場になっている様で、この周辺では夜にタヌキやイノシシなどを見る事があります。

 

 

コメント
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