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一昨日のブログでムラ共同体での家と戦後ニュータウンでの家の相違、
あきらかに次元を異にする日本の「家」概念にポイントを絞ってみた。
戦後社会が、集団就業の大資本勤労者・農家の次男三男層向けに
「都会でなら誰でも家を持てる」と日本人に普遍的な心理的ロマンを提供し、
都心から遠距離だけれどニュータウンに大量に持ち家を実現させた。
勤労者に約束した「持ち家」は確実に実現したのだ。
しかし、ではそれが「永続する家」であるかどうかは未知の領域だった。
ニュータウンにある家は「末代まで続く家」かどうか、いやむしろ、
多摩ニュータウンが象徴するように戦後社会の幻視になりそうなのだ。
しかし一方で、ムラ共同体の「家」意識の方は健在かというとそうではなく、
その価値感もまた、大暴風とともに消え入りつつあると思う。
写真はそのものズバリの命名ですが新潟の「豪農の館」。
この家はまさに江戸期からのムラ社会での最大の「成功者」痕跡なのだ。
というか、こちらの家は江戸期にさかんに「干拓」を行って、
沼沢地を農地に改良してその所有する土地を広げていった。
やがて結果として小作たちの集住するムラができていった。
なので、一種の農地開発デベロッパーと言えなくもない。
当然開拓した広大な土地はこの家が所有し、小作・農奴が使役された。
そして幕末明治の「階級変動」で全国的に「大地主」層が勃興する中で
最盛期を迎えていった。先に見た「富山の豪農」とまったく瓜二つ。
日本の資本主義が武士の解体と同時進行して「土地が担保価値」という
金融資本主導型の発展に向かった結果、これら大成功者が生まれた。
発足間もない銀行は、まずなによりも「担保」を求め、
江戸期までに土地持ちになっていた階層に対しあらゆる「資本」を提供し
殖産興業に当たらせ、明治新政府側もそういう身分上昇した階層を
あるいは政治家として、資本家として取り込んで日本資本主義を成立させた。
富山の豪農もほぼ同様な経緯で地域の「有力者」になって国会議員にもなる。
明治維新から戦争までの社会は基本的にそのようにして骨格ができた。
それが第2次世界大戦敗戦の結果、農地が開放され「民主化」された。
しかし現代に至るも、基本的には土地こそが基本担保になるというのは
わかりやすい社会経済構造原理だといえるでしょう。
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・・・いまこの家は大空間座敷の庭の眺望が話題の「テーマパーク」と化している。
江戸期までの大名家かと見まごうばかりの「系図」がこれみよがしに
展示されているけれど、「偉人」とはどうも素直に受け入れられない。
またこれはムラ共同体社会の成功者典型とは言えない。
住居痕跡としてはむしろ、明治の急激な資本主義勃興期の富の集中痕跡。
ムラ共同体に対しては新興の富豪権力者という存在であり、
その財力に拝跪させられる対象ではあっても、尊崇すべき対象とは思えない。
歴史の中で一瞬光芒を放った階層だが日本的メンタルからは距離がある。
住宅の豪華さのなかに空虚感が漂っている、
こうした「成功者」たちの罪業感が有島武郎のような飛躍行動を生んだ。
太宰治の小説世界的な心象のうつろさを感じるのは、わたしだけだろうか?