三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【日本人のいい家⑩/特別編「信長・安土城」-1】

2020-11-24 06:30:48 | 旅行


歴史的住宅を探訪しての「日本人のいい家」シリーズですが、
過去に「安土城天主 信長の館」を探訪していたことが思い起こされて、
GoTo自粛の札幌市民、その写真整理で連休最終日を過ごしておりました・・・。
住宅研究で城とはと思われるでしょうが、城は広義では「住宅」に分類される。
宮殿建築・宗教建築・住宅というように建築史学では分類されるようで、
城郭というのは、宮殿とは言えないし、もちろん宗教建築でもない、
いわば権力者の「住宅」の特殊形態というような分類だそうです。
〜2009年見学した国立歴史民俗博物館企画展示
「日本建築は特異なのか」企画展示図録冊子より。〜
であるならば、住宅と歴史探究では城郭も範疇に入ってくる。
「そうか」と今更ながら気付かされた次第であります。
もちろん庶民住宅ではないので、そういう意味ではあくまで「広義」解釈。
しかし、豪農とか江戸期庄屋階級の住宅も取り上げている。
日本史のなかで信長さんの占める人気度を考えれば、
ということで、安土城をテーマにしてみたいと思います。
かなりの長期「シリーズ」になりそうではありますが(笑)・・・。
天主外観図は建築史家・内藤昌氏の復元模型とのこと。

信長と建築というと、やはり安土城が掉尾ということになるでしょう。
住んでいた時間はほんの2−3年ということですが、
かれの趣味生活や「大切にしていたもの」などが推し量れるのは「空間」。
この安土城は明智光秀の反逆の結果、灰燼に帰してしまって、
ながくナゾとされてきたけれど、近年「安土城郭調査研究所」なども設立されて
相当に研究が進展してきているようです。

住宅なので、まずは基本的な「配置図」ということになりますが、
かれは武将であるので広域図。政戦の要因から琵琶湖のほとりが選ばれた。
大きな地図で見ればかれが実効支配していた領域のほぼ中央に位置し、
政治工作の中心地・京都までは55kmほどで現在でも「中山道」が通っている。
この時期、東は甲斐を抑え家康領地の駿河、北は越前、
西は岡山県西部にまで領域を広げているので、まさに中心に位置する。
いまは陸になっている周辺にまで、琵琶湖の湖上交通が利用できたし、
少し南下すれば街道が通っていたので、交通の利便性は高い。
安土城はかれを常に悩ませてきた甲斐・武田家との長篠合戦で
勝利を手にした翌年、1576年に起工され始めたという。
で、完成入居は3年後の1579年で、さらに3年後1582年に本能寺で死ぬ。

工事には領域から建築業者が大量に徴発されたということ。
建築工事として考えたらその規模は空前絶後だったに違いない。
イケイケドンドンの織田家の威信をかけた大工事。さぞや活況を呈したに違いない。
安土の土木工事は、滋賀県坂本村の「穴太」の石工によって石垣が築かれた。
この工事の実績からか、高級土木工事で穴太衆の名声が高まったとされる。
信長らしい難行土木工事指令を見事にこなしきったのだろうと推定。
一番上の写真は、「修羅」による巨石搬入の様子のジオラマであります。
発注者信長へ「これでどうだ」の工事衆の男意気か(笑)。

とても1回ではムリですね(笑)。
大量のデータ類を整理しながら、じっくりまとめていくことにします。
さわりのさわり程度ですが、本日はここまで。あした以降へ。