北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

モーレ・アントネリアーナ(Mole Antonelliana)

2015-08-05 20:03:44 | 日記
昔、若桑みどりさんがNHKの市民大学講座で紹介していた、北イタリアはトリノ市にあ

る「塔」です。














建ったのは1889年、高さは167.5m、設計したのは建築家のアレッサンド・アントネッリロ

という人なんだそうです。当時は、エッフェル塔とワシントンのオベリスクの次に高かっ

たそうな、、、。若桑みどりさんの解説によると、イタリアの都市国家間では「他所の街

には負けるな」の競争意識が尋常ではなく、他の街を視察しては負けないものを作ってい

たんだとか、、、。(日本でも市町村の議員さんなど、あちこち視察しては「あの町でも、

なんとかいう建物を作って良さそうだから、うちらのところでも作るか」などとやってい

ますよね。) このモーレ・アントネリアーナ、最初はユダヤ教のシナゴーグのはずだっ

たのが、気が付いてみたら建築家に勝手に、他所の街に負けない高さの「塔」にされてしま

って、ユダヤの人が建築家を解雇したのだとか、、、。(今は映画の博物館のようです。)









その解雇された建築家のアレッサンド・アントネッリロさん。





やはりなんだか、一癖もニ癖もありそうな、偏屈で頑固そうな感じです、、、。



こちらは同じイタリアはトスカーナの街、サン・ジミニャーノ。





やはり、よその街には負けるなっていうので、何に使うのか訳の判らない「塔」を、たくさ

ん立てちゃった、、、。(でも世界遺産)



こちらはアメリカの摩天楼を設計した、当時の建築家の方々の仮装した写真。     





左から A. Stewart Walkerさん (Fuller Building), Leonard Schultzeさん (Waldorf-

Astoria), Ely Jacques Kahnさん (Squibb Building), William Van Alenさん(Chrysler

Building), Ralph Walkerさん (1 Wall Street), D.E.Wardさん (MetropolitanTower),

Joseph H. Freelander さん(Museum of New York)。


ユダヤ系やドイツ系の方が多かったのでしょうか、、、?



まっ、何にしても、人間って変な生き物ですねぇー、、、、。





追記  モーレ・アントネリアーナの図面

    



    アレッサンド・アントネッリロが亡くなったのは1888年ですから、解雇されたのは、その

     ずーっと前でしょうから、解雇された後もニョキニョキ高くなったんでしょうか、、、?

    




     上層階のドームの直下のホールには、ワイヤーだけで繋がれた『不思議なエレベーター』が

    クーポラの展望台にお客さんを運んでるのかな、、、?

    




    今でもトリノの街のシンボルみたいです。

     





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五木寛之さんと高村薫さん

2015-08-05 16:08:53 | 日記
ブログで週刊誌の対談記事を丸写ししても良いんだろうか?良いということにして、20

15年、「サンデー毎日」4月26日号の、五木寛之さんと高村薫さんとの対談。(高村薫

さんが直木賞の選考委員をしていることにふれて、、、。)



五木寛之さん





高村薫さん






五木  最近、いかがですか?新しい書き手は活気がありますか?

高村  小説への向き合い方というのが、私などの世代とは変わってきているのかな、と

    いう気がしますね。

五木  ほう。それはどういうことなんだろう。

高村  とりあえず書いてみたら書けてしまった。そういう感じなんでしょうか。小説に

    向き合うハードルが、とても低くなっているという気はいたします。

五木  なるほど。表現する人がいて、片方に従順な受け手がいるという、主従関係では

    ないけれども、かつてのそういう関係が崩れてきたこともあるかもしれません

    ね。

高村  そうですね。誰もが発信者。

五木  ここで無理に結びつけるわけではないけれど、例えば、昔はお寺さんや教会とい

    うものが絶対的に権威があって、そこから檀家、あるいは信者の方に向けて、あ

    りがたいお話をする。受け手はそれにお布施でこたえる。そういう与える者と与

    えられる者という関係が、今はもう完全に崩れてきているような気がするんです

    が。小説もそうで、一時期、若い人気小説家の小説を読んでいて、描写というも

    のがものすごく粗末にされているように見えるときがあったんですね。でも、最

    近ちょっと考え直すところがあった。

高村  とおっしゃいますと?

五木  与える者と与えられる者という関係が崩れてしまうと、読み手と書き手は階級も

    対等でしょう?そうすると、書き手が丹念に描写したものを受身で読むという形

    ではなく、ある意味では読者参加の文章、つまり表現をイメージ化するのは読者

    の側かもしれない。そんな感じがしてきているんですが。高村さんはものすごく

    細かく書き込まれるけれど、その辺はどうですか。

高村  ウィンドウズ95が出てきてからこの20年、私たちの言葉に対する向き合い方

    が完全に変わったのは確かです。

五木  そこに何が起きたと?

高村  言葉は発信すれば伝わるものという、根拠のない楽観が蔓延する時代になったと

    思います。自分の書いたものは誰かに読まれているはずだという前提に立った一

    方的な発信が増えたのではないでしょうか。

五木  本来言葉というのは、面と向かって交わすものですね。それでも必ずしも伝わる

    とは限らない。

高村  そうです。言葉足らずで誤解が生じたり、不信が生まれたり。どんなに一生懸命

    説明しているつもりでも、相手には理解していただけなかったりするから、本来

    は言葉を発すること自体に注意深くならざるを得ない。書き手がそうやって言葉

    に向き合っていた時代には、読み手も書き手が積み重ねていく言葉をそういう微

    妙なものとして受け止めて、真意を読み取ろうとしてきた。その書き手と読み手
 
    の間でひとつの小説の世界ができていくのが従来の小説のあり方だったと思うん

    です。しかし今は言葉に対するそういう慎重さといいますか、執着、執念みたい

    なものが若い方には少ないようです。




僕は、設計士なもんで、どうしても「小説」を、「建築」とか「設計」に、置き換えて読んでし

まうんです、、、。インキングなんてしない、コンピューターのCADの時代ですから、

良い悪いは別にして、設計の中身もどうしても変わってしまうのかもしれません、、、。

若い建築家の方の中には、住民?の方々とワークショップ(workshop)なるものを

開いて、参加型で共同で設計する手法をされる方もおられるようで、それはそれで時代の

流れで、たぶん従前とは違って、とても良い事なんでしょうけれども、、、、。



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インキング

2015-08-05 14:20:02 | 日記
建築家村田豊先生の事務所は、広尾の外苑西通りに面して、有栖川記念公園の下、ビルの

2階と3階と4階、または、3階と4階と5階の3フロアーで、下が先生と奥様のおられ

るフロアーで、その上が永野さんや道瀬さんのいた所員の製図室、一番上は資料室のよう

になっていたと思います。外苑西通りの向いには先生の設計された喫茶店もあって、お昼

ごはんをよく食べに行きました。(先生の設計された店舗は、新宿の伊勢丹の1階の喫茶

店や歌舞伎町のビルの中のお店もあって、どちらも例のFRPのテーブルと椅子があった

と思います。)

村田豊先生は、文字通りの、とてもダンディな方で、新潟県は西脇順三郎さんや越路吹雪

さんなどダンディな人を輩出する土地柄なんですねぇー、、。(越路さんは女性だけど。)

村田豊事務所では、図面は全てインキングでした。僕がアルバイトでお手伝いさせて頂い

たのは、沖縄海洋博の芙蓉グループ関連の、いくつかの建物の図面でしたが、物凄く厚手

のトレーシングペーパーに当時のロットリングで、消す時は電動の砂消しゴムなので、製

図版のまわりは、いつも砂でザラザラになってしまうのです。



写真は大阪万博の芙蓉グループ館ですが





沖縄海洋博の芙蓉グループ館は、メンブレンの膜構造のドームの上の、餅網のような巨大

な円盤状の鉄骨の構造物で、水耕栽培のトマトか何かを育てるようになっていたと思いま

す。永野さんと道瀬さんは、沖縄ですから会期中に台風が来た場合に、どうやって渡して

おいたロープで、短時間に膜構造のドームを畳めるかを検討していました、、、。(たし

か人力だったような、、、。)



沖縄海洋博の芙蓉グループ館、見つけました。







村田豊事務所ではなぜ図面は全てインキングだったかというと、おそらくル・コルビジェ

の事務所と、その流れを汲む坂倉準三建築研究所に在籍した、当時のある世代の方々にと

っては、インキングで図面を描くのは当然というか当たり前だったのではないでしょう

か?(藤木忠善先生も大学を退官後、全国を図面の巡回展をされていましたが、ディテー

ルなどの詳細図を含め、全てインキングの図面でした。坂倉準三建築研究所では新宿西口

計画の図面は全てインキングだったんでしょうか、、、?とんでもない膨大な枚数のはず

ですけど、、)



写真は、坂倉準三建築研究所で村田豊先生が担当された、南青山の岡本太郎邸です。





村田先生の事務所では、夕方になると所員とアルバイトは、下の階に降りていって、村田

先生の「講義」を、毎日聴くのです。先生の奥様が紅茶とお菓子を用意してくださって、

長いときは2時間くらいあったような気がします。内容は、フランスのボザールの時代の

建築家のありかたと、現代の建築家のありかたの違いなどのお話が多かったように記憶し

ています。(ですが、僕は半分くらいうたた寝してしまって、贅沢な時間だったのに、先

生、奥様、申し訳ありませんでした、、、。)


先生の事務所には未完の建築の模型がいくつかあって、中でも、箱根か伊豆かどこかの、

とても大きな別荘の模型は圧巻で、吊り構造による茅葺屋根のその建築が実現していたな

ら、どんなにか素晴らしかったろうと思います、、、。



村田豊先生は、19世紀の建築家の残り香を漂わせた、日本では数少ないダンディーな

建築家だったように思います、、、。







コメント (2)
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