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北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その8

2018-05-09 12:18:28 | 日記


長崎にあった桜町牢の『長崎諸役所絵図』です。牢屋の彩色された絵図が残っているのは

珍しいと思います。






門が2つあるのですが、どちらも枡形形式の『埋門』のような『裏門』で、どこにも

『表門』がないように見えるのですが、、、。




桜町牢があったのは、今の長崎市役所別館の建っている場所です。








以下Wikipedia 桜町牢(さくらまちろう)の記述より抜粋


構内は2区に分かれ、獄舎は3棟。各棟は3室で方3間の監房2室の間に番所が置かれた。

正門の北西隅に拷問所、中門の右手に供部屋と吟味所、その後手に牢守宿舎や牢番長屋

があった。一般庶民を入れる牢屋と、士分の者や神官、僧侶あるいは漂流者などを入れ

る揚屋があった。この牢には多数のキリシタンが投獄され拷問を受けた。


『中門』が出てくるのですが、、、、。



映画『沈黙ーサイレンス』(監督:マーティン・スコセッシ 原作:遠藤周作)の1シーン




桜町牢でしょうか、、、?『長崎諸役所絵図』の図の中門の左側(北東)の牢の建物に

囲まれた中庭?の設定と思います。映画の中では『中門』らしき門が、チラッと見える

シーンがあるような、、、。



こちらは江戸幕府の最後の頃、今の営団地下鉄丸の内線の茗荷谷駅の車両操作場の南西、

小日向にあった切支丹屋敷です。







図を見ると、、、





『埋門』とあるのが読み取れます。





                    
                   伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その9 につづく







追記  桜町牢の図を部分拡大してみました。


    


    右下に『裏門』とあります。道から凹んでいて内枡形(うちますがた)と言うので

    しょうか?入ったところに、さらに階段があります。

    左上の塀か柵(?)の、どちらかの門(?)が『中門』だと思うのですが、、、、。




    小日向の切支丹屋敷も拡大してみました。

    
    

    左の入り口、文字が潰れていますが『埋門』と読めると思います。




    
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伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その7

2018-05-09 12:17:45 | 日記


栃木県の日光江戸村という観光施設に、伝馬町牢屋敷の一部が再現されています。







これは実際にはなかった門だと思うのですが、『練り塀』が再現されているのです。瓦の

間隔は、実際はこんな感じだったんでしょうか?





再現された表門です。







この門の前で、不義密通の罪などの軽微な罪人は、衆人の前で公開の刑罰を受けて、その

場で放免されたようです。





門の内側に石出帯刀が立っています。





日光江戸村の牢は体験入牢が出来るようです。













                   伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その8 につづく
  



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伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その6

2018-05-09 12:16:55 | 日記



歌舞伎『四千両小判梅葉』(しせんりょうこばんのうめのは)のつづき




『伝馬町 西大牢の場』





こんな横長の大きな牢があったんでしょうか?天井も高いし、歌舞伎の舞台の寸法に合わ

せてしまったんでしょうか?





明治維新後もしばらく残されていたらしい、仙台伊達藩の藩牢の建物と思われる建物の

写真です。(広瀬川河畔なのか、それとも別の場所なのか、、、?)







こちらは、めずらしく高知市の神社に移築保存されている、江戸時代の牢獄(山田獄)。






伝馬町牢屋敷の建物も、これらの建物と同じくらいの高さで、棟数が多くて、規模だけが

大きかったのか、、、?






『四千両小判梅葉』の動画です。(1時間半、長いです。)







54分あたりから『伝馬町 西大牢の場』です。


そして1時間23分30秒あたりからが『牢屋敷内申渡の場』です。



背中に大きな『出』の字の2人は何者なんでしょうか、、、?





                   伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その7 につづく






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伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その5

2018-05-09 12:16:00 | 日記



伊能秀明さんと言う 明治大学法律研究所の先生の、『江戸小伝馬町牢屋敷の世界-明治大

学刑事博物館蔵「牢内深秘録」「徳川幕府刑事図譜」に見る牢法』と言う論文のPDFを見

つけました。全部を読むのはチョッと大変です。



https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/14177/1/horitsuronso_67_2-3_383.pdf

クリックすると繋がります。




(『伝馬町』ではなく『小伝馬町』になっています、、、。「その1」の時から、実はど

ちらかよく判らず、困っていました、、、。)





その中の『牢内深秘録』の『張番所の横から見た埋門』という図版です。






最初の伝馬町牢屋敷のイラストの『同心詰所』から、右手に『張番所』を見て、正面に

『埋門』が見えている図版と思います。(手前の『樽』だか『桶』だかは、何だか良く判

りません。片方は『火の用心』の『防火用水』でしょうか、、、?)





なるほど、これなら十思公園のジオラマの模型のような『櫓門』ではなく、塀(『板塀』

などではなく『練(ね)り塀』か『瓦土塀』?)と一体のデザインで、『埋門』という名前も

納得です。『埋門』が内開きかなのか外開き?それとも『大戸』のような引き戸なのかは

良く判りません。内戸が付いているのが図版から判るのですが、おそらく内開きと思いま

す。(実は『中門』の場合は、内開きかなのか、それとも外開きなのか、が大問題のよう

なのです、、、。)




河竹黙阿弥作 『四千両小判梅葉』(しせんりょうこばんのうめのは 明治18年)


最後の場面 『牢屋敷内申渡の場』 お仕置きの日






左のお縄になっているのが富蔵、右のお縄が藤十郎でしょうか?富蔵と藤十郎の間に立っ

ているのが石出帯刀(いしで たてわき)と思います。お縄の端を持っている両端の2人の

背中には、大きな『出』の字が白く染め抜かれています。(次の記事の動画の最後に出て

きます。『石出帯刀』の『出』の字でしょうか、、、?)





後ろに少し見える塀の意匠は、『牢内深秘録』の『張番所の横から見た埋門』という図版

の塀に似ていますが、改番所(?)と大牢や二間牢が塀の前に並んでいたりするんでしょう

か?だいいち、これは『埋門』から中に入った『牢内』なのでしょうか?『石出帯刀』さん

は、割と頻繁に『埋門』から『牢内』に入ったりしていたのでしょうか、、、?






                   伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その6 につづく





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一条戻橋

2018-05-09 12:14:40 | 日記
わたしが、いろいろ書き込みをしてしまっている京都の地図です。

上のほうに赤鉛筆で『一条戻橋?』と書いてあります、、、。




平安京は、この図の大内裏の西側にさらに1/3くらいありますので注意してください。




一条と二条の間隔は、他よりも2.5倍くらいあって、一条戻橋は堀川にかかっているはず

なんですが、一条通と堀川小路の交差にかかっていたのか、それとも、その南の土御門通

と堀川小路の交差にかかっていたのか、良く判んないんです、、、。(名前も、もしかし

たら『土御門橋』だったかも知れないんです、、、。)



でも『女大工』が一条戻橋の近くで、『青屋大工』が壬生寺の近くって事は、両方とも

堀川の近くで、今だったら2kmちょいしか離れてないんです、、、。もともと堀川は

北山の木材を賀茂川経由で平安京の中心部に直接運搬するための人工河川だったようです

から、大工さんがたくさん住んでいたとしても、不思議でも何でもないんですけど、、。





一条戻橋絵図 (左の橋が一条戻橋だそうです。左が堀川の上流のはずです。右から流れ

込んできている川は小川という川で良いんでしょうか?でも何だか小川の方が賀茂川と

繋がっているような気もするんだけど、、、?)








千利休の屋敷は、一条戻橋の100mちょと北西で、自害させられたあとの利休の生首は

一条戻橋の袂(たもと)に晒されたとされています。利休の屋敷のすぐ近くには、陰陽師の

安倍晴明の晴明神社がありますし、




平安京オーバレイマップ https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/ の一条戻橋の付近です。








Google Map







もうちょっと上の現在の芝薬師町のあたりには無縁所(アジール)としての清玉上人の阿弥陀寺

(時宗らしい)があり、さらに北の船岡山の裏側の蓮台野は、『馬捨場』ならぬ『人捨場』だった

と言うのですから、この堀川の西側一帯は室町から戦国・江戸時代をとおして一体どんな場所

だったんでしょうか、、、?


少なくとも


 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗  

猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結

墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打


の中の、陰陽師と青屋は住んでいて、おそらく傾城屋さんもあったでしょうから(『島原』

や『角屋』の前にも、それなりの施設はあったかも知れないわけで、、)、いろいろな職人

・芸能の人々の無縁所(アジール)センターみたいな場所だったのではないでしょうか?

(この場合の「職人・芸能」の意味合いは、現在のそれとはだいぶ違うので注意。)





昭和までの一条戻橋





この写真の下のほうに見える護岸の石垣は小川のものでしょうか?









紫野大徳寺塔頭高桐院 伝千利休屋敷 書院『意北軒』






あくまでも「伝」です、、、。




追記  矢貫隆さんの2007年の文章です。


    意外だが、京都は自転車の街だった。この地でタクシー運転手となって間もない頃、

    客を求めて市内を流しながら自転車屋さんの数が妙に多いことに気がついた。

   (中略)

    京都では、自転車がそれだけ多く利用されているということなのだ。

    圧巻は、夕方から夜にかけての退社時刻である。東西を結ぶ三条通りは、どうした理由

    からか自転車ツーキニストたちのお気に入りの道らしい。河原町とか烏丸といった市の

    中心部からの多くの帰宅者たちが、この道を利用する。南北を結ぶ幹線道路、堀川通り

    の信号が変わったとたん、それこそ怒濤の勢いで三条通りから自転車の大群が堀川通り

    を横断していくのだ。

    「中国みたいやな?!」

    まだその光景に不慣れだったころ、京都の友人にそう言って驚いたことがあった。



  青屋大工も、女大工も、利休も、新撰組も、今の時代の人々も、堀川を朝に西から東に

  渡っていたし、渡っているし、夕方になると東から西に渡っていたし、渡っている、と

  いう事なんでしょうか? 地下のジェーン・ジェイコブズさんに教えてあげたい、、、。



                  伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その5 に戻ります













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