北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

中世鎌倉街道 その9

2015-06-05 12:25:22 | 日記
さて、最後に鎌倉です。相州鎌倉江ノ島図(鶴岡八幡宮)という図です。





この時代にして、すでに「小町通り」はあったようです。「若宮大路」も、材木座海岸の方に

のびていて、鶴岡八幡の源平池のある部分が、「四角く」出っ張っているように見えます。



鶴岡八幡の航空写真です。



見事に「四角く」出っ張っています。(土日や観光シーズンは、車が大渋滞して大変そう。)




西側に、「巨福呂坂(こぶくろざか)」という坂があります。


       国土地理院平成6年1/25000地形図「かまくら」



「巨福呂坂」です。道祖神も残っています。向うの森は鶴岡八幡。




この道が、鶴岡八幡の大銀杏の大石段の前までつづく「古道」、つまり「みの手」と想像しま

す、、、。







「車祓所」を挟んで、県道21号線の向こう側が「巨福呂坂」。でも東はどこに行くんだろう

、、、? 中学校の校庭、、、? 



「巨福呂坂」は、何かの理由で盲腸のように取り残されてしまった道なのです、、、、。

(だから道祖神も残っているのでしょう、、、。) 鶴岡八幡は、「四角く」出っ張ってくる

し、北鎌倉からの県道21号線には、巨大な切り通しを作られて、用がなくなってしまっ

たのです、、、。


「みの手」は、どこかに必ず繋がっていると言うような道ではないのかも知れません、、。

今でも「巨福呂坂」は、民家の裏手で消えてなくなってしまうらしいのです。








でも、僕は、こういう忘れられた道に、限りない愛惜を、感じてしまうのです、、、。






追記  講談社学術文庫1549『境界の発生』(赤坂憲雄さん)に、『カニバリズム

    (人肉嗜食)の風聞にいろどられた巨福呂坂、、、』とあります、、、???











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