最近、中公新書の「ガウディ伝」(田澤耕著)という本を読んだ。(田澤耕さんは建築関係
ではなく、カタルーニャ語とカタルーニャ文化の研究者の方。)
その中で、まったく知らなかった事が、いくつも書かれていました。まず
アント二は、クリッとした大きな目をした愛らしい赤ん坊であった。その目の
色は透き通るような薄い水色だった。普通、イベリア半島生まれの人は、濃い
茶色の目をしている。しかし、とくに北部では、古の昔、ピレネー山脈の北から
移り住んできた者たちの子孫も幾分おり、ときどきこのような目の子が生まれる
のである。将来、この目の色がガウディの人生において大きな意味を持つであろ
うことを知る者はもちろん誰もいなかった。
ガウディは、生粋のカタルーニャ人とばかり思っていましたが、実は、カタルーニャでは
「少数者」の側だったかも知れないのです、、、。先祖はピレネー山脈の北ですから、今
のフランスです。もちろん、レコンキスタもあって、南仏のピレネー側はイスラムの人種
や文化の影響もあったのでしょうけれど、、。
ガウディのお父さんは「村の鍛冶屋さん」のイメージを勝手に想像していたのですが、
(てっきり鍋や釜、鋤や鍬、門扉の「ロートアイアン」(Wrought Iron)などの職人だと
ばかり思っていました。)
アント二の父フランセスクは銅製品を作る職人だった。地元のブドウを原料に
作られる特産品の焼酎を造るための蒸留器を主に作っていた。
ガウディの生まれたレウスという町は、「アイグァルデン」というブドウから造る焼酎の
の生産地であり主要な取引市場だったようです。
次に、ガウディがサグラダ・ファミリア教会の主任建築家に選任されたときの経緯です、
当時、バルセロナでは・・・・とくに聖ヨセフ信仰協会内部では、ブガベリャ
が神の啓示を受けたのだ、ともっぱらの噂でした。聖堂の建築家は青い目をし
ていなければならないという啓示です。青い目のガウディが協会の理事たちの
前に現れた時、ブガベリャは『この青年こそサグラダ・ファミリアの建築家だ』
と言ったのです。
(ブガベリャ・・・サグラダ・ファミリア教会の建設を
発心した、宗教書を主に扱う書店の経営者。)
工事中のサグラダ・ファミリア教会。1915年頃。
そして、ガウディ最大のパトロン、「グエル公園」のグエル(グエイ)伯爵なのですが、
(もちろん、どんな人物かまったく知らず、ただお金持ちのパトロンくらいにしか思って
いませんでした、、、。)グエル伯爵ことアウゼビ・グエルの父親ジュアン・グエルは、
「インディアノ」と呼ばれた、バルセロナから西インド諸島(主にキューバ)に出稼ぎに
行って成功した人のようです。では、西インド諸島で何をしていたかと言うと、、、
十八世紀を通じて、奴隷貿易の主導権を握っていたのはイギリスだった。奴隷
貿易が法的に禁止されると、アメリカ合衆国の商人たちがイギリス人にとって
代わることとなるが、合衆国でもやがて奴隷廃止論が高まり、奴隷貿易は下火
となる。この間隙を縫って頭角を現わしたのがカタルーニャの奴隷商人だった
のである。
カタルーニャの利点は、もともと高い航海技術があったこと、そしてアフリカ
で奴隷を仕入れるときの交換物資となる蒸留酒を産することだった。カタルー
ニャ船は、キューバで砂糖などを積み、バルセロナで降ろす。バルセロナでは
蒸留酒を仕入れ、アフリカの西海岸に立ち寄って、蒸留酒と引き替えに奴隷を
仕入れ、キューバに向かう。このような三角貿易が確立されていった。
この「蒸留酒」は、ガウディのお父さんが作った銅の蒸留器による「アイグァルデン」で
しょう。アウゼビ・グエルは、バルセロナの先代達らが奴隷貿易で蓄えた資産を元に、
別珍(綿ビロード)などの繊維産業に乗り出して財を成したのです。
サグラダ・ファミリア教会は、日本語で言うと「聖家族教会」なのですが、もしかした
ら、本当は「聖家族教会」ではなくて、自分達の繁栄は実は十八世紀の奴隷貿易によって
もたらされたものだったと言う、バルセロナ市民の心の中の、見えない罪の意識を贖罪す
るための、「贖罪教会」だったのかも知れません、、、。
写真は、1878年のパリ万国博濫会で、ガウディとアウゼビ・グエルを引き合わせた、
ガウディによる、「クメリチャ手袋店のショーケース」です。
前の記事の、ベンヤミンがなくなったポルトボウ(Portbou)の町からバルセロナまでは、
150kmくらい、今でも、当時でも、車で3時間くらいでしょうか、、、。
1950年頃のサグラダ・ファミリア教会
そして、今も工事中 (「ガウディの夢」? ? ?「ガウディの悪夢」だったりして、、、)
追記 ガウディ、子供の時にリウマチだったらしい。知らなかった、、、
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