紀州熊野の新宮は、昔から水害の多い土地なのです、、、。
『毎日新聞社提供』の文字の、右上のあたりが新宮市街。熊野川の矢印の先の、手前の橋が
国道42号線、奥の鉄橋がJR紀勢線。
昔、このJR紀勢線の鉄橋と国道42号線の橋に挟まれた、新宮市街側の熊野川の広い河川敷に
(『権現川原』と言ったらしい)、『川原町』という集落?があって、集落の建物を『川原家』
と呼んでいたようなんです、、、。
この写真の時代には、JR紀勢線の鉄橋も国道42号線の橋も、まだなかったようです。『川原町』
の奥には、堤防か石垣の擁壁の上に一段と高く、倉庫か蔵のような建物が一直線に並んでいる
ように見えるのですが、、、?
2本ある熊野川からの道の両側の平べったい建物が『川原家』です。この写真の2本の道の
真ん中あたりが、現在の国道42号線だと思います。
『川原町』は、船からの荷物の積み下ろしや、特産の木材の運搬など、熊野・新宮の物資・物流
の拠点だったようです。
往時の『川原町』の様子。
『川原町』の『川原家』は組み立て式の工法で、釘や金物を使っておらず、大工さんでなくても
普通の人たちが、短時間で組み立てたり解体したり出来るように工夫してあり、洪水や水害の
恐れがある時は、その前に町の人が総出で解体して、安全な場所に避難したのだそうです。
(近くの熊野速玉神社横の船町の避難所を『上がり家(アガリヤ)』と呼んだようです。)
和歌山信愛大学の千森督子さんという研究者の方の『紀伊半島大水害による被災住宅と仮設住宅
について』という論文のPDFです。105ページの図3に、小さいですが『川原家原寸模型制作図面』
があります。写真18~写真20に再現された川原家の写真があります。
http://www.shinai-u.ac.jp/toshokan/shinai%20kiyou/HP%20Kiyou/KiyouVol.53/chimori-53.pdf#search='%E6%96%B0%E5%AE%AE+%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E3%80%8C%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E3%82%84%E3%80%8D%E4%B8%8A%E3%81%8C%E3%82%8A%E5%AE%B6'
地元の新宮工業高校の建築科の生徒さん達が、授業でこの『川原家』を復元したらしくて、、、
何かの催し物の時に、地元有志の人4~5人で組み立ててみたら
30分もかからなかったみたいなんです、、、。
(でも、明治時代とか大正時代はトラックもなくて人力だけでどうやって、解体した部材を安全
な場所に短時間で運んだんでしょうか、、、? 大八車で、何往復も、、、?)
『上がり家(アガリヤ)』というのは、水害の危険のある『本宅』とは別に、高台の安全な場所
に避難用の『別宅』として用意した、熊野川の流域にあった比較的簡便な建物の名称です。
京都大学の落合知帆さんという研究者の方の『洪水常襲地における水害対策としての上がり家』と
いう論文のPDFです。4ページに「アガリヤ」の写真、5ページに平面図があります。
http://maedakksz.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/12/H26-2-5.pdf#search='%E6%96%B0%E5%AE%AE+%E6%B0%B4%E5%AE%B3+%E4%BD%8F%E5%AE%85'
同じく落合さんの『熊野川沿い集落における水防建築「アガリヤ」の分布と分類』という論文の
PDFです。24ページに「アガリヤ」の写真かあります。
https://www.cpij.or.jp/com/ac/reports/17_22.pdf#search='%E6%96%B0%E5%AE%AE+%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E3%80%8C%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E3%82%84%E3%80%8D%E4%B8%8A%E3%81%8C%E3%82%8A%E5%AE%B6'
追記 川原町の略図(大正時代)。右が熊野灘・太平洋。下が新宮市街。左下が熊野速玉神社。
神社の境内だけでなく、道路にも解体した『川原家』の部材を置いていたようです。
.
京都府立大学生活科学部住居学科 本多昭一教授の資料より
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます