北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

建築家じゃない人の建築

2015-08-09 15:41:25 | 日記
「建築家なしの建築」は、バーナード・ルドフスキーさんの本なんですけど、、、たとえば

こんな感じの建物とか、、








こんな感じの集落?が





紹介されていたりするのですが、、、アラン・チューリングさんと、どこかの大学の、ど

こかの中庭で、立ち話か何かくらいはしたかも知れない、ウィトゲンシュタインさんは、

本国のウィーンかどこかに、お姉さんか誰かの親戚の家を設計しているのです。


こんな家なのですが、、、







こんなプランです。(たぶん地下室の上の1階。3階の重なりかたは、特に図面右上の角

は、構造が凄い事になってしまっていそうな気もしますけど、、、。)





設計したと言っても、プランはアドルフ・ロースさんお弟子さんかどなたかが、すでに進

められていて、ご本人は開口部や建築金物などを熱心にデザインしたようなのですが、、








どうも2重サッシのようです、、、。(どうやってガラス拭くのかな、、、?)





コーナーの暖房ラジエターのようなのですが、わざわざ特注で作らせたのでしょうか?





建物の裏側2階の斜めのトップライト?のようですが、、、





こんなの見ると、かえってホッとします。


とにかく細部への「こだわり」が、尋常ではありません、、。(特にクレモン錠のハンドル

などの建築金物、、、。開口部サッシの鋼製建具の比例プロポーションなど、、、。)






廻り階段のエレベーターは後から付けるつもりで、付けなかったのかな?



追記  ところで、ドイツとかオーストリアって、インチなんでしょうか?メートルなん

    でしょうか?この年になるまで、気にしてなかったけれども、、、。


追記の追記   読者の方から、「3階の重なりかたは、特に図面右上の角は、構造が凄

        い事になって云々」の記述が判りにくい、との問い合わせをいただきま

        して、、、


        

         「3階の重なりかた」と「建物の裏側2階の斜めのトップライト」と「廻

         り階段のエレベーター」が、これで判るでしょうか?不親切ですいま

         せん、、、、。    
   


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李澤京平教授

2015-08-08 22:16:29 | 日記
「ヨルタモリ」の李澤京平(すももざわきょうへい)教授なんですけど、、、






タモリさん、もしかして岡野弘彦さんのYoutubeを見ているのでしょうか?




(これは小倉百人一首ではなくて源氏物語)


でも、もしそうだとしたら、タモリさん、これはやめて下さい。

岡野弘彦さんって、凄く偉い先生なんです、、、。


僕が折口信夫さんの事を知ったのは、




本屋さんで偶然手にした、この本の中公文庫版。


岡野弘彦さんは、この本の著者ですし、最近ではずーっと、お正月の宮中歌会始の選者を

しておられる方なのです、、、。


この「折口信夫の晩年」っていうのは凄い本で、もちろん師弟関係とは何か?について考え

るのも良いんですけど、なんたって、男色(ホモ)でコカインを鼻から啜りながら学問して

いた学者さんが居たって言うんですから、ビックリしたの何のって、今だったら、チャゲ

&飛鳥の飛鳥さんじゃないけど、すぐにスキャンダルになって大変です。(国学院大学教

授にして慶應義塾大学教授だったんですから、、。)もちろん一生独身、結婚なんてする

訳がありません。(でも「養子」は貰いました、、、。それも、かなり成人の、、、。)まあ

戦前と戦後の一時期、その方面に関しては、かなりゆるーい国だったと言う事で、、、。


岡野弘彦さんは、大井出石(いづし)の折口信夫先生のお宅で、先生が亡くなる時まで、先

生の身の回りのお世話をした、先生の最後のお弟子さんだったのです、、、。

(「折口信夫の晩年」に、その時の事が書かれています。女の人を寄せ付けなかった先生の

亡骸に、たった一人の女性の弟子だった方がふれてしまうところが描かれています。)



あのアラン・チューリングさんも、そうだった訳で、、、





今じゃ、全世界の人が恩恵を受けて、僕も、こうしてパソコンに向かってブログが書けて

いるのです、、、。少なくとも、警察がどうのこうのではないと思いますけど、、、。



この日本という国に、折口信夫さんのような方は、二度と現れる事はないような気がしま

す、、、。(たぶん)


追記  こちらの「近藤さん」の方は、


    


    どうぞご自由に、好きなだけやって下さい。


    




    
追記の追記  コメントで読者の方からご指摘いただきました通り、出石は「いづし」では

       なく「いずるいし」でした。本文は訂正してません。


追記その3  岡野弘彦さん、文化勲章を受章されました。( 國學院大學 2021 11 03 )


        政府は10月26日、今年度の文化勲章受章者9人を発表し、歌人の岡野弘彦
       名誉教授(文化功労者、日本芸術院会員)が選ばれました。本学卒業生での
       文化勲章受章は初めてとなります。

       岡野名誉教授は、大正13年生まれ。本学在学中に折口信夫元教授が指導する
       短歌結社に加わり創作を始め、昭和32年に本学文学部専任講師、36年助教授、
       44年教授。学生部長、文学部長、折口博士記念古代研究所所長などを歴任し
       ました。

       本学教員として教壇に立つ傍ら、歌作に励み、昭和47年に歌集「滄浪歌」で
       釈迢空賞。54年から宮中歌会始の選者となり、58年からは宮内庁御用掛(御
       歌)として、昭和天皇をはじめ皇族方の和歌指導を四半世紀にわたり務めま
       した。63年に紫綬褒章、平成10年に勲三等瑞宝章、25年に文化功労者。



        授与式の後、宮内庁御用掛として皇族に和歌の指導をした岡野さんが代表で、
       「謹んで御礼を申し上げます」とあいさつ。

        九十(ここのそじ)七(なな)つの齢(よはひ)たまわりて
         今日 寿(ことほぎ)の歌たてまつる

       と、歌を詠んで喜びを表現した。( 毎日新聞 2021 11 03 )








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もう一人の政治家

2015-08-07 17:25:41 | 日記

無頼の生活をしていた早稲田のアパートの頃、僕は早稲田の古本街にもよく行きましたが

、池袋駅西口の本屋さん「芳林堂」まで足を伸ばすこともありました。でも、お目当ては、

申し訳ありませんが、「芳林堂」さんではなく、上の階の「高野書店」さん。ここは、確か、

社会科学関係の本が充実していて、珍しい初版本がガラスのケースの中に並んでいたので

す。


その時、お金も無いのに無理して手に入れたのが、この本






釈超空(折口信夫さん)の歌集「古代感愛集」(こだいかんないしふ)の初版本です。(装丁

も著者ご本人。重版なんてあったんでしょうか?でも、ある時、飼っていた猫が爪を立て

て、セロハン紙のカバーごと背表紙を破かれてしまいました。トホホです、、、。)


池袋から早稲田に帰るには、東京音大のあたりから鬼子母神を抜けて、どこかで目白の

台地から、下の神田川のほうに下りることになるのですが、たまには違う坂でも探すかと

思って、歩いていて出会ったのが、この方






田中角栄さんです。(浅沼享子さんも一期だけ衆議院議員をされていたので、「もう一人の

政治家」なんです、、、。写真の右は早坂茂三秘書、函館出身。)



Google Map





上のGoogle Mapで、目白通りから、緑の多い田中角栄邸の手前の路地を入っていったら

ば、角栄邸の裏木戸(庭木戸)の近くの路上で、角栄さんと、若い秘書とおぼしき男性と、

近所の「おばさん」?(和服を着ていたと思う、、、60歳半ばくらい、、、?)の三人が、

なにやら立ち話しをしていたのです。ロッキード事件の何年も後ですが、角栄さんはまだ

脳梗塞になる前だったのか、まだまだ眼光鋭く、「なんだ、この若いのは?」みたいに、僕

は睨まれてしまったのです、、、。すぐに角栄さんだと判りましたが、一応、日本国民と

して、一方的にではありますが、従前より存じ上げていた方だったので、僕は会釈をしま

した。角栄さんは睨みっぱなしです、、、。



会釈をして通り過ぎたのはよいのですが、残念ながら、その路地のクランク状に折れ曲が

った先は行き止まりで、目白の台地からは下りられなかったのです、、、。


僕は仕方なく引き返したのですが、三人はまだ立ち話をしていて、僕は、また会釈をした

のです、、、、。角栄さんに、また睨まれてしまいました、、、。


せっかくの世間話の邪魔をして、すいませんでした、、、。(だってあの頃、家の中にば

っかり居たんでしょうから、、、。)




追記  たしか、T字路の角のマンホールのあたりに、角栄さんと御婦人と若い秘書の方が

    立っていたような、、、。右のこんもりした樹々が『角栄御殿』。


    





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同潤会白河清砂通りアパート

2015-08-06 15:59:50 | 日記

東京都江東区、三ッ目通りを挟んで、白河3丁目と4丁目に同潤会白河清砂通りアパート

はありました。










この写真の交差点の、3丁目の角の大きな棟の建物の、戦災を受けた最上階は、当時でも

黒い煤(すす)に焼け焦げたままで、おじいさんとおばあさんばかりが住んでいました。

その最上階の中廊下は、ガスの配管もなかったのか、共同の炊事場では不便だったのか、

皆さん廊下を台所代わりにしていたので、朝になると煮炊きする石油コンロと御飯の炊け

る匂いで、「オエッ」となるような感じでした。


別の棟は、棟と棟の間を通り抜けられるようになっていて、オランダあたりの近代建築の

集合住宅みたいで、なんだかちょっとお洒落でした。






地図で確かめると、大きな棟からは離れた、今の白河4丁目の「白河こどもとしょかん」の

あたりにあった、こじんまりとした棟の、向かって左の階段室の1階に、浅沼稲次郎さん

の未亡人の享子さんが、当時まだ住んでおられました。


浅沼稲次郎さんといっても若い方は、すぐには判らないかも知れませんが、1960年10月12

日に日比谷公会堂の壇上で、17歳の少年に刺殺されてしまった、当時の日本社会党の委員

長だった方です。






僕は、ずーっと「どうして浅沼稲次郎さんの未亡人が、こんなところで一人で住んでいる

んだろう?もしかして、日本社会党の委員長の浅沼稲次郎さんは、奥さんと一緒に、こん

な下町の庶民的なアパートで暮らしていたんだろうか?」と疑問だったのですが、、、



見つけました!







浅沼稲次郎さん、下駄に浴衣姿で犬の散歩しています。後ろは間違いなく同潤会のアパー

トではありませんか、、、!



追記   でも、いくら賃貸から分譲に切り替わっていたかも知れないとはいえ、同潤会

     のアパートで、当時でも、犬を飼っても良かったんでしょうか、、、、?



追記の追記   白河の同潤会アパートでは、お葬式が出ると、今のようにセレモニーホ

        ールなんてない時代でしたから、階段室の下の階と上の階の人が、自分

        たちの住戸を提供して、親族や参列者のための控え室にしたり、料理を

        「手伝いさん」たちと作ったりしていました。なんだか日本の田舎の生活

        が、そのまま東京の下町にあるようでした、、、。稲次郎さんも享子さ

        んも、そのようにして送られたのでしょうか、、、? 



追記の追記の追記 友人が教えてくれました。池田勇人総理(当時)の追悼演説の有名

          なくだりだそうです。(「沼」は浅沼さんのこと。)


          沼は演説百姓よ

          よごれた服にボロカバン

          きょうは本所の公会堂

          あすは京都の辻の寺

          (中略)

          君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに

          質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、

          これを日常の楽しみとされたのであります。 

 

 

                                   

 

  


白河4丁目「白河こどもとしょかん」


         




追記の4っ目  2′45″あたり、たしかに浅沼稲次郎さんの家は10号館でした。

        浅沼稲次郎さんは13′50″あたりにチラッと出て来ます。

 
       



 

追記の5っ目        当時のニュース映像を見つけました。浅沼稲次郎さんの住んでいた、同潤会アパート

        の玄関や室内、犬の散歩姿、葬儀の様子も出て来ます。「Youtubeで見る」をクリック

        して下さい。

 

        

 

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モーレ・アントネリアーナ(Mole Antonelliana)

2015-08-05 20:03:44 | 日記
昔、若桑みどりさんがNHKの市民大学講座で紹介していた、北イタリアはトリノ市にあ

る「塔」です。














建ったのは1889年、高さは167.5m、設計したのは建築家のアレッサンド・アントネッリロ

という人なんだそうです。当時は、エッフェル塔とワシントンのオベリスクの次に高かっ

たそうな、、、。若桑みどりさんの解説によると、イタリアの都市国家間では「他所の街

には負けるな」の競争意識が尋常ではなく、他の街を視察しては負けないものを作ってい

たんだとか、、、。(日本でも市町村の議員さんなど、あちこち視察しては「あの町でも、

なんとかいう建物を作って良さそうだから、うちらのところでも作るか」などとやってい

ますよね。) このモーレ・アントネリアーナ、最初はユダヤ教のシナゴーグのはずだっ

たのが、気が付いてみたら建築家に勝手に、他所の街に負けない高さの「塔」にされてしま

って、ユダヤの人が建築家を解雇したのだとか、、、。(今は映画の博物館のようです。)









その解雇された建築家のアレッサンド・アントネッリロさん。





やはりなんだか、一癖もニ癖もありそうな、偏屈で頑固そうな感じです、、、。



こちらは同じイタリアはトスカーナの街、サン・ジミニャーノ。





やはり、よその街には負けるなっていうので、何に使うのか訳の判らない「塔」を、たくさ

ん立てちゃった、、、。(でも世界遺産)



こちらはアメリカの摩天楼を設計した、当時の建築家の方々の仮装した写真。     





左から A. Stewart Walkerさん (Fuller Building), Leonard Schultzeさん (Waldorf-

Astoria), Ely Jacques Kahnさん (Squibb Building), William Van Alenさん(Chrysler

Building), Ralph Walkerさん (1 Wall Street), D.E.Wardさん (MetropolitanTower),

Joseph H. Freelander さん(Museum of New York)。


ユダヤ系やドイツ系の方が多かったのでしょうか、、、?



まっ、何にしても、人間って変な生き物ですねぇー、、、、。





追記  モーレ・アントネリアーナの図面

    



    アレッサンド・アントネッリロが亡くなったのは1888年ですから、解雇されたのは、その

     ずーっと前でしょうから、解雇された後もニョキニョキ高くなったんでしょうか、、、?

    




     上層階のドームの直下のホールには、ワイヤーだけで繋がれた『不思議なエレベーター』が

    クーポラの展望台にお客さんを運んでるのかな、、、?

    




    今でもトリノの街のシンボルみたいです。

     





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