Kennyのブログあれこれ

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日記(5.5) 妻沼道の駅

2014-05-05 15:05:00 | 日記
5月5日 (月曜日)  曇り

曇天の空で、昨日に比較して肌寒く感じる。
雨は降らなそうで・・畑に行って水くれをする。

昨日、体操教室の疲れが足腰に残っている。
これから先、後になってからの疲れがどんどん遅くなって出てくるなあ~。
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午前中、買い物ついでに、妻沼の道の駅まで出かける。
その前に、畑用の薬剤も購入して・・・
流石に野菜の苗売り場も、一段落したのか?少し静かになってきた。

野菜も少し買って・・・・

いつもの様に孫君もついてくる。


バラの花は、もう1Wくらい後が見頃かな!

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焼きまんじゅうを買って、早速食べ始めている。



モッコウバラのゲートが綺麗だ。天気が良ければ更に光っていいのだが・・
今日はお店が混雑している。さすがに連休だ!
お昼用に稲荷寿司を買って帰宅。
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道の駅のガーデンを見ながら、
昨日の新聞記事
余録をおもいだしている。・・

「江戸は庭園の町である」。



幕末に来日したスイス領事リンダウはこう記した。
「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋め尽くしているので、
遠くから見ると無限に広がる一つの公園の感を与える」


当時江戸はその人口で世界最大といわれた巨大都市だった。
だが数多くの寺社や大名の庭園などが作り出す緑豊かな光景が外国人を魅了した。
「欧州にはこれほど多くのまったく独特のすばらしい容貌を見せる首都はない」とは英国初代総領事オールコックの言葉だ。

だが、この庭園都市の景観も明治になると急激に失われたらしい。
「かつての日本への旅行者を魅了した
不思議な美しさの大部分は街に見られなくなってしまった」

仏人紀行作家コトーが書いたのは1884(明治17)年だった
(渡辺京二(わたなべ・きょうじ)著「逝きし世の面影」)

緑がアスファルトやコンクリートに変わり、
100年前に比べ平均気温が3度以上も上昇した東京である。

昨夏の猛暑で初めて最低気温が30度を上回る日があったのも、
ヒートアイランド現象の影響とみられている。
ここは少しでも緑を呼び戻し熱の蓄積を抑えたい。

都市の大規模緑地は涼しい空気を蓄え、
周囲に送り出す「クールアイランド」としての役割を果たすという。

市街地のビルの屋上緑化や壁面緑化の取り組みも進められている。
かつての「庭園都市」の面影を街のそこここによみがえらせていきたい
21世紀の東京である。

来日外国人が幕末の江戸でもう一つ驚いたのは
庶民が花や緑を育てるのに熱心なことだった。
この連休、ご先祖にあやかってガーデニングや緑のカーテン作りなどを楽しむのも
その一助になろう。

とあった。

☆コンクリート・ジャングルと言われて久しいが、
 まだまだコンクリートとアスファルトの建造物時代は続くのかな~あ。
 せめて狭い庭の土は出しておきたい。
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蛇足)
スイス領事の見た幕末日本(ルドルフ・リンダウ著)
第一章 長崎(1)
リンダウは一人でピクニックに出掛けると
「彼らに近づきになりたい気持ちが湧くたびに、
いつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないだろう。」

「火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子が
あわてて火鉢を持ってきてくれるのである。・・・
父親は私に腰掛けるように勧め、母親は、丁寧に挨拶をして、
お茶を出してくれる。・・・
ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、
笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出していくこともあった。
幾つかの金属製のボタンを与えると、子供たちはすっかり喜ぶのだった。
「大変ありがとう」と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。
そして跪いて、可愛い頭を下げて微笑むのであったが、
社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。」
立ち去る時には道の外れまで見送ってくれて
「さよなら、またみょうにち」
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第九章 横浜
「別当(べっとー)(下僕)」について
主人が外出する時いつもお供をしなければならない若い召使いである。
馬の世話をし、馬の先を歩く、または走る。
しかし、品が悪く、酒好き博打好きで仲間と喧嘩をする。
同じ街のすべての別当は同業者組合員で「高い年貢」を長に納めるが
職がない時には面倒を見る。

第十章 江戸(1)
川崎の大師河原・平間寺の門前で。
「病弱なあるいは手足が効かなくなって癩病を患った物乞いが、
われわれの慈悲を求めてやってきた。
一般的に言って日本には貧民は殆どいない。
物質的生活には殆ど金がかからないので、
物乞いすらまさに悩むべき立場にないのである。」
物乞いは路上や大通りにはおらず、寺院の周りにたむろしているという。

第十三章 横浜近郊(1)
日本の料理について。
「まず食用肉が全く欠如しているということである。
動物の世界は鳥と魚によってしか代表されていないのである。
貧乏人は、米と野菜しか食べない。
彼らはこのやや不味い食物を強い山葵や芥子を振りかけて味を良くする。
もっと裕福な人々の中ではご飯に刺身と煮魚、ゆで玉子、
それに林檎、梨、葡萄、蜜柑といった果実、更に菓子が付く。」
「・・・これらの酒をたしなむ機会は稀ではない。日本人は世界で最も人付き合いのよい人間なので、食卓を囲んで友達と集うのがすきだからである。」

「上手な日本料理の板前は、ヴァーテル(17世紀フランスのコンデ公の料理長として有名)
と同じように、目を楽しませる料理を準備する技を持っており、
社会の最も低い階層においてすら、食欲をそそる方法で食事を供するように努めている。
不潔というのは、私がこれまで、何一つ不平を言ったり聞いたりしたことがない程までに
無縁のことである。」
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日本の夜は「大層美しい」しく、
「日本を訪れた気象学者たちは、全く固有の現象とみており、
これまでその原因の発見に努力してきているほどである。」

第十四章 横浜近郊(2)
笑い。

「日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。
良いにせよ、悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。
そして子供のように、笑い始めたとなると、
理由無く笑い続けるのである。

ー訳者あとがきー
ルドルフ・リンダウ。
プロシャ生まれ、外交官、文筆家
スイス時計組合からスイス通商調査派遣隊の隊長として1859年9月に長崎上陸。
一旦日本を去り、上海へ。
1861年9月、再び長崎に上陸。
同年10月26日から日本周遊の旅に。

本書はその時の見聞で、原題は「日本周遊旅行」(1864年に出版)。
1864年、スイスの駐日領事として、三たび来日。

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大凡150年前の幕末の日本の風景や人々の暮らしを
外国人が見た日本の旅日記。
日本人のルーツに少しだけ触れられる。
当時に生まれていたらと・・・想像は膨らむ。