5月8日 (木曜日) 晴れ
午後は風
昨日、種から育てた、キュウリ・かぼちゃの苗を植えた。
苗を植えた午後、または翌日は必ず強い風が吹いて
弱い苗を痛めつける。
まさにマーフィーの法則である。

一応ネットをかけて保護はしてみたが、どうかなあ~?
スイカの苗も大丈夫の様子。

レタスは巻いたので、少しづつ、収穫を・・・

他の物は何んとか活着しそうである。

ニンニクも植えたがあまり元気がない。

玉葱・苺がもう少しで・・・ある。


またカラカラ状態が続いている。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日は会社時代の友W君が訪ねてきてくれて
昼食をとりながら・・近況・雑談・PCの話であっという間に
時間が過ぎて行った。
彼の娘さんも来週結婚式で、ちょっとさみしいらしい。

==~~~~~~~~~~~~~~~~~
そう言えばもうすぐ母の日。
孝行の絶好のチャンス!ではあるが
”墓に布団は着せられず”・・もう遠い・・もっと孝行しておけばと・・
今はして貰う身に・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

母の日のはじまりは、
アメリカのウエスト・バージニア州に住んでいた
アンナ・ジャービスさんが、教会の教師をしていた
お母さんの命日に白いカーネーションを信者たちに配ったのが始まりです。
アンナさんは、多くの人々がもっと母親を大切にできれば・・と考えて、
母親のための祝日をつくる運動を始めました。
そして、アンナさんの努力が報われて
「母の日」の法律が1914年、議会の決議によって定められ、
5月の第2日曜日が「母の日」として国家的な行事に認められました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本では教会の働きかけなどによって広まり、
昭和24年頃から行事として定着するようになりました。
子供が赤いカーネーションを胸につけたり、
(お母さんを亡くした者は白いカーネーション)
お母さんに贈ったり、
お母さんの愛に感謝する日。
最近はカーネーションだけでなく品物を送るのも一般 的です。
また、父親と子供たちが協力して家事を分担し、
お母さんに一日ゆっくりとくつろいでもらうのもなによりのプレゼントです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


アンナ・ジャービスの母親は、
「アン・ジャービス(Ann R Jarvis)」11人兄弟の家庭に産まれました。
当時のウエストヴァージニア州は医療水準も低く、
その中で成人できたのはアン・ジャービスを含め4人だけだったと言われています。
そのような環境で育ったアン・ジャービスですが、
敬虔なクリスチャンとして教会での祈りは常に欠かしませんでした。
やがて牧師と結婚した、アン・ジャービスは、地域の医療・衛生環境を改善しようと、「Mothers Day Work Club」というボランティア団体を組織し、
社会運動家として活躍していました。
南北戦争(1861年)が開戦した年、
まだ衛生状態の悪いことが原因で両軍の兵士の間で
伝染病が流行することになりました。
彼女は中立を宣言し、北軍も南軍も関係なく、
全ての兵士たちに助けの手を差し出したのです。
この活動はアメリカ国内でも広く報道されていました。
南北戦争終戦後もアン・ジャービスの活動は続き、
南北双方の兵士や地域の人々を招いたイベントを成功させるなど、
平和を願って献身的に働きました。
女性が社会的弱者だった時代に、こうした母親としての社会活動は
大変意義のあるものであり、社会改革に大きく貢献しました。
==========================
とありました。
子供のころはその歴史も知らず、ただ赤いカーネーションを
渡していただけだった。・・・・

昨日、種から育てた、キュウリ・かぼちゃの苗を植えた。
苗を植えた午後、または翌日は必ず強い風が吹いて
弱い苗を痛めつける。
まさにマーフィーの法則である。

一応ネットをかけて保護はしてみたが、どうかなあ~?
スイカの苗も大丈夫の様子。

レタスは巻いたので、少しづつ、収穫を・・・

他の物は何んとか活着しそうである。

ニンニクも植えたがあまり元気がない。

玉葱・苺がもう少しで・・・ある。


またカラカラ状態が続いている。




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今日は会社時代の友W君が訪ねてきてくれて
昼食をとりながら・・近況・雑談・PCの話であっという間に
時間が過ぎて行った。

彼の娘さんも来週結婚式で、ちょっとさみしいらしい。


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そう言えばもうすぐ母の日。
孝行の絶好のチャンス!ではあるが
”墓に布団は着せられず”・・もう遠い・・もっと孝行しておけばと・・
今はして貰う身に・・・。
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母の日のはじまりは、
アメリカのウエスト・バージニア州に住んでいた
アンナ・ジャービスさんが、教会の教師をしていた
お母さんの命日に白いカーネーションを信者たちに配ったのが始まりです。
アンナさんは、多くの人々がもっと母親を大切にできれば・・と考えて、
母親のための祝日をつくる運動を始めました。
そして、アンナさんの努力が報われて
「母の日」の法律が1914年、議会の決議によって定められ、
5月の第2日曜日が「母の日」として国家的な行事に認められました。
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日本では教会の働きかけなどによって広まり、
昭和24年頃から行事として定着するようになりました。
子供が赤いカーネーションを胸につけたり、
(お母さんを亡くした者は白いカーネーション)
お母さんに贈ったり、
お母さんの愛に感謝する日。
最近はカーネーションだけでなく品物を送るのも一般 的です。
また、父親と子供たちが協力して家事を分担し、
お母さんに一日ゆっくりとくつろいでもらうのもなによりのプレゼントです。

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アンナ・ジャービスの母親は、
「アン・ジャービス(Ann R Jarvis)」11人兄弟の家庭に産まれました。
当時のウエストヴァージニア州は医療水準も低く、
その中で成人できたのはアン・ジャービスを含め4人だけだったと言われています。
そのような環境で育ったアン・ジャービスですが、
敬虔なクリスチャンとして教会での祈りは常に欠かしませんでした。
やがて牧師と結婚した、アン・ジャービスは、地域の医療・衛生環境を改善しようと、「Mothers Day Work Club」というボランティア団体を組織し、
社会運動家として活躍していました。
南北戦争(1861年)が開戦した年、
まだ衛生状態の悪いことが原因で両軍の兵士の間で
伝染病が流行することになりました。
彼女は中立を宣言し、北軍も南軍も関係なく、
全ての兵士たちに助けの手を差し出したのです。
この活動はアメリカ国内でも広く報道されていました。
南北戦争終戦後もアン・ジャービスの活動は続き、
南北双方の兵士や地域の人々を招いたイベントを成功させるなど、
平和を願って献身的に働きました。
女性が社会的弱者だった時代に、こうした母親としての社会活動は
大変意義のあるものであり、社会改革に大きく貢献しました。
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とありました。
子供のころはその歴史も知らず、ただ赤いカーネーションを
渡していただけだった。・・・・
