ブログを始めてみて、思ったのは、書きたいことが沢山あるということだ。「ただ生活しているだけで、悲しみはそこここに積もる」と『秒速5センチメートル』の主人公タカキは独白しているけれど、ただ生活しているだけで、言いたいことはどんどん溜まってくる。こんなにもおれは何かを発言したいんだ、と今更ながらそのことに気付き、恥ずかしくなる。「ブログを始めるっていうのは自己顕示欲の強い人のすることじゃないのか?」と思ってしまうあたり、ブログ流行りの今の時代からは取り残されているのかなあと不安になるけど、でも不安と言うより、ブログをやっているというのはやっぱり少し恥ずかしい。けど、誰にでも「書きたい」という欲求はあったって不思議じゃないし、恥ずかしがることではないのかもしれないな。
ところで、読むことが最近苦痛だ。神経症のようなものを患っているせいで、しばしば調子が悪くなる。そうなると、とても読書などできない。でも、こうなる前から、既に読書は単純に楽しいだけのものではなくなっていた。あれも読まなきゃ、これも、と思う気持ちはひょっとしたら愉快なものなのかもしれないけど、おれの場合、追い立てられているような気分にさせられて――焦燥感、と言うのだろうか?――読むのが辛くなる。もはや自己満足のために読んでいて、楽しみのためではない。これは娯楽ではない。一種の拷問だ。読んでいてつまらないと感じても、全て読まなくては、と義務感に急き立てられ、我慢して最後まで読み通す。ああ、やだなあ、と思う。一方で、語学の勉強もせねばならず、そのせいで読書の時間が削られてしまうのが耐えられない。両立は難しいのだ。読むのが嫌だと言っているのに、読書の時間がなくなるのは嫌だと言っているのだから、訳がわからないだろうけど、でもそうなのだ。
ときどき調子のいいときなどは、昔の読書欲が甦ってきて、あれを読みたいな、などと自分の研究とは全く関係のない本を読んだりする。その一つがカポーティの『草の竪琴』だ。これは、『秒速5センチメートル』のアカリがホームで手に取っていた小説で、ただそれだけの理由で、読んでみたいと思った。実際に読んでみて、樹の上に住む、という発想など、先のカルヴィーノの『木のぼり男爵』と似ている。内面的な少年の目線を通して外界を眺める、といった小説だけど、内容がつまらなかったせいか、それともおれの集中力が切れていたせいか、前半はあまりのめりこめなかった。後半ものめりこむほどには楽しめなかったけど、それでも幾つかの美しい細部に出会うことができた。読書はやはり集中力のあるときにするものだと思う。
話はがらりと変わるけど、この間、自国へ帰る英語の先生を送る送別会が大学の研究室であった。おれは出席しなかった。というのも、その先生の授業には出ていなかったためほとんど接点がなかったからだ。もちろん、こういうのは一人でも人数が増えた方が賑やかでいいのだろうけど、おれが行くのは場違いな気がした。それに、研究室には親しい人がおらず、行っても孤独を味わうだけなのは火を見るよりも明らかだったからだ。わざわざ孤独を得るために学校まで行くのは馬鹿げている。そう思って、行かなかった。かわりに、図書館へ行って、『見えない都市』と『草の竪琴』とエリオットの詩集を借りてきた。そのときはまだブログを作っていなかったけど、こういう経緯でこういうものを読んでいるうちに、なにかしら書きたいことが出てくるのだと、そう思った。
ところで、読むことが最近苦痛だ。神経症のようなものを患っているせいで、しばしば調子が悪くなる。そうなると、とても読書などできない。でも、こうなる前から、既に読書は単純に楽しいだけのものではなくなっていた。あれも読まなきゃ、これも、と思う気持ちはひょっとしたら愉快なものなのかもしれないけど、おれの場合、追い立てられているような気分にさせられて――焦燥感、と言うのだろうか?――読むのが辛くなる。もはや自己満足のために読んでいて、楽しみのためではない。これは娯楽ではない。一種の拷問だ。読んでいてつまらないと感じても、全て読まなくては、と義務感に急き立てられ、我慢して最後まで読み通す。ああ、やだなあ、と思う。一方で、語学の勉強もせねばならず、そのせいで読書の時間が削られてしまうのが耐えられない。両立は難しいのだ。読むのが嫌だと言っているのに、読書の時間がなくなるのは嫌だと言っているのだから、訳がわからないだろうけど、でもそうなのだ。
ときどき調子のいいときなどは、昔の読書欲が甦ってきて、あれを読みたいな、などと自分の研究とは全く関係のない本を読んだりする。その一つがカポーティの『草の竪琴』だ。これは、『秒速5センチメートル』のアカリがホームで手に取っていた小説で、ただそれだけの理由で、読んでみたいと思った。実際に読んでみて、樹の上に住む、という発想など、先のカルヴィーノの『木のぼり男爵』と似ている。内面的な少年の目線を通して外界を眺める、といった小説だけど、内容がつまらなかったせいか、それともおれの集中力が切れていたせいか、前半はあまりのめりこめなかった。後半ものめりこむほどには楽しめなかったけど、それでも幾つかの美しい細部に出会うことができた。読書はやはり集中力のあるときにするものだと思う。
話はがらりと変わるけど、この間、自国へ帰る英語の先生を送る送別会が大学の研究室であった。おれは出席しなかった。というのも、その先生の授業には出ていなかったためほとんど接点がなかったからだ。もちろん、こういうのは一人でも人数が増えた方が賑やかでいいのだろうけど、おれが行くのは場違いな気がした。それに、研究室には親しい人がおらず、行っても孤独を味わうだけなのは火を見るよりも明らかだったからだ。わざわざ孤独を得るために学校まで行くのは馬鹿げている。そう思って、行かなかった。かわりに、図書館へ行って、『見えない都市』と『草の竪琴』とエリオットの詩集を借りてきた。そのときはまだブログを作っていなかったけど、こういう経緯でこういうものを読んでいるうちに、なにかしら書きたいことが出てくるのだと、そう思った。