Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

書くこと、読むこと、そして送別会

2008-04-15 23:48:45 | Weblog
ブログを始めてみて、思ったのは、書きたいことが沢山あるということだ。「ただ生活しているだけで、悲しみはそこここに積もる」と『秒速5センチメートル』の主人公タカキは独白しているけれど、ただ生活しているだけで、言いたいことはどんどん溜まってくる。こんなにもおれは何かを発言したいんだ、と今更ながらそのことに気付き、恥ずかしくなる。「ブログを始めるっていうのは自己顕示欲の強い人のすることじゃないのか?」と思ってしまうあたり、ブログ流行りの今の時代からは取り残されているのかなあと不安になるけど、でも不安と言うより、ブログをやっているというのはやっぱり少し恥ずかしい。けど、誰にでも「書きたい」という欲求はあったって不思議じゃないし、恥ずかしがることではないのかもしれないな。

ところで、読むことが最近苦痛だ。神経症のようなものを患っているせいで、しばしば調子が悪くなる。そうなると、とても読書などできない。でも、こうなる前から、既に読書は単純に楽しいだけのものではなくなっていた。あれも読まなきゃ、これも、と思う気持ちはひょっとしたら愉快なものなのかもしれないけど、おれの場合、追い立てられているような気分にさせられて――焦燥感、と言うのだろうか?――読むのが辛くなる。もはや自己満足のために読んでいて、楽しみのためではない。これは娯楽ではない。一種の拷問だ。読んでいてつまらないと感じても、全て読まなくては、と義務感に急き立てられ、我慢して最後まで読み通す。ああ、やだなあ、と思う。一方で、語学の勉強もせねばならず、そのせいで読書の時間が削られてしまうのが耐えられない。両立は難しいのだ。読むのが嫌だと言っているのに、読書の時間がなくなるのは嫌だと言っているのだから、訳がわからないだろうけど、でもそうなのだ。

ときどき調子のいいときなどは、昔の読書欲が甦ってきて、あれを読みたいな、などと自分の研究とは全く関係のない本を読んだりする。その一つがカポーティの『草の竪琴』だ。これは、『秒速5センチメートル』のアカリがホームで手に取っていた小説で、ただそれだけの理由で、読んでみたいと思った。実際に読んでみて、樹の上に住む、という発想など、先のカルヴィーノの『木のぼり男爵』と似ている。内面的な少年の目線を通して外界を眺める、といった小説だけど、内容がつまらなかったせいか、それともおれの集中力が切れていたせいか、前半はあまりのめりこめなかった。後半ものめりこむほどには楽しめなかったけど、それでも幾つかの美しい細部に出会うことができた。読書はやはり集中力のあるときにするものだと思う。

話はがらりと変わるけど、この間、自国へ帰る英語の先生を送る送別会が大学の研究室であった。おれは出席しなかった。というのも、その先生の授業には出ていなかったためほとんど接点がなかったからだ。もちろん、こういうのは一人でも人数が増えた方が賑やかでいいのだろうけど、おれが行くのは場違いな気がした。それに、研究室には親しい人がおらず、行っても孤独を味わうだけなのは火を見るよりも明らかだったからだ。わざわざ孤独を得るために学校まで行くのは馬鹿げている。そう思って、行かなかった。かわりに、図書館へ行って、『見えない都市』と『草の竪琴』とエリオットの詩集を借りてきた。そのときはまだブログを作っていなかったけど、こういう経緯でこういうものを読んでいるうちに、なにかしら書きたいことが出てくるのだと、そう思った。

こしあん派かつぶあん派か

2008-04-15 23:06:33 | テレビ
今日、NHKのスタジオパークを見ていたら、天野祐吉がおもしろいことを言っていた。曰く、こしあんとつぶあんのどちらが好きかで、その人の性格が分かる、と言うのだ。こしあんが好きな人は洗練志向、つぶあんが好きな人は野生志向だそうだ。そればかりでなく、日本はこしあん文化とつぶあん文化がせめぎあってきたという。つまり、洗練さと粗雑さの二つの潮流が主導権を争ってきたと言うのだ。前者は西の弥生文化、後者は東の縄文文化に相当するらしい。たとえばこしあんは芭蕉、つぶあんは一茶だそうだ。真偽はともかくとして、これは立派な日本文化論になっていて、その切り口がとてもユニークではないか。

ちなみに、おれはこしあん派で、言われてみると確かに洗練さを志向している気がする。ただ、最近は粗野なのもいいなあと思っていて、それと軌を一にするかのように、つぶあんへの興味も出てきている…。これは、なかなかどうして的を射ているではないか1?

さあ、あなたはこしあん派、それともつぶあん派?

加藤久仁生『或る旅人の日記』

2008-04-15 02:01:35 | アニメーション
このブログの読者が最低一人(たぶん最高でも一人)いることが分かったので、はりきって書きます。

さて、下に書いた『見えない都市』ですが、これをアニメーションにしたらおもしろいな、と思いながら読んでいました。わたしの趣味はアニメーションなので、小説を読むときも自然、こういうことを考えてしまうのです。

で、誰がアニメーションを作るべきか、と思いをめぐらせると――いや、めぐらせるまでもなく、一人の男の名前が浮かびましだ。加藤久仁夫。『或る旅人の日記』を作った人です。これはいわゆるアート系アニメーションに分類される作品でしょうが(非商業的な個人制作という意味でも)、そんなに肩肘張ったものではなく、なかなか雰囲気があって気楽に見ることが出来ます。私はこの作品の出来栄えに関しては、それほど高い評価をしていないのですが、でも、この作品とカルヴィーノの『見えない都市』とが、妙に似ている気がするのです。色々な都市を旅する、という点で。ひょっとすると加藤久仁夫はカルヴィーノに影響を受けているのかも…ホントか?

見えない都市

2008-04-15 00:03:00 | 文学
今更、という声も聞こえてきそうだけど、カルヴィーノの『見えない都市』を読んだ。カルヴィーノは他に、「われらの祖先」三部作をもう大分前に読んだきりで、久々だった。

で、感想。集中しないと読み落としてしまうな、という感じ。そう思ってところどころ集中して読んだのだけど、やっぱり多くの箇所でおれは重要なところを見落としてしまったんだろうな、と思う。それでも。それでも、幾つかの箇所(というか「都市」)は興味深く、詩的に感じた部分もあった。特に、「都市と交易1」など。「思い出を商うのでございます」というところにぐっときた。他にも、「都市と死者2」の、死んだ人の顔に似ている人たちばかりと出会う都市もいい。ここには、生きている人よりも死んだ人のほうが知っている人が多くなる年齢に近づいてきた、というような記述があって、なるほど人生だなあ、と思った。まだけっこうあったけど、忘れてしまった。ぼんやりと覚えているだけで。

ところで、このブログは誰かおれ以外の人は読んでくれるのだろうか?検索で引っかかるのかなあ。引っかかるまで、おれの読書の備忘録みたいな感じで書いていきますか…