Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

サド侯爵夫人

2012-04-02 23:45:27 | 文学
三島由紀夫『サド侯爵夫人』を読む。ご存知のように戯曲。

この作品は、かのサド侯爵を巡る6人の女性の対話劇であり、サド本人は舞台に登場しません。というのも、これは三島由紀夫によれば「女性によるサド論」だからであり、貞節を貫いていたサド夫人がなぜサドが牢から解放されるとなると別れてしまったのか、という三島の疑問を解消するために書かれた戯曲だからです。

しかしながら、サド侯爵は間違いなくこの戯曲の中心人物であり、女性たちは彼の周りを取り巻いているに過ぎません。まさにその取り巻き方を描いたのが本作です。いわば、主役不在の劇なのです。・・・こうした見方をしたいのは、世界文学史上には、やはり主役不在の劇が幾つか存在するからです。その最も有名な作品はベケット『ゴドーを待ちながら』であり、またロシアの文豪ブルガーコフも『アレクサンドル・プーシキン』という、プーシキン不在の戯曲を書いています。ブルガーコフの作品は、キリスト不在のキリスト劇になぞらえられることがあるそうですが、思えば「ゴドー」とは「God ゴッド」の謂いであるかもしれず、主役不在の劇は、しばしばキリストあるいは神を射程に捉えています。

とすれば、『サド侯爵夫人』という作品にも、キリストや神へのアレゴリーが忍ばされているのではないか、と勘繰りたくなるのが人情です。この作品自体や、澁澤龍彦による解題を読むと、三島由紀夫のサドは無垢の人として造形されていることが分かります。無垢ゆえの純粋さと残虐さという、両面価値性を体現しているのがサドなのだと。「悪の中から光りを紡ぎ出し、汚濁を集めて神聖さを作り出し」、「あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしている」、「天国への裏階段をつけた」サド。「悪の水晶」を創り出し、いやそればかりか我々の住んでいるこの世界がサドの創造した世界なのだと侯爵夫人ルネは語ります。創造主としてのサド。まさしく、サドは創造主にも比肩する存在として表象されており、悪徳の神なのです。サド侯爵とは自分自身なのではないかと考えていたルネ夫人は、しかしその思い違いに気が付きます。サドは、あまりにも遠くに、高くに行ってしまっている!だからこそ彼女はサドと別れる決意を、すなわち修道院へと籠る決意をするのです。その行為はしかし、見かけ上はサドからの離反を示しているものの、実際のところはサドにより肉薄するための手立てだったようにも思えます。悪の頂きの上、天国の近くにいるサドに接近するためには、神への帰依こそが近道だからです。サドのように悪行の限りを尽くすことのできない凡人にとっては。

ルネは、決して心変わりをしたのではありません。その貞節は徹底的でした。もしもこれを愛と言ってよいのならば、サドへの愛のために、ルネは修道院に入るのです。これが、人界を超越したサドに近づく最良の方法だからです。

この戯曲が一般にどのように解釈されているのかは知りませんが、ぼくは上記のような感想を持ちました。それにしても、第二幕での母娘の対立の緊張感と高揚感と幕切れの仕方は、すばらしかった。