三島由紀夫『朱雀家の滅亡』を読む。またしても戯曲。
貴族(華族)の凋落、というテーマで古典的なのは、やはりチェーホフ『桜の園』ですが、それを下敷きにしている太宰治『斜陽』も数の中に組み入れてもよいでしょう。そういった系譜に連なる戯曲であるとみなせます。もっとも、三島由紀夫が言うには、これはエウリピデス『ヘラクレス』を翻案したものであるようですが、しかし三島自身による梗概を読む限りでは、彼の考える巨大で抽象的なテーマ性において近似しているのみで、印象はまるで違います。つまり、子殺し・母殺しといったテーマ性のみを借用して、まるで違う物語を構築してしまったように思えます。まあ、エウリピデスの作品を読んでいないので実は何とも言えないのですが、梗概を読む限りでは、全然別の作品のように感じられてしまう。恐らくそれは、『朱雀家の滅亡』が純日本的な設定を持っているからでしょう。戦中の華族が天皇に捧げる忠義と、死地に赴く若者の捨て身の覚悟。
それはさて擱くとして、『朱雀家の滅亡』の二面性というものについて少し思うところがありました。これは、忠節の末路を嘆く芝居なのか、それともそれを推奨する芝居なのか。失われゆく秩序を慨嘆するのか、来るべき新しいまだ誰も見たことのない秩序を称賛するのか。こうした両面性は、貴族の没落を描くときには必ずや付随するものであり、チェーホフや太宰治の作品にも当てはまります。作家本人には、どちらかへの肩入れがあったのかもしれませんが、しかし個人的には、読む者/観る者がどちらにより自分の思いを託すのか、共感するのか、ということの方が大事に思われます。旧秩序の崩落か、新秩序の勃興か。三島由紀夫はどちらにより照明を当てていたのか、ということは既に証明されているのかもしれない。チェーホフは、どちらの肩を持っていたのか、ということも。よしんば今分からなくとも、将来、確かなデータによって一つの推定が裏付けられるかもしれません。でも、我々がどちらに共感するのか、ということは全くもって不確定な事柄であって、言い換えれば完全に自由です。ひとたび正解が提示されれば、そうではない感想は「誤読」として退けられてしまうかもしれませんが、けれどもわれわれの共感や感想には本来正解も間違いもありません。読者がどちらに与するのか、というのは、読者のその時々の状況によって大きく変わります。昨日の感想と明日の感想が違うことは大いにありうるわけです。
没落貴族の悲哀。それに共感するとかしないとか、そういった議論はあるいはもう古いのかもしれません。しかし新旧の交代はいつの世にもあり、ぼくらはいつもそのどちらかに属しています。もちろん、絶えず位置を変えながら。その意味では、『朱雀家』の物語は普遍的であり、ぼくらは常に問われているのかもしれません、「あなたはどちら側の人間ですか」と。
いや、違うな。なんだか違う気がします。でもよく分からないのでこれでおしまい。いずれにしろ、とてもおもしろい戯曲でした。
貴族(華族)の凋落、というテーマで古典的なのは、やはりチェーホフ『桜の園』ですが、それを下敷きにしている太宰治『斜陽』も数の中に組み入れてもよいでしょう。そういった系譜に連なる戯曲であるとみなせます。もっとも、三島由紀夫が言うには、これはエウリピデス『ヘラクレス』を翻案したものであるようですが、しかし三島自身による梗概を読む限りでは、彼の考える巨大で抽象的なテーマ性において近似しているのみで、印象はまるで違います。つまり、子殺し・母殺しといったテーマ性のみを借用して、まるで違う物語を構築してしまったように思えます。まあ、エウリピデスの作品を読んでいないので実は何とも言えないのですが、梗概を読む限りでは、全然別の作品のように感じられてしまう。恐らくそれは、『朱雀家の滅亡』が純日本的な設定を持っているからでしょう。戦中の華族が天皇に捧げる忠義と、死地に赴く若者の捨て身の覚悟。
それはさて擱くとして、『朱雀家の滅亡』の二面性というものについて少し思うところがありました。これは、忠節の末路を嘆く芝居なのか、それともそれを推奨する芝居なのか。失われゆく秩序を慨嘆するのか、来るべき新しいまだ誰も見たことのない秩序を称賛するのか。こうした両面性は、貴族の没落を描くときには必ずや付随するものであり、チェーホフや太宰治の作品にも当てはまります。作家本人には、どちらかへの肩入れがあったのかもしれませんが、しかし個人的には、読む者/観る者がどちらにより自分の思いを託すのか、共感するのか、ということの方が大事に思われます。旧秩序の崩落か、新秩序の勃興か。三島由紀夫はどちらにより照明を当てていたのか、ということは既に証明されているのかもしれない。チェーホフは、どちらの肩を持っていたのか、ということも。よしんば今分からなくとも、将来、確かなデータによって一つの推定が裏付けられるかもしれません。でも、我々がどちらに共感するのか、ということは全くもって不確定な事柄であって、言い換えれば完全に自由です。ひとたび正解が提示されれば、そうではない感想は「誤読」として退けられてしまうかもしれませんが、けれどもわれわれの共感や感想には本来正解も間違いもありません。読者がどちらに与するのか、というのは、読者のその時々の状況によって大きく変わります。昨日の感想と明日の感想が違うことは大いにありうるわけです。
没落貴族の悲哀。それに共感するとかしないとか、そういった議論はあるいはもう古いのかもしれません。しかし新旧の交代はいつの世にもあり、ぼくらはいつもそのどちらかに属しています。もちろん、絶えず位置を変えながら。その意味では、『朱雀家』の物語は普遍的であり、ぼくらは常に問われているのかもしれません、「あなたはどちら側の人間ですか」と。
いや、違うな。なんだか違う気がします。でもよく分からないのでこれでおしまい。いずれにしろ、とてもおもしろい戯曲でした。