Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

心機一転

2012-04-06 22:57:02 | Weblog
定期券を買いに駅まで行ったら、途中で真新しい制服を着た中学生や高校生たちを見かけました。初々しいなあ。一目で新品と分かる制服!っていいね。

3日前から読んでいたロシア語のエッセーを読み終えて、今日から新しい論文に突入。まあ実はこれも数日で終わらせる予定で、これの後に大物に取り掛かる心算。

更には、きのうから実況プレイはロマサガ3に。益々はまりそうな予感がします。ところでロマサガ3は10年以上前に友達から借りてやっただけなので、ほとんど忘れてしまっています。でも楽しめる。ひらめいた瞬間は、観ているこっちまでうれしい。

というわけで、季節は春になり、新しいことを始め出しました。もっとも、新しいと言っても読書とネットというジャンルは不変ですけどね。

さあて、これからロマサガロマサガ。

朱雀家の滅亡

2012-04-03 22:52:19 | 文学
三島由紀夫『朱雀家の滅亡』を読む。またしても戯曲。

貴族(華族)の凋落、というテーマで古典的なのは、やはりチェーホフ『桜の園』ですが、それを下敷きにしている太宰治『斜陽』も数の中に組み入れてもよいでしょう。そういった系譜に連なる戯曲であるとみなせます。もっとも、三島由紀夫が言うには、これはエウリピデス『ヘラクレス』を翻案したものであるようですが、しかし三島自身による梗概を読む限りでは、彼の考える巨大で抽象的なテーマ性において近似しているのみで、印象はまるで違います。つまり、子殺し・母殺しといったテーマ性のみを借用して、まるで違う物語を構築してしまったように思えます。まあ、エウリピデスの作品を読んでいないので実は何とも言えないのですが、梗概を読む限りでは、全然別の作品のように感じられてしまう。恐らくそれは、『朱雀家の滅亡』が純日本的な設定を持っているからでしょう。戦中の華族が天皇に捧げる忠義と、死地に赴く若者の捨て身の覚悟。

それはさて擱くとして、『朱雀家の滅亡』の二面性というものについて少し思うところがありました。これは、忠節の末路を嘆く芝居なのか、それともそれを推奨する芝居なのか。失われゆく秩序を慨嘆するのか、来るべき新しいまだ誰も見たことのない秩序を称賛するのか。こうした両面性は、貴族の没落を描くときには必ずや付随するものであり、チェーホフや太宰治の作品にも当てはまります。作家本人には、どちらかへの肩入れがあったのかもしれませんが、しかし個人的には、読む者/観る者がどちらにより自分の思いを託すのか、共感するのか、ということの方が大事に思われます。旧秩序の崩落か、新秩序の勃興か。三島由紀夫はどちらにより照明を当てていたのか、ということは既に証明されているのかもしれない。チェーホフは、どちらの肩を持っていたのか、ということも。よしんば今分からなくとも、将来、確かなデータによって一つの推定が裏付けられるかもしれません。でも、我々がどちらに共感するのか、ということは全くもって不確定な事柄であって、言い換えれば完全に自由です。ひとたび正解が提示されれば、そうではない感想は「誤読」として退けられてしまうかもしれませんが、けれどもわれわれの共感や感想には本来正解も間違いもありません。読者がどちらに与するのか、というのは、読者のその時々の状況によって大きく変わります。昨日の感想と明日の感想が違うことは大いにありうるわけです。

没落貴族の悲哀。それに共感するとかしないとか、そういった議論はあるいはもう古いのかもしれません。しかし新旧の交代はいつの世にもあり、ぼくらはいつもそのどちらかに属しています。もちろん、絶えず位置を変えながら。その意味では、『朱雀家』の物語は普遍的であり、ぼくらは常に問われているのかもしれません、「あなたはどちら側の人間ですか」と。

いや、違うな。なんだか違う気がします。でもよく分からないのでこれでおしまい。いずれにしろ、とてもおもしろい戯曲でした。

サド侯爵夫人

2012-04-02 23:45:27 | 文学
三島由紀夫『サド侯爵夫人』を読む。ご存知のように戯曲。

この作品は、かのサド侯爵を巡る6人の女性の対話劇であり、サド本人は舞台に登場しません。というのも、これは三島由紀夫によれば「女性によるサド論」だからであり、貞節を貫いていたサド夫人がなぜサドが牢から解放されるとなると別れてしまったのか、という三島の疑問を解消するために書かれた戯曲だからです。

しかしながら、サド侯爵は間違いなくこの戯曲の中心人物であり、女性たちは彼の周りを取り巻いているに過ぎません。まさにその取り巻き方を描いたのが本作です。いわば、主役不在の劇なのです。・・・こうした見方をしたいのは、世界文学史上には、やはり主役不在の劇が幾つか存在するからです。その最も有名な作品はベケット『ゴドーを待ちながら』であり、またロシアの文豪ブルガーコフも『アレクサンドル・プーシキン』という、プーシキン不在の戯曲を書いています。ブルガーコフの作品は、キリスト不在のキリスト劇になぞらえられることがあるそうですが、思えば「ゴドー」とは「God ゴッド」の謂いであるかもしれず、主役不在の劇は、しばしばキリストあるいは神を射程に捉えています。

とすれば、『サド侯爵夫人』という作品にも、キリストや神へのアレゴリーが忍ばされているのではないか、と勘繰りたくなるのが人情です。この作品自体や、澁澤龍彦による解題を読むと、三島由紀夫のサドは無垢の人として造形されていることが分かります。無垢ゆえの純粋さと残虐さという、両面価値性を体現しているのがサドなのだと。「悪の中から光りを紡ぎ出し、汚濁を集めて神聖さを作り出し」、「あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしている」、「天国への裏階段をつけた」サド。「悪の水晶」を創り出し、いやそればかりか我々の住んでいるこの世界がサドの創造した世界なのだと侯爵夫人ルネは語ります。創造主としてのサド。まさしく、サドは創造主にも比肩する存在として表象されており、悪徳の神なのです。サド侯爵とは自分自身なのではないかと考えていたルネ夫人は、しかしその思い違いに気が付きます。サドは、あまりにも遠くに、高くに行ってしまっている!だからこそ彼女はサドと別れる決意を、すなわち修道院へと籠る決意をするのです。その行為はしかし、見かけ上はサドからの離反を示しているものの、実際のところはサドにより肉薄するための手立てだったようにも思えます。悪の頂きの上、天国の近くにいるサドに接近するためには、神への帰依こそが近道だからです。サドのように悪行の限りを尽くすことのできない凡人にとっては。

ルネは、決して心変わりをしたのではありません。その貞節は徹底的でした。もしもこれを愛と言ってよいのならば、サドへの愛のために、ルネは修道院に入るのです。これが、人界を超越したサドに近づく最良の方法だからです。

この戯曲が一般にどのように解釈されているのかは知りませんが、ぼくは上記のような感想を持ちました。それにしても、第二幕での母娘の対立の緊張感と高揚感と幕切れの仕方は、すばらしかった。

命売ります

2012-04-01 00:37:30 | 文学
今日は風が猛烈でとても外出できるような天候ではありませんでした。

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図書館で本を眺めていたら、三島由紀夫の著作が目に留まる。急に彼の小説が読みたくなってきたのだが、全く彼らしくない小説を借りてきた。『命売ります』。

非常に俗っぽい筋立てに、俗っぽい(と言ったら言い過ぎだけども)テーマ、俗っぽい登場人物たち。自殺に失敗した若い男が「命売ります」の新聞広告を出すと、本当に命を買いたいという人間が現われて・・・という話。一見おもしろそうな、でもどこかで聞いたようなアイデアでもあるなあと思いつつ、しかし三島由紀夫がこういう題材をどう料理するのかと興味を持って読み進めてゆくと、意外なことに、全くらしくない。それなりにおもしろくはあるんだけども、軽さがイマイチ。重さがないならば、思いきって軽妙さを極めれば、それはそれで傑作にもなりえるのに、そうはならない。和製ハードボイルド、なんて解説で言われているものの、確かに主人公の男が絶倫ではあるが、しかしそういう雰囲気が徹底されているわけでもない。謎の組織が暗躍し、吸血鬼も登場するなど、荒唐無稽な部分もあるけれども、しかしやはり、軽みが足りない気がする。

重厚な長編ではもちろんないし、かといって徹底して軽快な読み物、というわけでもない。あえて通俗的な作品を狙っているとしか思えない出来だった。実際、この作品は『プレイボーイ』に掲載されたらしい。「三島文学」の中でどのように位置づけられているのかは知りませんが、自分のような一般人が読む限りでは、文豪の手すさびとしか思えないのだった。


追記。いまAmazonのレビューを見ていたら、全て絶賛だった。へー。そういえば、この小説の中で、無意味に関する記述があるんだけれども(というか無意味というものがこの小説で大きな意味を持っているんだけれども)、そこは感心した。ということを書き忘れていたので、ついでに。まあ感心したのはそこくらいだったんですけどね。