復元、仏国寺
真昼の日差しには変わりはないが、初秋の風が感じられるこの頃、朝早く井戸端に行くと気の早い落ち葉がいっぱいに落ちていた。枝の端でゆらゆらする霧の重さに耐え切れず落ちてしまったのだ。夜の森をかすめていく雨の音を寝床でよく聞く。夏にしぼんでいた熱情が吹き上がってきたようだ。雨に洗われた空はどうだと言うぐらいに高くなった。もはや暑くてくすんでいる夏の雲ではない。静まっていた病気がいきなり再発しようとしている。パッパッと払ってしまって出て行きたくなる衝動が。どこにも束縛されずに自由になりたい、その翼が広がってきた。こんな風にして昨日やってきた所が仏国寺。新たに復元された仏国寺だ。秋になるといきなり訪ねてくる慶州。新羅1000年の夢が香るソラボル。
初めて来た人にも見慣れた感じのする、そんなふるさとのような慶州。どこに行っても懐かしい姿だ。今では礎の石さえも埋もれている黄竜寺、その礎を見ても。そして鞍山である南山と左右に連なっている稜線だけを見ても心が満ちてほのかな香水のような息のできる故郷がまた慶州だ。
どこでもかつての都に行くと感じるように慶州にもどこかガランとした感じ、何かで満たしきれない切ない、そして船が発った船着場のようなそんな雰囲気が心を引くのだ。
その中でも仏国寺はなんとなく寂しく、切ない新羅1000年の残影を一抱え抱えた伽藍だ。欄干が落ちてしまった青雲橋、白雲橋の柔軟な曲線、色はあせても荘重な紫霞門、飛ぶように翼を上げた泛影楼、そして前庭には紫霞門の左右に見上げる釈迦塔と多宝塔の空間、、
このようなものが私たちに1000年の歳月を一っ飛びに飛び越えさせてくれた。しかし、もはやそのような記憶は完全に過去完了形だ。
復元された仏国寺はそのような回顧調の感傷の入る余地がない。多くの改修をしたのですがる余白がないと言うことだ。何よりも四方に張り巡らされた回廊をみるとかつて姿かを想像することができない。そしてきらびやかな色彩が1973年に立っている今日の私たちを意識させる。
仏国寺は4年かけて多くの人力と財力で健全に復元されたのだ。石ひとつが、垂木ひとつでもぞんざいにせず、すべてが科学的な考証によってほとんど原型通りに復元された。原型通りに復元されたと言うが、過ぎ去った1000年の歳月が返って色を失った感じだ。
関係当局と専門家の粘り強い熱情と誠意に敬意を表さずにはいられない。
その一方で私たちが寂しく思うことは、これだ。
ずっと切なく、寂しく思うことは、今となっては慣れ親しんできたあの仏国寺がなくなってしまったことだ。
1000年の歳月を経た伽藍の雰囲気がどこかに姿を消してしまったのだ。復元された仏国寺には、奥ゆかしい風景の音の代わりにたくましく力強いセマウル行進曲が鳴り響いているようだ。
原本はこちらから
真昼の日差しには変わりはないが、初秋の風が感じられるこの頃、朝早く井戸端に行くと気の早い落ち葉がいっぱいに落ちていた。枝の端でゆらゆらする霧の重さに耐え切れず落ちてしまったのだ。夜の森をかすめていく雨の音を寝床でよく聞く。夏にしぼんでいた熱情が吹き上がってきたようだ。雨に洗われた空はどうだと言うぐらいに高くなった。もはや暑くてくすんでいる夏の雲ではない。静まっていた病気がいきなり再発しようとしている。パッパッと払ってしまって出て行きたくなる衝動が。どこにも束縛されずに自由になりたい、その翼が広がってきた。こんな風にして昨日やってきた所が仏国寺。新たに復元された仏国寺だ。秋になるといきなり訪ねてくる慶州。新羅1000年の夢が香るソラボル。
初めて来た人にも見慣れた感じのする、そんなふるさとのような慶州。どこに行っても懐かしい姿だ。今では礎の石さえも埋もれている黄竜寺、その礎を見ても。そして鞍山である南山と左右に連なっている稜線だけを見ても心が満ちてほのかな香水のような息のできる故郷がまた慶州だ。
どこでもかつての都に行くと感じるように慶州にもどこかガランとした感じ、何かで満たしきれない切ない、そして船が発った船着場のようなそんな雰囲気が心を引くのだ。
その中でも仏国寺はなんとなく寂しく、切ない新羅1000年の残影を一抱え抱えた伽藍だ。欄干が落ちてしまった青雲橋、白雲橋の柔軟な曲線、色はあせても荘重な紫霞門、飛ぶように翼を上げた泛影楼、そして前庭には紫霞門の左右に見上げる釈迦塔と多宝塔の空間、、
このようなものが私たちに1000年の歳月を一っ飛びに飛び越えさせてくれた。しかし、もはやそのような記憶は完全に過去完了形だ。
復元された仏国寺はそのような回顧調の感傷の入る余地がない。多くの改修をしたのですがる余白がないと言うことだ。何よりも四方に張り巡らされた回廊をみるとかつて姿かを想像することができない。そしてきらびやかな色彩が1973年に立っている今日の私たちを意識させる。
仏国寺は4年かけて多くの人力と財力で健全に復元されたのだ。石ひとつが、垂木ひとつでもぞんざいにせず、すべてが科学的な考証によってほとんど原型通りに復元された。原型通りに復元されたと言うが、過ぎ去った1000年の歳月が返って色を失った感じだ。
関係当局と専門家の粘り強い熱情と誠意に敬意を表さずにはいられない。
その一方で私たちが寂しく思うことは、これだ。
ずっと切なく、寂しく思うことは、今となっては慣れ親しんできたあの仏国寺がなくなってしまったことだ。
1000年の歳月を経た伽藍の雰囲気がどこかに姿を消してしまったのだ。復元された仏国寺には、奥ゆかしい風景の音の代わりにたくましく力強いセマウル行進曲が鳴り響いているようだ。
原本はこちらから